狩野 恵輔(かのう けいすけ、1982年12月17日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(捕手、外野手)。群馬県渋川市出身。中学校では投手だったが、2年秋に主将となると同時に捕手に転向した。前橋工業高校では3年夏の群馬大会で大会新記録となる4本塁打を放ち、決勝で一場靖弘を擁する桐生第一高校と対戦するも最後の打者となり敗北。しかし、打撃センスを買われてのドラフトで阪神から3位指名を受け入団。高校時代は、パンチ力のある打撃と大人びた風貌から「上州の掛布」と呼ばれていた。パンチ力を秘めた打撃や、捕手にしては速い足などを生かすために、二軍ではの時点で外野手にも挑戦していた。しかし、翌から捕手に専念すると、シーズンの終盤に一軍初出場。2004年12月に結婚した。にはウエスタン・リーグで打率.348を記録。規定打席不足ながら、不足分の打席を全て凡退として計算してもリーグ最高打率なら首位打者に認定される規定により、チームでは1986年の吉川弘幸、1990年・91年の亀山努以来3人目となる首位打者を獲得した。同年オフの第2子誕生を契機に「これ以上二軍でくすぶって家族に迷惑をかけられない」と一念発起。金本知憲が通う広島のジムで金本と共にトレーニングを積み、正捕手である矢野輝弘の自主トレにも参加した。背番号も「63」から「もう後がない」という意味で「99」に変更。は浅井良や野口寿浩を押しのけて初の開幕一軍を勝ち取り、4月20日の対読売ジャイアンツ戦で延長12回に代打出場し、プロ初安打・初打点となるサヨナラ安打を豊田清から放った。西武では抑えとしてリーグ優勝と日本一に貢献した実績のある豊田から1軍での出番をほとんど得られなかった選手の一打だったこともあり、翌日のスポーツ新聞では大きく取り上げられた。翌日にはスタメン出場し、プロ初本塁打を記録。同年の阪神は右打者の不振が深刻で、本塁打は開幕から10試合目に投手のライアン・ボーグルソンから出たものが最初で、右打ちの野手が放ったものとしては19試合目の狩野のこの本塁打が初だった。こうしたチーム事情に加え、狩野自身も初安打の後1か月近く打撃好調でしばらくは代打の切り札的な存在になり、打撃不振だった正捕手の矢野に代わってスタメン出場も多かった。その後は相手の研究もあってジリジリと打率を下げたが、主に代打や代走要員としてほぼシーズン通して一軍に帯同した。は前年結果を出したこともあり次期正捕手として期待されていたが、3月に右ひじの手術を受けた影響で出遅れ一軍出場は12試合に留まった。は矢野が右ひじの故障で開幕に間に合わなかったこともあり、初めて開幕スタメン出場をした。その後も実質的に正捕手として投手陣をリードし、打撃でも勝負強さを発揮した。矢野が復帰した後も安藤優也や下柳剛以外の先発投手が登板した試合で捕手を務め、自己最多の127試合に出場し、二桁盗塁、リーグトップの敬遠数を記録した。ちなみに阪神生え抜きの捕手としては、1992年の山田勝彦の114試合、1988年の木戸克彦の121試合を超える出場数を記録した(しかし両者は130試合制での記録である)。同年オフに城島健司が加入したことから、出場機会を増やすため外野手へのコンバート話も一時持ち上がったが、結局この時は捕手を続けることが決まった。は一軍で開幕を迎えたものの、城島が正捕手となったために当初は出場機会に恵まれなかったが、前年の正捕手として、新加入の城島に投手陣の情報を伝えることもあった。やがて打撃と走力を買った首脳陣の判断で4月8日に調整のため二軍降格。ウエスタン・リーグの試合で実戦感覚を養いつつ、外野の守備にも就いた。連続フルイニング出場を続けていた金本が故障でスタメンを外れるようになったこともあり、4月20日に一軍再昇格すると同日の対広島東洋カープ戦で左翼手として先発出場し、シーズン初本塁打を放った。その後はなかなか出場機会を得られずに32試合の出場に終わったが、うち外野手としての出場が19試合で、捕手としての出場は1試合に留まった。10月10日のフェニックスリーグ・対横浜ベイスターズ戦で腰を痛め、翌月に椎間板ヘルニア除去手術を受けた。は外野手登録となったが、狩野自身は捕手と両立することを希望し、実際にブルペンに入って投手陣の投球を受けることもあった。手術明けのため春季キャンプは二軍スタートながらオープン戦から一軍に昇格していたが、程なくしてヘルニアが再発し、チームを離脱した。