上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - )は、罪人、元受刑者、ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表。オウム真理教信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤだった。教団内では「外報部長」等の役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする堪能な英語力と口八丁で巧みに詭弁を弄することから「ああいえば、上祐」といわれた。オウム真理教では、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった。オウム真理教時代に幹部の中で麻原彰晃に「NO」といえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)で銀行員の父と元教師の母の間に生まれる。その後、父親が東京の貿易会社に転職し、一家で上京するが、父親の女性問題によって離婚、母子家庭となる。早稲田大学高等学院、早稲田大学理工学部を経て、1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了し、同年4月に特殊法人宇宙開発事業団(現:独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に入る。早稲田大学在学中の1986年(昭和61年)8月に「オウム神仙の会」に入会する。フジテレビアナウンサーの軽部真一は高等学院・早大の同級生である。宇宙開発事業団は、翌年には退職、出家する。5年後の1992年12月には、「尊師」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。1993年9月にはロシア支部長に就任。地下鉄サリン事件後には麻原に日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。2年後の1995年10月に国土利用計画法違反事件で有印私文書偽造などの容疑で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受ける。1999年12月に出所し教団に復帰するとすぐに「アレフ」を設立、2003年2月には「アーレフ」に、2008年5月にはさらに「Aleph」に改称する。2007年5月、松本家との対立から別団体として独立、「ひかりの輪」 を設立した。なお、公安調査庁は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったという見方をしている。大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった。大学時代より超常現象チベット仏教教団活動などに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原彰晃の空中浮揚写真記事をきっかけに、1986年に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となるオウム神仙の会に入会する。大学院を出た後宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し、恋人の都沢和子と共に出家信者となった。出家番号は13。入会後は都沢と別れ都沢は麻原の愛人となる。1989年、上祐らを除いたオウム幹部6人による坂本堤弁護士一家殺害事件が起きる。上祐は事件前、他の幹部とともに坂本堤との交渉に立ち会ったが、坂本からオウムの違法性と訴訟提起を突きつけられ決裂するに至る。後年、上祐はテレビ朝日の取材の中で坂本に先見の明(オウムの違法性など)があったことを評し、坂本の指摘が正しかったことを証言。さらに当時は信仰の自由に固執・誤認していて、坂本から指摘された事実を理解することができなかったと懐述している。麻原から(坂本氏の名前は出さずに)教団に批判的な存在をポア(殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、同じく反対していた石井久子や上祐を除いて謀議していたものと見ている。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。2010年12月3日号のFRIDAY誌上にて、麻原彰晃は能力と人格が不一致な人物と一蹴。麻原の根源は、逆恨みと被害妄想であり幼い頃からの逆恨みを社会に広げただけの人物と評した。また、オウム真理教がサリンを製造していた事実も承知していたが、当時批判できなかったのは、麻原彰晃にポアされるのを恐れたからだと述べた。
出典:wikipedia
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