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つげ義春

つげ 義春(つげ よしはる、戸籍上は1937年10月30日あるいは10月31日(実際は4月の生まれ) - )は、漫画家・随筆家。デビュー当初はつげ・よしはると表記していた。本名の柘植 義春名義による作品もある。またナカグロを入れてつげ・義春と表記されたこともある。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。テーマを日常や夢に置き、旅をテーマにした作品もある。『ガロ』を通じて全共闘世代の大学生を始めとする若い読者を獲得。1970年代前半には「ねじ式」「ゲンセンカン主人」などのシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンを獲得した。漫画家のつげ忠男は実弟。妻藤原マキは、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。身長175センチあるいは176センチ。1937年、岐阜県恵那市の豪農一族の生まれで東京都伊豆大島の旅館に勤める板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、東京市葛飾区立石の中川べりの船宿(母の実父の家)で生まれる。戸籍上は10月30日生まれであるが、実際は同年4月生まれ。つげの出生時、父・一郎は伊豆大島におり、臨月の母が兄を連れ福島県石城郡四倉町(現・福島県いわき市四倉町)から大島(大島町元町)へ引越移動中急に産気づいたため、葛飾の実家に緊急迂回しての早産であった。出産時、産婆の来る前に母がつげを生み落としてしまったので、母の実父が泣き声もあげないつげに人工呼吸を施し、しまいには両足を持って振り回したという。つげ義春の父・柘植(つげ)一郎は、腕のいい板前職人で、東京都大島町元町の最も大きく格式も高かった千代屋旅館に勤めていた。職位は板長=総料理長。千代屋は当時、皇族や政府要人が来島の際に必ず泊まる御用達旅館でもあった。また、「南風」「大島を望む」「伊豆大島風景」等を描いた画家・和田三造を始め、昭和初期の著名な画家達が定宿にしていたという記録もある。千代屋旅館の記憶について、つげは「縁の下に大きなイタチが住んでいた記憶がある」と後年回想している。つげが4歳頃まで暮らした伊豆大島は、家族が仲睦まじく経済的にも安定した時期であった。つげ義春にとって伊豆大島は、父が板長として元気に仕事をしていた時代であり、波乱の多い生涯において唯一良い思い出の故郷である。1987年3月、雑誌「COMICばく」(日本文芸社)に発表した、密航を題材にした自伝的作品「海へ」において、大島の「三原山」「あんこ娘」「椿」「大島節」等を背景に、板長の父とあんこ娘姿の母の周りに3人の子(兄の政治と義春と弟の忠男、母の初産であった長女の守子は、つげが誕生する前、3歳時にすでに大島で死亡していた)、幸せだったつげ一家の情景が6カットに亘り描かれている。1941年、5歳、三男・忠男が生まれた年、母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ転居。父は東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は自宅で夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を立てる。経済的には山をもてるほどの余裕があった。大原町では幼稚園に入園したが、集団生活になじめず、3日で退園。すでに臆病で自閉的な性格があらわれていた。この年、父は病に倒れ東大病院へ入院。父・柘植一郎は、自分の病気の悪化に伴い、入院先の東大病院から妻・ます宛に手紙を出している。「…自分の病気(アジソン病)はもう治りそうにない。政治や義春や忠男は元気でいるでしょうか、自分にもしものことがあったら、子供たちのことはくれぐれもよろしくお頼み申し上げます」。母が箪笥の奥にしまっていたこの手紙を偶然見つけ、こっそり読んだのは12〜13歳の頃だったと、つげは回想している。