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廿日市市

廿日市市(はつかいちし) は、広島県西部にある市。郵便番号の上3桁は738、739。市外局番は、0829(一部地域を除く)。広島市の西に隣接し、瀬戸内海(広島湾)に面した港町である。日本三景・「安芸の宮島(厳島)」が特に有名である(詳細は厳島を参照)。同島の厳島神社は世界遺産にも指定されている。市の母体は旧佐伯郡廿日市町である。廿日市は中世以来、厳島神社の造営・修繕と西中国山地産の木材の集積を基盤とした木材産業の町であり、山陽道(西国街道)の廿日市本陣を中心に発展した。高度経済成長期以後は広島市の西のベッドタウンとして発展し、1988年(昭和63年)4月1日に単独市制施行して「廿日市市」が発足した。全国で655番目の市、広島県では14番目の市(合併により消滅した松永市と因島市を除き、現在も存続している市としては12番目)である。廿日市の町は商業・工業都市の側面が濃かったが、平成の大合併によって周辺の4町村(佐伯町・吉和村・大野町・宮島町)を編入したことで、西中国山地の豊かな自然や、世界遺産にも選ばれた厳島神社を含む安芸の宮島などの新しい顔を併せもつこととなった。都市雇用圏で全国第8位の規模をもつ広島都市圏(10%通勤圏人口約158万人)を構成する一都市である。人口は2005年に旧宮島町・旧大野町と合併して以来ほとんど横ばい傾向(合併時約11万5000人)だが、近年は微減傾向にある。これは中心市街地の人口増と山間部の過疎化が相殺しているため。市制施行後の文化振興政策には一定の評価がある。例えば市の文化ホール「さくらぴあ」では、人口規模の割に著名な人物・団体の公演が多く催され、出演者からも高評価を受けて新たな公演につながる好循環を生んでいる。また、市名の由来である「廿日の市」という市民主体の市を毎月20日に催したり、姉妹友好都市であるニュージーランド・との交流から、JETプログラムによってニュージーランド出身の「国際交流員」を招いて様々な活動にかかわらせたりするなど、多様な取り組みがみられる。各地の大規模合併の例に漏れず、都市基盤整備、教育・文化サービスなどの地域間格差是正が最大の課題になっている。現在の形式のけん玉の発祥の地である。広島県の西部に位置する。北は西中国山地の脊梁部で島根県・山口県とも境を接し、南は瀬戸内海(広島湾)の穏やかな海岸線が続く。沿岸部は都市化が進む一方、内陸の農村地帯は過疎化の進行が著しい。なお、特定外来生物に指定されているアルゼンチンアリは、1993年に市内の木材港(広島港廿日市地区)周辺において、アジアで初めて個体が採集された。その後日本各地に拡散・定着している。廿日市市においても生態系や住環境への被害拡大が深刻である。広島県山口県島根県瀬戸内海式気候に属し、年間を通して温暖・少雨である。市の年平均気温は15.2℃、年降水量の平年値は1554.6ミリ。これは廿日市小学校校庭(四等三角点)の計測値である。雨は梅雨期と台風接近時に集中する。積雪は沿岸部では少ない。夏の夕方には、日中の海風と夜間の陸風の交替による「夕凪(ゆうなぎ)」という無風状態が顕著に起こる。暑さ・日差し・高い湿度に加えて、2時間から3時間以上もまったくの無風状態が続くのが、周辺では夏の風物詩になっている。沿岸部と吉和地区の中間にある中山間地域であり、冷涼多雨の傾向にある。地区の中心である津田には、気象庁のアメダス観測機器が設置されているが、梅雨末期や台風接近時にはしばしば、1時間降水量や1日降水量などで周辺より突出した値を観測している(アメダス「廿日市津田」の観測史上最大1時間降水量は、1987年9月11日の87ミリ。最大日降水量は、2005年9月5日の346ミリ)。内陸部にある吉和地区は、市内で唯一日本海側気候に属する。吉和地区は沿岸部に比べて月別平均気温が5℃以上低く(月平均気温は1月がマイナス2.0℃、8月が22.3℃)、豪雪地帯対策特別措置法の定める「豪雪地帯」でもある(ちなみに、吉和地区が「豪雪地帯」の日本最南端)。1963年(昭和38年)のいわゆる三八豪雪では、1月31日に吉和集落で積雪197cmを記録した。降水量は市内で最も多く、平年値は2194.6ミリとなっている。廿日市市庁舎の他、旧宮島町・旧大野町・旧吉和村・旧佐伯町に支所を置いている。2016(平成28)年5月現在上記3出先機関は、いずれも廿日市地方合同庁舎(廿日市市新宮一丁目15番40号)に入居している。本来、「廿日市(はつかいち)」という地名は現在の本町付近を指す狭い地区名称であり、1889年に廿日市町が発足して以降、合併を重ねて次第に広範囲を指すようになった。廿日市という名称は、現在の中央公民館(本町)周辺で中世以来開かれていた「廿日(はつか)の市」に由来する。