仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。血液型はA型昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任した。特に1980年代から90年代にかけて、10.19と呼ばれた名勝負や、阪神大震災後に『がんばろうKOBE』を合言葉に快進撃を果たし、率いたチームを11年連続でAクラス入りさせた。教員をしていた両親の間に生を受ける。父親は太平洋戦争にて1944年2月に戦死し、母の手一つで育てられた。1953年、東筑高校全日制課程商業科3年の時に夏の甲子園に投手として出場した。2回戦(初戦)で片岡宏雄捕手のいた浪商に0-3で完封負け。1954年に西鉄ライオンズに契約金30万円、年俸36万円で入団。投手として入団したが、1年目の春季キャンプにフリーバッティングでの投球を見た監督の三原脩から二塁手へコンバートを命じられる。以後キャンプでは首脳陣は仰木を二塁手として鍛えるため仰木に激しいノックを浴びせた。1年目から宮崎要に代りレギュラーに定着、同年のリーグ優勝に貢献する。1955年には規定打席に到達(40位、打率.235)、 1955年5月22日の松江でのトンボユニオンズ戦で、1試合6安打のパ・リーグ記録。以降長きに渡り中西太、豊田泰光らと共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。打率は低かったが、チャンスメーカーやつなぎ役としての役割を果たし、堅実な守備でもチームの柱となる。1956年からの3年連続日本一に貢献。入団以来、遊びの合間に野球をやっていたというほどの遊び好きが高じ、3年目には三原から西鉄の合宿所に近い大円寺に毎朝10時に来るよう命じられる。ここで毎朝三原から野球のことや「ただ酒は飲むな」という一般常識の話などを説かれた。1959年に三原が西鉄の監督を退任し、このまま遊び好きのままでいいのかと自問し、以後練習に打ち込むようになる。打撃コーチの坪内道則と共に打撃の強化に務めた。1960年にベストナインに選出され、1961年にはオールスターに初出場。しかし1963年にトニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンの加入で出場機会が減る。1967年限りで現役を引退。1968年から69年まで西鉄のコーチを務めた。1970年、三原脩が監督を務めていた近鉄の守備走塁コーチに就任、主に攻撃時は三塁コーチを担当、1979年の日本シリーズ第7戦における「江夏の21球」が伝説になった広島との日本シリーズでも三塁コーチを担当していた。1974年から1981年まで近鉄の監督だった西本幸雄は「仰木はベンチのサインを1度も間違えなかった」と語っている。1983年オフ、ヘッドコーチ昇格。1987年オフ、岡本伊三美監督の後任として近鉄監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末「10.19」でリーグ優勝を逃した。この年の激烈な優勝争いは球史に残るドラマティックなものであった。前年度最下位のチームを率いて当時黄金期の西武をあと一歩のところまで追い詰めた。様々な奇策による好采配は、恩師三原脩の「三原マジック」に倣って「仰木マジック」と称された。翌1989年にはオリックス、西武との三つ巴の優勝争いを演ずる。この年の優勝争いもまた激しいものであったがついに2位オリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)でチームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年読売ジャイアンツを相手に行われた日本シリーズでは、3連勝の後の4連敗を喫し、チーム初の日本一を逃す。その後は毎年Aクラスという成績を残すものの1991年 - 1992年と2年連続西武との優勝争いに敗れ、1992年をもって監督を勇退。近鉄監督時代には、野茂英雄や赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。1993年の1年間テレビ朝日(ANB)・朝日放送(ABC)・九州朝日放送(KBC)・スポーツニッポンの解説者を務めた後、1994年よりオリックス・ブルーウェーブの監督に就任。就任後、これまで二軍生活を続けていたイチローをすぐに一軍で抜擢し大活躍させ、その他にも前任の土井正三監督時代から期待されながらイップスに陥っていた田口壮を外野手として起用し成功させるなど、土井の時代に停滞していた才能を次々に開花させた。