1942年、5歳のとき、父・一郎が前述のアジソン病により42歳で死去。死の直前の父は錯乱状態であり、東京の出稼ぎ先の旅館の布団部屋に隔離され、布団の山の間に逃げ込み、そこで座ったまま絶命した。母はつげとつげの兄を引きずるように父の前に立たせ「お前達の父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫したという。1943年、葛飾区立石に転居。母は軍需工場に就職。一家4人で社宅の4畳半で生活する。。あまり外出せず兄・政治と弟を相手に遊ぶ。貧しい母子家庭で苦労して育つ。1944年に葛飾区立本田小学校(当時は国民学校)に入学。この頃から、絵を描いて遊ぶようになる。当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。学校嫌いであったつげは空襲で休校になるのがうれしく、毎日空襲があればよいと思っていた。この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。また、近くにあった高射砲がB-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。1945年3月10日の東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉に学童疎開するが、なれない集団生活からかこの頃より赤面恐怖症を発症する。唯一の楽しみはいつでも温泉へ入れることであった。なお、「葛飾区史」よると葛飾区の学童疎開は5214名で東京都の指導による割り当てで深川区とともに新潟県に決定され、滞在先は中城名香村の10軒の旅館だったが、つげが滞在した旅館は板倉屋、清水屋、和泉屋、香雲閣、豆腐屋のいずれかだろうと推測されている。つげの疎開地で終戦を迎え、10月に兄と共に東京に戻り、葛飾区内で転々と間借り生活を送るようになる。母は、海産物の行商、仕立物の仕事で生計を立てる。翌1946年、9歳のつげは母のモク拾いなどについて回って過ごしていた。この頃母が再婚するが、養父との折合いが悪く、乱暴な義父の仕打ちにおびえる日々が続く。またこの頃より漫画、書物に興味を覚える。4年生の頃に手塚治虫のマンガに熱中しはじめ、新刊が出ると本屋へ走る日々であった。貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3ヶ月に一度くらい帰ってくる泥棒の義祖父を待ちわびて買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ手持ちのおもちゃをおもちゃ屋に売ってお金を工面した。それでも手に入らないときは万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった。義祖父には可愛がられ、しばしばマンガ本を買ってもらう。しかしつげの母は子供のころにこの義祖父の養女となったが過酷な仕打ちを受けていたため、その後窃盗で逮捕され1年間の服役のあと帰ってきて泥棒を廃業し無収入になったときには、義祖父を冷たい態度であしらったという。1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。つげ自身はベーゴマに熱中し、横井福次郎、沢井一三郎、大野きよしのマンガや南洋一郎の冒険小説を読む。1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。母は千葉から海鮮物を仕入れ行商する一方、義祖父が収入を支え、つげも兄と共に闇市でセルロイドのおもちゃを売る商売を始め、安価であったためよく売れた。また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する。こうした生活で1年休学する。1949年、6年生で初めて船員になる夢を抱いている親友Oができ、つげ自身も海が好きであったため、船員になるための勉強を一緒にしたりし将来を誓い合ったりした。Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。田端義夫、美空ひばり、ターキーの娯楽映画などを好んでみる。また、手塚、東浦美津夫、田中正雄のマンガを読む。一方、自閉・赤面癖・対人恐怖症が進行し、小学6年生の時には運動会で多くの観客の前で走るのを恐れ足の裏をカミソリで切る。1950年、親友は中学校に進学し、つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職することになるが、残業、徹夜、給料遅配が続く。つげは1991年のインタビューで、「人間の屑っていうか吹き溜まりみたいな所で、非常に乱暴な世界でした。クロムっていうのを日常的に使ってるから癌とかで悲惨な死に方している人も随分いましたね」と回想している。また、手に着いたクロムの黄色い染みを落とすため、つげは塩酸や硫酸の原液で毎日手を洗っていたという。メッキ工場での経験は1973年に発表された『大場電気鍍金工業所』に実話に近い形で描かれる事になる。1951年、14才の頃の海への憧れは、せつなさを通り越し夢中になるほどであった。海で暮らすためには船員になるしかないと思いつめ、海員養成講座を通信教育で受けたり、横浜へ出かけ停泊する船を見学したりする。転々としたメッキ工場も労働条件が厳しく、母が製縫業をはじめ、つげも手伝うが義父との生活が苦痛であり、また赤面恐怖症などから鬱屈した心情になり密航を企てる。父親が元気で、家族が幸せだった伊豆大島(大島町)に帰りたい望郷の念も日増しに強まった時期であった。ある日、船員になるつもりで横浜に向かい密航を実行するが、船員に見つかり警察署で一晩を明かす。翌1952年にも横浜港からニューヨーク行きの汽船(日産汽船日啓丸10000t)に一日分のコッペパンとラムネだけを持って潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の田浦海上保安部に連行されるが、船内ではケーキや冷奴(船内には豆腐製造機もあった)の差し入れを受けたり風呂に入れてもらうなどの厚遇を受ける。日産汽船の重役を乗せた海上保安庁の巡視艇へ移され、振り返ると日啓丸の甲板には乗務員がずらりと並び手を振っていた。その瞬間、汽笛が大きく鳴らされた。。密航に失敗した後は家にいるのが気まずく、先の親友Oの中華そば屋で出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。映画館の中では、彼女に手を握られたがつげは決まりが悪くずっと俯いていたという。その後、少女は店に来るやくざ者に騙されて堕落してしまう。1953年、再びメッキ工に戻り兄と共にメッキ工場を経営する夢を抱いたが、赤面恐怖症はひどくなり、一人で部屋で空想したり好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す。当時、豊島区のトキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める。その後、メッキ工場に勤めながらマンガを描く。1954年10月、雑誌『痛快ブック』(芳文社)の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で漫画家デビューを飾る。その後、一コマ、四コマなどの作品が少年誌に採用され始め、母の反対を押し切ってメッキ工を辞める。自身の作品を持って1週間ほど多くの出版社を回り10軒目の若木書房でようやく採用され、1955年5月に『白面夜叉』で若木書房から正式にプロデビュー。18歳であった。当初は一冊分(128ページ)買取3万円で貸本漫画に数多く執筆していた。この頃、永島慎二・遠藤政治と親交を持つようになる。新漫画党の集まりにも度々参加するも人見知りが激しく、トキワ荘系の漫画家とは、それほど交流を持つことはなかったが、トキワ荘へ引っ越す前の赤塚不二夫とだけは、赤塚の部屋に出入りして、漫画論を交わしたり泊まったりしていた。手塚治虫の影響を強く受けた『生きていた幽霊』(56)やトリック推理ものである『罪と罰』を契機として江戸川乱歩的なデカダンス風の推理ドラマをはじめ、『四つの犯罪』では初めて作者の温泉への憧憬もうかがわれる。