厳島神社は平清盛の庇護により平安時代末期に大きく発展し、地域に影響力をもったが、鎌倉時代に入ると承久の乱に伴う権力争いの中で貞応年間(1222年-1224年)に火災で社殿を焼失した。鎌倉幕府の命により厳島神社を再建するために対岸の地域(現在の廿日市市本町)に多くの鋳物師たちが移り住んだことから、塩・木材等の生活物資・再建物資の集積が始まった。厳島神社の年4回の祭礼の最終日がいずれも20日であったことから、早くも鎌倉時代中期には毎月20日に市が立つようになり、二十日の市=「廿日市」という名称が徐々に定着していったと思われる。当時、この地域一帯は「佐西(ささい)の浦」と呼ばれていたと考えられている。1370年(応安3年)、今川貞世が九州探題として大宰府に下向する際に記した紀行文『道ゆきぶり』の中に、貞世が「かひだとかやいひける浦」(「現在の安芸郡海田町)を通って「佐西の浦」(佐西郡の海岸、現在の広島市佐伯区五日市から廿日市市串戸付近)から宮島へ参詣し、「地の御前」(現在の廿日市市地御前)から山道に入って周防国へ向かう旨の記述がある。廿日市という地名の初出は1454年(享徳3年)である。山口県柳井市の賀茂神社に残された当時の詫び状に、同神社の梵鐘(享徳3年頃鋳造)の鋳工「廿日市ひかしかり屋三郎次郎」の名が見える。現在も日本各地に残る「○日市」という地名は安土桃山時代以降盛んになった市に由来するものが多く、鎌倉時代に市立てされたことが確認されている廿日市は、現存する最も古い「市」地名の一つとされる。一日市から十日市までは各地に見られるが(市場を参照)「廿日市」は珍しく、現在の住居表示制度にある正式な地名としては「廿日市」は当市が唯一の例である。かつて愛媛県内子町に廿日市という地区があったが現在は内子町内子となっており、廿日市自治会館(内子町廿日市集会所)として名を留めている。現在の廿日市市域に人が居住しはじめたのは有史以前の時代のことである。市域では旧石器時代の遺跡として、冠遺跡と頓原遺跡(いずれも吉和地区)が見つかっている。また速谷神社(上平良地区)境内からは旧石器時代末期から縄文時代初めごろとされる安山岩製の槍先型石器が発掘されているほか、厳島の北西岸の下室浜では後期旧石器時代のナイフ型石器が出土している(厳島を参照)。縄文時代には海面の上昇(縄文海進)とともに瀬戸内海が形成され、沿岸部に人が居住していた。地御前南町遺跡(地御前地区)からは黒曜石の石器が出土しているが、これは海を隔てておよそ100キロメートル南西にある国東半島の姫島産のもので、遠隔地とも交流があったとみられている。土器は九州地方の影響を受けたものも多い。このほか野坂や内陸部の原地区、大野瀬戸沿いの大野地区にも縄文時代の遺跡があるほか、厳島の沿岸部にも、複数の縄文遺跡が存在している。北部九州に稲作技術が伝えられるとほどなくしてこの地域でも稲作が始まった。丸小山遺跡(峰高地区)の遠賀川式土器はそのことを裏付ける典型的な西日本の弥生式土器である。また極楽寺山尾根筋の標高260メートル付近にある高尾山遺跡は典型的な弥生時代後期の高地性集落遺跡で、水も引けず耕作に適さないことから海上を見張る役割を果たしていたと考えられている。この高尾山遺跡のほか、上平良地区から原地区、宮内地区にかけては堤上遺跡、河野原遺跡(1~5号)、広池山1号・2号遺跡(宮園団地造成に伴い消滅)、極楽寺二三丁遺跡、風呂谷遺跡、扇平遺跡、長谷1号遺跡など、農耕には適さない高地性集落遺跡が多く見つかっている。この地域がヤマト王権の支配下に入ると、部民制のもと佐伯部がおかれた。一帯は佐伯郡(さへきのこほり)として安芸国に組み込まれた。佐伯部は東国人の捕虜を播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に移住させて品部として設定したもので、在地の豪族が「佐伯直」や「佐伯造」となって伴造として業務を管掌していた。これらの豪族は畿内の有力豪族である佐伯連(後に宿禰)に管掌されており、この地域は間接的に天皇・畿内に連なる部民であった。またこの地域の佐伯直は、後に厳島神主家となった。伝承によると、推古天皇元年(593年)に豪族の佐伯鞍職が神託を受け、勅許を得て厳島の御笠浜に社殿を創建した(「厳島神社縁起」)とされ、これが厳島神社の由来という。文献の初出は811年(弘仁2年)に名神に列したというもので、927年(延長5年)には『延喜式神名帳』において名神大社に列せられている。以後、廿日市市域の歴史は厳島神社の動向に大きく左右されることになる。佐伯郡の郡衙(役所)は現在の広島市佐伯区利松あたりにあり、種箆(へら、現在の廿日市市下平良)という郷名が承平年間(931年~938年)の「和名類聚抄」に見える。