就任1年目の1994年のシーズンに早速チームを2位に浮上させると、翌年の1995年には阪神・淡路大震災に遭い、一時は試合開催さえ危ぶまれた状態から、『がんばろうKOBE』を合言葉に、オリックスとして初のリーグ優勝に導く。日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルトスワローズと対戦するが、1勝4敗で日本一ならず。翌1996年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツと対戦。4勝1敗で巨人を下し、監督として初の日本一に輝いた。その後リーグ優勝を果たすことはなかったが、1999年まで6年連続でAクラスを維持(近鉄監督時代を含めると11年連続)し続けた。イチローや田口がメジャーリーグに渡り、2年連続でBクラスとなった2001年限りで監督を退任した。なお、近鉄のコーチ時代はヘッドコーチ昇格まで、上記のように三塁コーチを担当していたが、ブルーウェーブでの最後の1年間は130試合を通して、三塁コーチに立っていた。ブルーウェーブ退任後は阪神タイガースの次期監督として有力視されていたが、結局久万俊二郎オーナーの意向により有耶無耶となった。オリックスの監督を退任した後、2002年から2004年までABC、スポーツニッポン解説者を務める。また、2004年には野球殿堂入りを果たす。同年末に行われた記念パーティーでのスピーチで「今日のパーティーでございますが、これは私の生前葬だと思っております」と語っていた。実はこの時、既に肺癌が発覚しており、闘病を続けていたというが、仰木は生前、癌に侵されて闘病している事実を公にすることはなかった。西鉄ライオンズ以来の盟友である中西太や金村義明ら一部の球界関係者のみがその事実を知っていたが、仰木に懇願されて内密にしていたという。2005年、かつて自身が率いた近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併によって誕生した新生「オリックス・バファローズ」から監督就任要請を受け、4シーズンぶりの現場復帰を果たす。この時70歳。これは当時の歴代最高齢での監督就任だった(翌年に野村克也が更新)。闘病を続けていた肺癌は完治していなかったが、「グラウンドで倒れたら本望」と、病をおして監督に就任したという。就任後、グラウンドでは病状を隠し気丈に振舞っていたものの、たびたび過労によると思われる居眠りやベンチに腰掛けたまま動かない場面も目立った。特に後半戦の西武ドームでの試合の際には、球場の階段を自力で上ることすらできず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りしていた程、明らかに体調を崩している様子が周囲から確認されていたという。この2005年は終盤まで粘りながら、最終的には4位。プレーオフ進出を逃したものの、3年連続最下位に沈んでいたチームを躍進させた。西武ドームでの最終戦後、レフトのオリックスファンに2、3度頭を下げ「ありがとう」と口にし、そのままセンターバックスクリーン(大道具搬入口)から外付けのハイヤーに乗り込んだ。その後球団から監督続投要請を受けるも、高齢と前述の健康状態を理由としてその年限りでの退任を決め、最終戦の翌日に記者会見を開いて監督引退と球団のシニア・アドバイザー(SA)への就任を発表した。監督引退後、体調が急激に悪化して入院。SA就任の2ヶ月後の12月15日午後4時10分、肺癌による呼吸不全のため、福岡県福岡市内の病院で死去。。法名は「仰崇院釋耀彬」。仰木の死去の報に接し、同い年でプロ入りも同期の東北楽天ゴールデンイーグルス監督就任間もない野村克也は「もう一度監督としてアイツと戦いたかった…」とコメントするなど、死を悼む声は球界だけでなく各方面からも数多く寄せられた。葬儀は仰木の意向により密葬にて営まれ、「天国に送る会」は2006年1月21日午前11時からスカイマークスタジアムで行われた。オリックスは、仰木の遺志を尊重して球団葬としなかった。また出身地の福岡県中間市でも、神戸での会に日時を合わせ、友人らが「天国に送る会」を開いている。会の世話人には、西鉄時代の同僚だった稲尾和久らが名を連ねた。
出典:wikipedia
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