探偵もの『七つの墓場』や『うぐいすの鳴く夜』、『おばけ煙突』、『ある一夜』なども描かれた。これらの作品は、ストーリーとしては完成度が高いもので、『ガロ』時代の旅ものを思わせるユーモアの片鱗をも随所にちりばめられていた。しかしながら『不思議な手紙』などの暗いタッチが主流を占め、当時の貸本マンガの主要読者層だった小学校高学年〜中学生からは不評を買うこととなり、出版社からももっと明るい作風を要求された。翌1956年には早くも創作に行き詰まり、岡田晟の手伝いをするようになり、クラシック音楽とコーヒーに傾倒するようになる。J.S.バッハ以前の音楽を愛好し、特に宗教曲、ルネッサンス音楽には造詣が深く、現在に至ってもモンテヴェルディ、ドラランド、シャルパンティエ、タヴァーナーなどをよく聴く。この当時は池袋の「小山」、高田馬場の「らんぶる」などの名曲喫茶へしばしば通っていた。一方で、作品に音楽が登場する場面は意外に少なく、その後の作品を含めても「四つの犯罪」、「やなぎや主人」、「散歩の日々」くらいである。漫画家になって以降も赤面恐怖症はさらに悪化。家族とも顔を合わせるのが苦痛で部屋を仕切ったり、押入れにこもりじっとしたりしていた。通信療法も試すが効果はなかった。「女を知れば度胸が出るかもしれない」と考え、自転車で赤線へ赴く。3つ年上の女に親切にされ外へ出ると急に勇気が出たように思え、嬉しさで涙を流しながら中川の土手を自転車を走らせたが、数日して彼女に会いに行くと別の客が付いており、胸が張り裂けそうな思いをする。その後、赤線へ行くことはなかった。やがて、家を出て高田馬場に下宿する。1957年、錦糸町の下宿に転居。女子美大生との交際や喫茶店「ブルボン」への出入りの中で仕事を怠けるようになり困窮。血液銀行へ通っての売血を経験する。こうした中、大阪から上京した劇画家辰巳ヨシヒロと知り合う。1960年、「コケシ」という渾名の女性と知り合い、大塚のアパートで同棲を始める。精力的に作品を書くようになったが、貸本漫画で2人の生計を立てることは難しく、安保闘争も知らぬまま極貧の生活を送る。1961年、主に貸本漫画を描いていた三洋社が倒産し、アパートを追い出されて女性とも別離。1962年には元の下宿に戻ったが、作品はなかなか売れず、下宿の支払いを2年分も溜めたため、自ら望んで食事を1回に減らしてもらい、便所を改造した一畳の部屋に移った(「義男の青春」には、この部屋に閉じ込められて8年間にわたり苦悶の日々を送ることとなった、とあるが、随筆と異なり作品である上に年数も合わない)。家主が経営する装飾店に勤めて、フスマ張り替えなどの仕事を手伝う。同年、アパートで睡眠薬「ブロバリン」を大量に飲み自殺をはかるが、病院に担ぎ込まれ未遂に終わる。家主の勧めで創価学会に入信させられたが、宗教に興味が無く、不真面目な信者であった。1963年、装飾店が倒産し、再び漫画を描くようになったが、娯楽作品を書くことに苦痛を覚えるようになる。貸本漫画業界自体が衰退していくと辰巳ヨシヒロなどの勧めもあって、従来の時代劇や推理物に加えてSFや青春ものなど様々なジャンルに手を染めるようになり、一方、さいとう・たかを、佐藤まさあき、白土三平などこの頃の人気漫画家の絵柄を真似ることも要求される。仕事仲間であった深井国がしばらく同居する。1964年、のちに『池袋百点会』(1984年)に「ランボウ」として描かれる喫茶店「ブルボン」通いが続く。1965年、田端で行なわれた貸本漫画家の集まりで白土三平や水木しげると知り合う。『ガロ』創刊当初、社長の長井勝一と三洋社時代に一緒に仕事をしたことのある白土がつげ義春の所在を誌上で尋ね、それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになった。1965年、「噂の武士」で『ガロ』8月号に初登場。10月、白土はつげを千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に招待し、また赤目プロのアシスタントであった岩崎稔から井伏鱒二を読むよう勧められる。