律令制実施後は五畿七道の山陽道(古代山陽道)が平安京から太宰府に通じる大路として整備され、市域には種箆と濃唹(おおの、現在の廿日市市大野高畑)という2箇所の駅家があった。1146年(久安2年)、平清盛は安芸守に任ぜられ、高野山の高僧から「安芸の厳島神社を修繕すれば、並ぶ者なき官位と栄華を手に入れられよう」と預言されて厳島神社の修繕を決意し、1168年(仁安3年)には海上に浮かぶ壮麗な寝殿造の社殿を造営する。摂津国の四天王寺からは舞楽を移し入れ、多くの武士や貴族が甲冑や刀剣、鏡面を奉納するなど京の文化が多く流入した。中でも「平家納経」は、経文の装飾のみならず経箱・唐櫃に至るまで絢爛豪華な装飾が施されており、平安時代の工芸を今に伝える第一級史料とされる。12世紀後半には清盛の庇護のもと、佐伯郡内でも平良荘・宮内荘(廿日市市宮内)・大竹・小方(大竹市小方)・川内・寺田・保井田・佐々利別府・石道村・久島郷(廿日市市玖島)・吉和村(廿日市市吉和)などに厳島神社社領が加増されていった。市町村制施行以後について述べる。木材港(広島港廿日市地区)は西日本有数の木材専門港であり、周辺では輸入木材に関連した住宅産業、家具関連産業が盛んである。市内に本社をおく主な企業としては、ウッドワン、チチヤス、マルニ(木工家具大手)、中国醸造、広島醤油、フジマート、バッケンモーツアルト(本店は広島市中区)などがある、またフマキラーが本店(本社は東京都千代田区)および工場を置いている。また、デオデオが2000年代に本社を移転し、エディオンになってからも主要拠点を引き続き置いている(登記上本店は広島市中区)。その他、広島が発祥のカルビー(本社は東京都千代田区)広島工場、中国新聞社広島工場(広島ちゅーぴーパーク。中国新聞、朝日新聞、日刊スポーツ、デイリースポーツなどを印刷)などがある。旧大野町時代には、サントリーの工場も存在した。また、以前はけん玉作りも盛んで、最盛期には日本国内で40%のシェアを占めていた。瀬戸内海の豊かな恵みを受けた近海漁業が盛んである。特にカキ養殖は非常に盛んで、「カキいかだ」は周辺の風物詩となっている。「地御前かき」は近年全国的なブランドとして知名度を上げている。また大ぶりな「大野のアサリ」も人気がある。「安芸の宮島」の名で知られる厳島(宮島地区)は、世界遺産「厳島神社」のほか国宝や国の特別天然記念物など文化財・自然遺産を数多く抱え、年間を通じて多彩な行事に彩られる世界的な観光地である。沿岸部ではマリンスポーツや釣り・海水浴など、瀬戸内海の特長を生かしたレジャー産業が盛んな一方、北部の吉和地区では800〜1200メートルの標高を生かしたスキー・スノーボード産業や夏の高原レジャーが盛んである。宮島口桟橋の駅舎には多数の看板が掲げられているなど、世界遺産に相応しくない状態も見られ、景観への課題は残る。大野地区に広島東洋カープの屋内総合練習場がある。全域で広島弁(安芸方言)が使われる。都市化により、他地域から転入してきた住民も増えてきてはいるが、彼らの多くがほどなく日常生活で広島弁を使いはじめるほど、広島弁の影響が強い。なお、近接する山口弁(とくに岩国市などの山口東部方言)の影響も受けており、廿日市市内を西へ行くほどその影響が濃くなる。公立学校私立学校区内の郵便物の集配は市内にある3つの郵便局(一部地域は大竹市にある大竹郵便局)で行っている。郵便番号は以下の通り。市外局番はほぼ全域が0829(廿日市MA。市内局番は20、30〜40、44〜59、70〜89)。例外は旧大野町のうち下灘、鳴川両地区と、同じく経小屋の一部、猪ノ打の一部、旧佐伯町の浅原中山の一部で、大竹市と同じ0827(市内局番は52~59)である。0827は山口県の岩国MAの局番なので、他地区からこの例外地区にかけると、同じ廿日市市内でありながら県外通話扱いということになる。なお、かつて同じ0829(旧・五日市廿日市MA)だった旧五日市町地域(現・広島市佐伯区)は現在082-9**-****(広島MA)で、市外通話扱いとなっている。一方で旧湯来町地域は廿日市MAのため、今は広島市佐伯区の一部でありながら、廿日市市からは市内通話扱いとなる。店舗面積が5,000平方メートルを超えるものについて記述する。中心となる駅はJR山陽本線の廿日市駅だが、集積が進んでいるとはいえない(快速通勤ライナーは廿日市駅を通過する)。廿日市市で利用者総数が最も多いのはJR宮内串戸駅で、2位がJR廿日市駅、3位JR宮島口駅、4位広電宮島口駅と続く。船舶で宮島を訪れる人の数は、上記のほかチャーター便などもあわせて年間283万人以上(2006年)にのぼる。

出典:wikipedia

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