コンコルド()とは、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機()。2003年に全機が退役した。イギリスのBACとフランスのシュド・アビアシオンなどが共同で開発した超音速旅客機。初飛行は1969年3月1日。原型機4機を含め、20機が製造された。高度5万5,000から6万フィートという、通常の旅客機の飛行高度の2倍もの高度を、マッハ2.0で飛行した。定期国際運航路線に就航した唯一の超音速民間旅客機でもあった。開発当時は世界各国のフラッグ・キャリアから発注があったものの、ソニックブームなどの環境問題、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、また大量輸送と低コスト化の流れを受けてその多くがキャンセルとなった。特にニューヨーク便就航に際しては激しい反対運動が展開され、法廷闘争にまで至った。最終的にはエールフランスと英国海外航空を継いだブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運行に留まる。2000年7月25日に発生した墜落事故、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロによって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなった事で、2003年5月にエールフランス、同年10月24日にブリティッシュ・エアウェイズが営業飛行を終了、2003年11月26日のヒースロー空港着陸をもって全機が退役した。超音速飛行を追求した美しいデザインや、ほぼ唯一の超音速旅客機だったこともあり、現在でも根強い人気を持つ。1950年代後半のデハビランド・コメットやボーイング707などの大型ジェット旅客機の就航に次いで、各国が超音速旅客機開発競争にしのぎを削る中、イギリスはブリストル223、フランスはシュド シュペル・カラベルなどの超音速旅客機の研究を独自に行っていた。1962年に英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換した。イギリスからはBAC、フランスからはシュド・アビアシオンが開発に参加した。開発の主導権や名称などについて2国間での対立はあったものの、エールフランスや英国海外航空、パンアメリカン航空や日本航空など世界各国のフラッグ・キャリアから100機を超える注文が舞い込み、1969年3月2日に原型機が初飛行に成功、同年10月1日には音速の壁を突破した。同時にアメリカでも超音速旅客機の開発が行われ、ボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスなどによる提案が行われた結果、より高速、大型で可変翼を備えたボーイング2707の開発が進んでいたが、その後開発がキャンセルされた。1972年に入ると、プロトタイプ機が発注を受けた日本やアメリカをはじめとする世界各国の主要空港をテストを兼ねて飛行したが、その後ソニックブームやオイルショックによる燃料費高騰などを受けて多くの航空会社が発注をキャンセルした。なおテスト飛行を重ねた結果、テールコーンや超音速飛行時のコクピット部分のキャノピーなどの形状変更などの改良がなされている。1976年1月21日から定期的な運航を開始し、この日にエールフランスはパリ-ダカール-リオデジャネイロ線に、ブリティッシュ・エアウェイズはロンドン-バーレーン線に就航させ、間もなく他の路線にも就航させた。一時は上記のとおり世界中から受注したもののキャンセルが相次ぎ、製造は最終的には英仏の航空会社向けの量産16機(これ以外に原型機が4機)のみが行われたに過ぎず、商業的には失敗に終わった。開発当時は「250機で採算ラインに乗る」ともいわれたが、採算ラインに乗ることはなく1976年11月2日に製造中止が決定された。キャンセルされた、または不人気だった理由には以下のようなものがある。これらの理由により、最終的にエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運行にとどまった上、1990年代にはバーレーン経由のシンガポール線やダカール経由のリオデジャネイロ線が運休し、需要と収益性が高い大西洋横断路線への定期運行に集約された。これらの定期便は飛行時間短縮を望む富裕層や準富裕層顧客を中心に利用されたほか、余剰機材も団体客向けのチャーター便や、英仏両国の政府専用機としてチャーターされた。エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズのわずか2社により、十数機が限られた路線に使用されていたのみだが、高い人気を博したため、2社ともに両社のイメージリーダー兼フラッグシップ機として各種広告に使用した。両社ともに1クラスのみの設定とされたが、在来機種のファーストクラスの上のクラスと位置付けられた。就航先のパリやロンドン、ニューヨークの空港内に専用のラウンジとゲートを備えたほか、これらの空港では発着時に最優先権を与えられた。またコンコルド専用の資格を持った客室乗務員による、コンコルド専用の機内食メニューや飲み物の提供。コンコルドの乗客専用の各種ギブアウェイや機内販売品の提供など、他の機種にはない特別なサービスが提供された。さらに高い人気を受けて、1990年代後半には、21世紀に入っても継続使用できるように最新のアビオニクスの導入や個人テレビの装着をはじめとする様々な近代化改修を行うことも検討された。2000年7月25日、エールフランス機(Model No.101、登録番号F-BTSC)がパリのシャルル・ド・ゴール国際空港を離陸時に、滑走路上に落ちていたコンチネンタル航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機から脱落した部品により主脚のタイヤが破裂し、タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上・墜落した。地上で巻き込まれた犠牲者を含め113人が死亡するという大惨事になった。小さなトラブルは頻繁にあったが、1969年の初飛行以来大規模な事故は初めてだった。エールフランスは即日、ブリティッシュ・エアウェイズもイギリスの航空当局がコンコルドの耐空証明を取り消すことが確実視されたことにより8月15日に、運航停止を決定した。事故調査に続いて、燃料タンクのケブラー繊維の補強、耐パンク性を強化したミシュラン製のタイヤ、燃焼装置の隔離処理等の改修を受けた後、2001年11月7日に運航が再開された。しかし燃費が悪く航空機関士が必要なコックピットなど、旧式のシステムであるコンコルドの運航はコストがかかり、直前の9月11日に就航先のニューヨークで発生した同時多発テロで低迷していた航空需要下では収益性の改善は望み薄となった。