我(が、われ、、)とは、バラモン教(のちヒンドゥー教)及び仏教上の概念。アートマン(梵我)。語義上の意味は「自己(self)」。この語が生命存在について、その本質、実体、魂を意味するようになった。ヒンドゥー教では世俗的な我意識のみを否定してニラートマン(nirātman、無我)といい、自我意識(ahaṅkāra)のない純粋な実体としての真我(paramātman)を否定しないが、仏教は実体的な我を全面的に否認してアナートマン(anātman、無我)という。このような「アートマン」は仏教以前のウパニシャッド哲学で力説され、一方に「ブラフマン」(brahman)との同一がいわれた。(梵我一如)仏教では、ここで説かれるような実我を常一主宰と規定付けた。すなわち、我は、常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。釈迦はこのような実我観念を批判し、「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。これを色受想行識の五蘊について説き、生物(衆生)は無常である五蘊の仮和合したものであるから、私(aham)、自己(ātman)は仮りの存在であると説いた。犢子部(とくしぶ)は我を否定した通常の仏教宗派と逆に、補特伽羅(ふとがら、pudgala)を説き、アートマンとは別の実体論を説いた。龍樹(150年-250年)の"大智度論" に「問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや」と問い、「無我は了解しているが、俗法(言語習慣、言い習わし)に随って我といったので、それは実我ではない」といっているのは、これを示している。一般的に「我」「私」とかいうのは仮我についていうので自他を区別するためである。しかし、それでは、その「我」とか「私」とかが自他を区別する為であるとしても、いったい、それは何についていわれるかという点で、世親(320年-400年)は「仮によって我法と説く、種々の相転ずることあり、彼は識が所変による」と説いて、唯識といい、阿頼耶識のうえに我を仮説することを示している。仏教では実体としての真我を否定し、無我を根本教理とする一方、一部では「大我」 (paramātman) を説く。もちろん、この大我は他宗教の所説のような実在としての我でなく、仏果すなわち涅槃の徳の上につけた名である。すなわち涅槃の境地は真実であり、いっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の称号を認めるのである。自称の代名詞のほか、対等または目下の者や、相手を卑しめて使用する。
出典:wikipedia
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