これらの経験からつげは旅に夢中になり、のちの一連の「旅もの」作品として結実させた。やがて、生活のために水木のアシスタントを1年半ほど務め、調布に転居。ガロ誌上でつげを名指しで「連絡乞う」と広告を載せる等、水木本人からの強い要請もあったという。なお、つげは当時『ガロ』や青林堂の存在を知らず、尋ね人の広告は石川球太から教えられて知った。娯楽作品意識から脱却したつげは、1966年2月号の「沼」以降、「チーコ」など作家性の強い短編群を続けざまに発表する。しかし当時の「カムイ伝」目当てでガロを買う読者層には主に「暗い」という理由(当時の読者欄より)であまり評価されなかった。特に「沼」は不評で、マンガ家を廃業して凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたこともある。だが、一部マニアックな読者からは高い評価を得、1967年3月創刊の日本初の漫画批評誌『漫画主義』(同人:石子順造、山根貞男(当時は「菊池浅次郎」名義)、梶井純、権藤晋)は、つげ義春の特集を組んだ。1967年には水木プロの仕事量が増え、右手の腱鞘炎を患う。また、この年には井伏文学からの影響で、4月に友人の立石と秩父、房総を、8月には伊豆半島に、また秋には単独で東北の湯治場(蒸ノ湯温泉、岩瀬湯本温泉、二岐温泉)などを中心とした旅行をする。その際、旅に強烈な印象をもち、また湯治場に急速に魅かれるようになる。このときの旅の印象はこの年後半から翌年にかけての一連の「旅もの」作品として結実する。また、このころ旅関係の書物や柳田國男などを熱読する。この年にはユーモラスな世捨て人的生活の日常スケッチである『李さん一家』(6月)や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』(10月)、小さな村の騒動記『西部田村事件』(12月)、そして翌1968年には紀行文学のスタイルを借りた『二岐渓谷』(2月)、『長八の宿』(1月)、『オンドル小屋』(4月)などを立て続けに発表する。しかし、旅は必ずしもつげの心を解放するものとは言えず、群馬県湯宿温泉を訪ねた時には打ち捨てられたような旅館に強烈な孤独と世捨て人の境地を味わい、その経験は仙人のような犬と旅人の心境を綴った物語『峠の犬』や雪国の孤独な旅を描いた『ほんやら洞のべんさん』に結実し、1968年の『ねじ式』と『ゲンセンカン主人』に結実する。『ねじ式』は養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験が元になっているが、作風は前衛的でシュールである。つげ本人は「ラーメン屋の屋根の上で見た夢。原稿の締め切りが迫りヤケクソになって書いた」と語っている。こうした作風は、漫画評論誌の『漫画主義』で評価されたが、漫画業界からは異端扱いされて屈辱を味わう。1968年6月頃には『もっきり屋の少女』を描き上げ『ガロ』8月号に発表したが、9月には自分の存在意義に理解できず、精神衰弱に苛まれ、2,3度文通を交わしただけの看護師の女性と結婚するつもりで九州への蒸発を決意したが、10日で帰京。翌、1969年には状況劇場の女優藤原マキと知り合う。おりしも、時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝い、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世相を反映しアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。この作品に関しては多くの精神分析的解釈が試みられたが、つげはそのいずれをも「全然当たっていない」と一笑に付している。つげは、『アサヒグラフ』(朝日新聞社 1969年2月14日号“不条理”なマンガ家 つげ義春)で、この作品にコメントし「時間・空間と全く関係のない世界―それは死の世界じゃないんだけど―それを自分のものにできたらと思っている。『ねじ式』ではそうした恍惚と恐怖の世界・異空間の世界がいくらか出ていると思う」と述べている。