2003年4月10日、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も2003年10月24日に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。以後、民間人が航空路線で超音速飛行を体験する事は不可能になった。なお、航空路線でなければ民間人向けに超音速戦闘機の体験飛行が行われているため、超音速飛行を体験すること自体は可能ではある。また、2011年6月20日エアバスの親会社が2050年をめどに新たな音速を超える航空機を開発することを発表した。一時はヴァージン・アトランティック航空がライバルでもあるブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを1機1ポンドで買い取ると表明した。ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを買い取る事に熱心だった模様で、機内販売グッズとしてヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。しかし、ブリティッシュ・エアウェイズはこの申し出を拒絶した。英仏両国で就役していたコンコルド各機は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとする世界各地の航空関連博物館に売却・寄贈され、今も往時の姿を示している。「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話のコンコルディアに由来している。しかしフランス側の強い希望により、フランス語式の最後にeの付く「concorde」表記が、フランス語のみならず英語にもおける両言語共通の正式スペリングとなった。ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。なお、フランス語のconcordeは「調和」の意味では女性名詞だが、この航空機の意味では男性名詞である。フライ・バイ・ワイヤを実用化した世界初の航空機である。主翼後縁の左右合計6枚のエレボンと上下分割式の2枚の方向舵の、合計8枚の操縦翼面のコントロールはコクピットからの電気信号により制御されている。トリム制御用の燃料移送システムを備えた。超音速への加速時や超音速からの減速時には揚力中心の位置が変動する。このとき操縦翼面によってトリム制御を行うと空気抵抗を増加させてしまうため、コンコルドでは必要に応じて燃料を前部または後部のタンクに移送することで揚力中心に応じた機体重心の位置を制御した。このシステムにより、空気抵抗を増加させることなくトリム調節を可能にした。コンコルドは超音速飛行での空気抵抗を小さくするために細長い機首を備えているが、これは離着陸時のパイロットの前下方視界を遮ってしまう。特に着陸時には、フラップがないことをカバーするため機首を大きく上に向けながら進入する。そのため着陸時には12.5度、離陸時には5度、機首が下方に折れ曲がるドループ・ノーズを採用した。これに加えバイザーが折れた機首内に格納され、パイロットの視界を確保する。試作機では17度下方に折れ曲がるようにされたが、これはパイロットを不安にさせた。キャノピーから前に何も見えないので、テストパイロットは断崖絶壁に立たされているような感覚を持ったという。そのため、12.5度に修正された。なお、大きな迎え角は通常で考えると乗客にとっての乗り心地が悪い様に誤解されるが、実際に搭乗すると加速度があるため迎え角はあまり感じない。アフターバーナー付きロールス・ロイス オリンパス593 Mk610ターボジェットエンジンと可変空気取り入れ口制御システムを採用した。アフターバーナーは離陸時と超音速への加速時に使用したが、超音速巡航時には使用しなかった。なお「アフターバーナー」という名称は、ゼネラル・エレクトリックの登録商標であり、コンコルド用のオリンパス593エンジンを製造したロールス・ロイスは「リヒート」と呼んでいた。吸気系統は注意深く設計され、超音速巡航時には推力の63%がインテーク系統で、29%が排気ノズルで、8%がエンジンに分布していた。なお音速飛行時は機首先端の温度が120 ℃程になる上、マッハ2を超えた場合胴体は91 ℃になる。さらに熱による機体の膨張により、20cmほど全長が伸びる。また、客席はエコノミークラス程度のピッチのものが横4列に並び、合計100席が設けられていた。なお機体と窓の熱膨張率が異なるため、前述の高温から窓を大きくできず、その実効面積ははがき程度の大きさである。マッハ2を超えた場合、機内側の窓も継続的に触るのが困難なほど加熱された。参考日本で唯一国際線を運航していたフラッグキャリアの日本航空も国際線向けに3機の導入を計画し、1965年に仮発注を行った。就航時を想定した2種類の塗装案も作成されてマスメディアに公開され、各種記念品も製作されるなど大々的な広報、広告活動が行われた。この際に日本航空が展示用として銀座の模型店・天賞堂に発注した1/35スケールの大型模型が存在する。白地の胴体に赤と青のライン、尾翼には鶴丸マークという当時の日本航空旅客機の標準塗色に仕上げられたこの模型は1968年に完成して日本航空に納入された。なお同社はその後他の大手航空会社と同様にコンコルドの導入をキャンセルした。大型模型は同社より神田の旧交通博物館に寄贈されて長らく展示された。(右の写真参照)なお、交通博物館自体は既に閉館している。1972年6月12日には羽田空港にもデモンストレーションのため飛来し、午前10時15分に羽田空港へ到着した時には航空機マニア約5,000名が見物に訪れた。日本航空が多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした上に、大陸間横断のような長距離飛行が不可能だったこともあり、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの両社ともに日本への定期路線に就航させることはなかったが、その後も数回にわたりエールフランスのコンコルドが日本国内へ飛来した。1979年6月27日には日本で初めての開催となる東京サミットに出席するフランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の搭乗機として羽田空港に飛来した。また1990年には「'90長崎旅博覧会」のイベント(チャーター便)として長崎空港に飛来したほか、1994年には開港翌日の関西国際空港に飛来した。
出典:wikipedia
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