欽宗(きんそう)は、北宋の第9代(最後の)皇帝。徽宗の長子で、南宋で即位した高宗の長兄に当たる。宣和7年(1125年)、父の徽宗が金に対する詐術的な外交政策に失敗し、金は宋に対して大軍をもって攻撃を行った。同年12月23日(西暦で1126年1月25日)、徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。翌年(西暦で同年)、金が開封を包囲すると欽宗は李綱を任用して防御に当たったが、賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議が成立することとなった。しかし金軍が撤退すると、宋の官人の間では金に対する強硬論が主張されるようになり、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。この宋の違約に、金は再び開封を攻めて陥落させた。徽宗と欽宗は金軍により捕虜となった(靖康の変)。金の天会5年(1127年)2月丙寅に金の太宗の詔で、徽宗・欽宗は共に庶人に落とされた上、上京に連行された。翌天会6年(1128年)8月丁丑、素服を着せられて太祖廟に跪拝させられ、続いて乾元殿において太宗に目通りさせられた。ここで徽宗は昏徳公、欽宗は重昏侯に封ぜられると、10月戊寅に韓州(吉林省梨樹県)、天会8年(1130年)に東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと連れ去られた。二帝と共に、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の皇后、妃嬪、皇女、その他宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北へ連行され、後宮に入れられた後、1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて、金の皇族や貴族を客とする娼婦になることを強いられた。朱皇后はその境遇に耐えかね、入水自殺している。1127年(金の天会5年)、欽宗の弟・趙構(高宗)が南宋を興すと(同年を建炎元年とした)、欽宗は複雑な立場に立たされる。欽宗の南宋帰還が認められれば、高宗は簒奪者とされる可能性があった(実際に1129年の明受の乱では、反乱軍が高宗即位の正統性を問題にしている)。これは、宋が中国の歴代王朝の中でも特に正閏論が厳格な時代であったためである。金の側も欽宗の帰還を計画したが、高宗から抑留継続の要望が婉曲に出され、結局南宋への帰還は実現しなかった。また、高宗の生母である韋賢妃(顕仁皇后)が南宋へ帰還する際に欽宗は、韋氏の影響力を行使して自身の帰還を実現するよう涙を流して嘆願したと伝わる。欽宗はその後も30年以上にわたって、現在の中国東北部に監禁され続けた。1135年(金の天会13年、南宋の紹興5年)、父の徽宗が没した。金で熙宗が即位すると待遇が改善されたようで、皇統元年(1141年)2月乙酉に徽宗には天水郡王が追贈され、欽宗は天水郡公に改封されている。1161年(金の正隆6年、南宋の紹興31年)、欽宗は五国城にて62歳で没した。欽宗は1161年に没したとされているが、一方で欽宗の子孫が1161年7月己丑、海陵王によって殺害され子孫が断絶したとされている。海陵王は同年12月に殺害されているため、1161年の死去が事実とすると、わずか1年の間でそれだけの事件が立て続けに起こったことになる。また、『金史』「海陵本紀」では、正隆元年(1156年)6月庚辰に「天水郡公趙桓薨」と記載されており、『宋史』と『金史』の記述には食い違いが生じている。南宋末の通俗説話『宣和遺事』では、1156年に海陵王の命令によって57歳の欽宗と82歳の遼の最後の皇帝天祚帝(正史では1128年没)が击鞠(ポロ)の競技の試合をすることになり、欽宗は落馬して馬に踏まれて死亡し、仰天した天祚帝は逃走するが、射殺されてしまった、と記載されている。この死期の食い違いについて、『金史』列伝第67では、1156年の欽宗の死去が、5年後に南宋に伝えられたとしている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。