『ねじ式』に関しては多くの評論家や詩人、文化人などがそれぞれの立場から多くの批評を試みた。詩人の天沢退二郎は、「徹底したプライベートな視線に貫かれた作品空間がつげ作品の特徴だが、『ねじ式』ではその空間がさらに異様なものになっており、作者そのもののような主人公(一人称)は自らを踏み外して異空間へ入っていき、もはや作者とは思えない主人公が悪夢の中にいる。その主人公とは“悪夢の中のわれわれ”なのだ。つげ作品を読むことは、夢を見ることなのだ」と述べ、つげ作品の根源的コワサにふれ絶賛した。石子順造は“存在論的反マンガ”と呼び「自然と人間が同じ位相にあり、つげは日常のただなかにある奈落を見ている。つげの漫画は狂猥な現代の文明状況の中で生まれ死ぬしかないぼくらの生の痛みと深くつながっている」とし、つげ作品を読むことは「恍惚とした恐怖の体験をすること」だとした。白土三平作品が”唯物史観漫画として論議されたのに対し、つげ作品は「意識」「存在」「風景」「時間」といった言葉で盛んに論じられた。当時の生活は、「毎日が空白のつらなり」のようなもので、昼頃目覚め洗顔後、散歩に出ては本屋の店先を冷やかし、喫茶店へ足を運び片隅の暗がりでポツンと座りボーッとする。間が持たないと思うと仕方なく漫画のアイデアを考えることもある。2時ころには窓を閉め切ったままの一人暮らしの薄暗い部屋に戻り、座ったり寝転んだりを繰り返し、眠気が来るまでボケっとする。不眠症のため午前3時ころに睡眠薬を飲む。食事は散歩のついでに食堂で済ませ、あるいは喫茶店のモーニングサービスのトーストで我慢し、夜はパンかインスタントラーメンを作る。これが毎日繰り返される。当時は「おそらく日本でいちばん寡作でしょう」と自称するほどで生活費確保のため水木プロダクションの手伝いを月に1週間ほどし「適当に食えるだけ取ればやめてしまう」生活ぶりであった。また、当時「意識がを拒否する意識が自分の中にある」とし、このように発言している「ここにコップがありますね。こういうものが時どき“ものがある”というふうに見えるんです。その時の恍惚とした気持ち。そうなんです。自分自身が«もの»になれたらといつも思っているんですよ」。またつげが当時よく見た夢に「山と澄み渡った空、鮮やかな天然色の風景が眼前に広がり輝くほどに明るい。しかしその風景は何ひとつ動かず時間が止まったようで、ぼく自身は風景と断絶しており、まるで客席から映画のスクリーンを見るような関係にある。その風景は、ぼくを恍惚とさせ、同時にすごく恐怖させる」とも発言し、睡眠薬を常用するのはその“悪夢”を見るためでもあったという。(『アサヒグラフ』(朝日新聞社 1969年2月14日号)。1970年、調布市内に転居し、藤原と同居するようになる。ガロにおける最後の作品となった『やなぎ屋主人』では、劇画風のタッチを編み出し再度の変化を見せつけたが、予想外に巻き起こったつげブームにより印税収入が入ったせいもあり、1970年頃からだんだん寡作になっていく。同じ年に、『アサヒグラフ』の連載で紀行文を描き、夫婦で旅行をした。これをきっかけに、翌1971年には東北・瀬戸内・奈良・長野・会津へ、1972年には北部九州、1973年には長野の秋葉街道、福島の湯岐、二岐温泉を巡る旅行を行なう。この頃から、都会を離れて暮らしたいと思うようになり、千葉の大原付近の土地を物色したり、喫茶店経営を考え家賃が大変に安い六畳一間の住居付きの荻窪駅前に転居したりする。しかし開業しないまま2ヶ月で再び調布に転居。1974年には寡作はさらに進行し、生活が困窮。この頃、注文なしに描いた『義男の青春』を双葉社『漫画アクション』へ持ち込むが、75ページの一挙掲載は不可能だから3分割するように、ついては1回24ページごとに物語の切りをつける形に直すようにと注文されショックを受ける。1975年には妻が京王閣競輪でアルバイトをするほどになる。折しも、11月19日には長男が誕生し、その約1ヵ月後の12月25日に正式に入籍。昔のマンガ家仲間は、つげについて「あんなやさしいひとは見たことがない。つげさんが結婚したとき軽い嫉妬を感じた」と述懐している。しかし、長男の誕生は、つげにとってむしろ精神的不安定をもたらす。