8月26日に一軍シーズン初登録され、その日の対東京ヤクルトスワローズ戦で5回裏に村中恭兵からシーズン初安打・初打点となる2点勝ち越し打を放ち甲子園球場でのお立ち台に立ったものの、シーズンを通した一軍出場数は10試合にとどまった。シーズンは、前年に再発したヘルニアによって腰の状態が芳しくなく、一軍での出場は7試合にとどまった。8月31日の広島戦で本塁打を放ったものの、シーズン終了後の11月13日には、翌年から育成選手契約を結ぶことが球団から発表された、背番号は「120」になった。は育成選手として、二軍で開幕を迎えた。シーズン途中の7月23日に支配下登録選手へ復帰したことを機に、背番号を前年まで付けていた「99」へ再変更。8月29日に復帰後初の出場選手登録を果たしたが、一軍公式戦では6試合の出場で10打数2安打(0本塁打)の成績を残すにとどまった。には、開幕から二軍生活を送っていた。しかし、腰痛で戦線を離脱した新井良太に代わって、8月29日にシーズン初の一軍昇格。当日の対ヤクルト戦でスタメンに起用されると、一軍では自身2年振りの本塁打を赤川克紀から放つなど、3安打4打点を挙げた。9月22日に出場選手登録を抹消されたが、福岡ソフトバンクホークスと対戦した日本シリーズでは、腰を痛めた新井貴浩に代わって急遽ベンチ入り。10月26日の第2戦(福岡ヤフオクドーム)6回表2死に代打で出場すると、ソフトバンク先発・武田翔太から球団史上初の日本シリーズ代打初打席初安打を記録した(詳細後述)。また、同月21日には、「日本プロ野球80周年記念試合」の「阪神・巨人連合チーム」のメンバーに選出。11月11日に阪神甲子園球場で開かれた試合では、6回裏に1番打者・亀井義行(巨人)の代打で出場すると、二塁打を含む3打数1安打1打点を記録した。には、開幕直後の4月4日に一軍へ昇格すると、主に対左投手用の代打として活躍。「代打の神様」と称される関本賢太郎が戦線を離れていたシーズン中盤には、「『代打の神様』の代役」と呼ばれるほど、勝負どころの代打要員として重用された。6月7日の対北海道日本ハムファイターズ戦と同月20日の対ヤクルト戦(いずれも甲子園)では、代打で適時打を放った末に、チームが勝利したことからヒーローインタビューを受けている。また、レギュラー右翼手の福留孝介が休養でスタメンを外れる場合には、外野手や3番打者としてスタメンに起用。代打からそのまま外野の守備に就くこともあった。しかし、代打からの出場でセンターの守備に就いていた9月10日の対巨人戦で、9回裏の第3打席に澤村拓一から右手に死球を受けた。さらに、試合後のレントゲン検査で、右手第5中手骨の骨折が判明。全治までに1ヶ月以上を要することが見込まれたため、翌11日に出場選手登録を抹消された。このため、一軍がレギュラーシーズン3位で迎えたポストシーズンでの出場機会はなかった。しかし、レギュラーシーズンでは、一軍公式戦66試合に出場。打率.274、3本塁打、13打点と活躍したことから、11月25日には推定年俸2,300万円(1,400万円増)で契約を更改した。また、この年限りで関本が引退したことを受けて、阪神生え抜きの現役選手では最年長の野手になった。2010年オフに外野手への本格転向が取り沙汰された際、藤川球児は、狩野がこの年すでに外野手としての出場のほうが多かったにもかかわらず、投手陣とばかり食事に行っていたことを挙げて「性格が捕手向き。(外野手転向は)もったいない」と、捕手との両立を応援した。特技は小さい頃から習っていたピアノ。鍵盤を叩くことで指先の感覚が鋭くなり、キャッチングにも活かせているという。兄がいて、小学校教師をやっている。中学生の時は生徒会長をしていた。登場曲にはトランスの様々な楽曲を使用している。2014年日本シリーズでの代打初打席初安打(前述)は、阪神打線がそれまで1人の走者も出せなかったソフトバンクの武田に向けて、チーム18人目の打者として初めて放った安打でもあった。翌2015年6月11日に福岡ヤフオク!ドームで催されたソフトバンクとのセ・パ交流戦では、武田の先発が予告されていたことから、一軍では自身初の指名打者としてスタメンで出場。この試合で先制本塁打を放つなど、武田との相性の良さを見せている。
出典:wikipedia
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