1976年1月24日、NHKでドラマ『紅い花』の試写会とその後の『ガロ』に掲載するための鈴木志郎康らを交えた座談会に出席するが、その帰路の電車内で初めてパニック障害様の不安発作に襲われる。3日後の27日にはNHKの佐々木昭一郎より原作料を受け取るが12万円であった。うち5万円は佐々木個人からの謝礼で、NHKの原作料は7万円であった。NHKの謝礼は学歴で決まると聞いていたつげは、自分は小学校卒だからこんなに安いのかと暗澹たる気分になる。同年に酒井荘から近くの富士マンションに転居、『近所の景色』に実名で登場する。翌1977年には弟、忠男の住む千葉県流山市江戸川台に近い柏市十余二の借家に転居、さらに1978年に調布市の多摩川住宅へと転居を繰り返す。『ねじ式』によって、つげは芸術漫画家という烙印を押しつけられ、それによって発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになった。当時、徐々に進行しつつあったノイローゼの治療の意味もあって、つげは見た夢をノートに綴っていく『夢日記』に夢中になり、『夢の散歩』(1972年)という見た夢をそのまま漫画化するような実験を試みる。そして、1976年の『夜が掴む』以降、夢日記の漫画化を本格化。夢のシュールで漠然とした風景を描くために、つげはパースをわざと狂わせた絵を意図的に描くようになる。『アルバイト』(1977年)、『コマツ岬の生活』(1978年)、『必殺するめ固め』、『ヨシボーの犯罪』、『外のふくらみ』(1979年)、『雨の中の慾情』(1981年)などが描かれた。この当時より、女性の肉体をリアルに豊満に描く傾向が強まり、作品に独特のエロティシズムをもたらすようになる。かつてのおかっぱの少女は、若夫婦ものの妻に受け継がれるが、すでにかつてのような神秘性は失われている。これはつげ自身の述懐によれば、女性にかつてのような憧憬をもはや抱かなくなったからである。1977年、妻がガンにかかり、手術を行なう。結果は良好だったが、心身に不調をきたし、ノイローゼが進行し、1980年には不安神経症と診断される。森田療法を受けるが、病気の深刻さに自殺を決意。しかし、妻子がいることを思い耐える。漫画を描くことを苦痛に感じて他に職を求め、1981年に古物商の免許を取得。「ピント商会」を設立し、古本屋の経営を目指して古本漫画を収集する。また、中古カメラを質屋で安く仕入れて自分で修理し、マニア向けに転売したところ、思わぬ収入になった。成功の秘訣は、相場よりもかなり安く売ったことである。これは闇市でアイスクリームやおもちゃを安く売り成功した体験が元になっており、つげのしたたかな一面をあらわしている。そこで「中古カメラ屋」に転業を試みたが、翌1982年には安い中古カメラが入手できなくなり、この「商売」は断念した。また、『無能の人』に描かれた「売石業」も、実際に試してみたが、うまくいかなかった。作家として1983年3月から「小説現代」に「つげ義春日記」を発表するが、読み物として若干私事を書きすぎたため妻に怒られ、11月で中断。妻との悶着が続いたことで、ノイローゼは悪化の一途を辿ることになる。1984年、季刊漫画雑誌『COMICばく』が創刊され、毎号漫画を描くようになったが、「マイナー意識の強い自分」の作品が主体となったことに困惑する。これら「駄目人間」としての体験を描いた『無能の人』(1985年)を刊行。つげ独自の暗さやユーモアは健在であり人気を博した。この間も仏教書や水泳での治療を試みたノイローゼだったが、発作性から慢性に移行。1987年春先から強度の不安神経症の発作に悩むようになり、3月発表の自伝的密航記『海へ』の後、6月・9月に発表した『別離』をラストに、仕事が一切できなくなる。気晴らしに子供と一緒にファミコンで遊ぶようになり、超高難易度で知られた「スーパーマリオブラザーズ2」をクリアしたことが桜玉吉らゲーム業界の人間の中で話題となる。1988年には自己否定の深化から1人山奥で住んだり、乞食になることを夢想するようになり、山梨県秋山村を訪れて場所探しをする。同年、実売5千部だった『COMICばく』は第15号をもって休刊し、事実上の休筆状態に追い込まれる。以降、エッセイや旅行記等の文筆活動は継続するものの、漫画制作はずっと休止しており今日まで新作は発表されていない。翌1988年には自己否定はさらに深化、山奥に隠棲することや乞食になることを夢想、宗教に惹かれながらも同時にどうでもよいとする開き直りの心境も経験。つげは旅を好み、旅を題材とした作品も多く描いている。『初茸狩り』を始め『海辺の叙景』、『紅い花』、『西部田村事件』、『二岐渓谷』、『オンドル小屋』、『ほんやら洞のべんさん』、『もっきりやの少女』、『庶民御宿』、『会津の釣り宿』など多くの作品は実際の旅の印象から生まれたものである。川本三郎は自著の中で「つげ義春には旅の漫画が実に多い」と述べている。旅そのものを描いた作品でなくても,つげの作品には旅の雰囲気が濃厚なものや旅人の心理が反映されたものがある。鄙びた山村、漁村、湯治場、宿場町、歴史ある古い町などを好むが、これはつげに隠棲への断ちが思いがあるためである。海外へは行っていないと思われるが、国内でも北海道、和歌山県、島根県、山口県、宮崎県、鹿児島県は訪問していない。北海道を訪問していない理由は『ガロ』1993年8月号収録の『つげ義春旅を語る』で述べられており、「北海道はやっぱり歴史が浅いっていうイメージがあってね。あと何となく遠いっていう感じがするんですよね。」という理由であるほか、2014年の『東京人』7月号誌上で川本三郎とのインタビューに答え「お寺などは別にして、瓦屋根の普通の民家がない」ことなどを挙げている。また九州へは熊本まで行っているが鹿児島は訪れていない。熊本へ行ったのは1968年に蒸発するつもりで博多在住のファンの看護士を頼って行ったものである。この際には相手の仕事の都合で翌週まで会えず、杖立温泉や湯平温泉あたりをさまよっていた。このとき、目的もなくさまよっている状態に、社会との関連性を喪失し、どこにいようが自分の存在の実感が消滅し、蒸発したようにこの世にいながらいない状態を実感。後年、こうした経験から乞食に関心を持つに至る。寒さは苦手らしく「日本列島が沖縄のあたりに位置していたらよかったと、よく思いますよ」と答えた「ひだまりインタヴュウ」(『点燈舎通信3』)。「ガロ」以降の作品は、すべてつげ義春自身で保管しているが、『必殺するめ固め』(1979年)だけは川崎市民ミュージアムが購入した。この作品は完成作ではなかったため、下書きや書き損じを雑誌などにはさんで古紙回収に出したものを抜いた者がいて、売りに出されたものを川崎市民ミュージアムが買ったらしい。精神科医で専門は犯罪精神医学の福島章は、つげ作品の時期を5期に分類した。第1期第2期第3期第4期第5期第6期ユング派の河合隼雄は、つげの性格を「内向 - 感覚型」ととらえ、つげが同時代に与えた衝撃を、現代社会の持つ外向的思考、外向的感覚に対するアンチテーゼの提起によると考えた。『沼』を分析することによって、内向 - 感覚型人間の持つ「溶解体験」、「自我同一性の崩壊の危険」を指摘。作中の主人公の青年の沼への発砲を、距離を取り戻すための「儀式」と解釈した。発表順1954年(昭和29年)1955年(昭和30年)1956年(昭和31年)1957年(昭和32年)1958年(昭和33年)1959年(昭和34年)1960年(昭和35年)1961年(昭和36年)1963年(昭和38年)1964年(昭和39年)1965年(昭和40年)1966年(昭和41年)1967年(昭和42年)1968年(昭和43年)1970年(昭和45年)1972年(昭和47年)1973年(昭和48年)1974年(昭和49年)1975年(昭和50年)1976年(昭和51年)1977年(昭和52年)1978年(昭和53年)1979年(昭和54年)1980年(昭和55年)1981年(昭和56年)1984年(昭和59年)1985年(昭和60年)1986年(昭和61年)1987年(昭和62年)詳細はねじ式 (ゲーム)参照のこと。

出典:wikipedia

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