スバル(SUBARU)は、富士重工業が展開する自動車製造部門のブランド名である。富士重工業そのものを指す固有名詞として使用されることも比較的多い他、同社の軽飛行機であるFA-200の愛称「エアロスバル」として、自動車以外に使われた例もある。なお、2016年5月に、社名をブランド名に合わせる形となる「株式会社SUBARU」への社名の予定が発表され、株主総会にて承認されたことから2017年4月1日からは社名・法人名もSUBARUとなる。富士重工業は太平洋戦争までの航空機メーカーである中島飛行機を源流に持ち、創業期に百瀬晋六をはじめとする元航空技術者たちが自動車開発に携わってきたという歴史から、航空機に通じる機能性・合理性優先で、既成概念にとらわれないユニークなメカニズムを特徴とする自動車を多く送り出してきた。特に走行性能に特化した技術志向が強く、四輪駆動車と水平対向エンジンはスバルの技術の特徴となっている。そのため、スバルというブランドをこよなく愛するスバリストと呼ばれる熱心なファンも少なくない。近年、北米市場で、悪路走破性と衝突安全性の面からスバルの評価が高く、販売台数を急速に伸ばしているが、富士重工業は年間販売台数が100万台未満の国内大手自動車8社中で最小の自動車メーカーで、著しく国内生産比率が高いこともあり、北米市場で恒常的な供給不足が続いている。北米市場における供給不足と技術志向の高性能プレミアムイメージによる車体販売価格の高値推移により、富士重工業の営業利益率は、高級ブランドBMWを超える13%を記録している。2014年には累計国内生産台数が2000万台を突破した。「スバル」は、プレアデス星団の日本名「昴」(プレアデス星団#名称・神話)に由来する。日本では古くから六連星(むつらぼし)とも言われ、奈良時代の古事記や日本書紀、平安時代の『枕草子』にも記述を確認できる古語である。この名称が最初にあらわれたのは、試作コードネーム「P-1」こと「スバル・1500」であった(試作された車両は販売され市中を走ったとされるが、量産・市販は中止)。富士重工業初代社長・北謙治の命名で、富士重工業が旧・中島飛行機系5社を吸収合併するという形で誕生したことから、この6社を「統(す)べる」=「統合する」との意志が込められている。P-1に続いて設計された、「てんとう虫」の愛称でも知られる大ヒット車「スバル・360」により、「スバル」の名は広く知られることとなった。コーポレートアイデンティティとしても使われているエンブレムの「六連星マーク」も、360が起源である。社内募集案をもとに、同車の基本デザインを担当した社外工業デザイナーの佐々木達三が手を加えたもので、以後何度かのデザイン変更が行われ、途中で実際の星座の配列を無視した形となりながらも、星6つ(大1、小5)の基本モチーフは継承され現在に至っている。富士重工業の代名詞として「スバル」の名が定着したことから、一時期「スバル株式会社」への社名変更を計画したが、創業50周年の2003年7月15日をもって、従来の社名のカタカナ書きの頭文字に由来する「フ」マークの社章を自動車ブランド・スバルと同じ「六連星」に変更するにとどまった。プレアデス星団の語源となったプレイアデスは、ギリシャ神話の神である巨人アトラースと精女プレーイオネーとの間に生まれた7姉妹といわれ、長女から順に「マイア、エーレクトラー、ターユゲテー、アルキュオネー、ケライノー、アステロペー、メロペー」と呼ばれている。このうち「マイア」はスバル・450の対北米用の輸出名、および3代目レオーネのスバル発売30周年記念特別仕様車として、「アステロペー」は1987年にスウェーデンのボルボ社と共同開発した観光バスのボルボ・アステローペと2004年にスバルカスタマイズ工房が東京オートサロンへ出品した「レガシィB4・アステローペ」として、「エーレクトラー」は1994年からSTIが発売を始めたアルミホイールの商品名と、2000年に発売されたインプレッサS201 STIバージョンのパイロットモデル名「エレクトラワン(Electra ONE)」として、「ケライノー」は1977年、「ケレーノ」として北米向けに発売したスノーモービルの製品名として、「アルキュオネー」は英語読みの「アルシオーネ」で1985年発売のアルシオーネと、1991年発売のアルシオーネSVXとして、「メロペー」は2009年にスバル用品が販売した天体望遠鏡「SUBARUメローペ80A」に使われている。残りの「ターユゲテー」は現在までのところ富士重工業製品に使用されていない。一部で谷村新司のヒット曲『昴』について「元々はこの会社のイメージソングであった」とされるが、これは正しくない。富士重工業を意識して製作された歌謡曲は、実際には『我が人生は昴なり』(作詞作曲:石坂まさを、唄:美帆さゆみ)である。作曲家の石坂まさを自身が熱烈なスバルファンであり、「生真面目で人情味あるスバルの姿を唄い上げたもの」と公言している。原作は『我が人生はスバルなり』であったが、発売時には商品イメージを消すためにあえて漢字の「昴」を当てている。なお、スバルの中国語表記は台湾、中国本土、香港の順に「」、「」/「」、「」(、、イェール式:Fu3si6)、韓国語表記は「」(文化観光部2000年式:Seubaru、マッキューン=ライシャワー式:Sŭbaru)」である。その初期の製品は、航空機開発によって培われたデザインポリシーにより、軽量かつ操縦性に優れスペース・ユーティリティをも満たした高度な設計がなされ、市場をリードした。1954年(昭和29年)に試作されたスバル・1500では、日本製乗用車として初のフル・モノコック構造を採用している。1958年(昭和33年)発売のスバル・360は、「国民車構想」の内容に近い水準の自動車を、高度な技術で具現化したもので、「大人4人が乗れる初めての軽自動車」後輪駆動リアエンジン・リアドライブ方式として、日本人にとって自動車を身近なものにした。1966年(昭和41年)発売のスバル・1000では、縦置き水平対向エンジンによる前輪駆動レイアウトを採用し、以後、四輪駆動車を含む現行主力モデルに至るまでこれを踏襲している。またこのスバル・1000では、前輪駆動車にとっての重要部品である「等速ジョイント」の完成形、ダブル・オフセット・ジョイント(D.O.J.)を東洋ベアリング(現・NTN)と共同で開発、同車の成功の要因となり、1970年代から世界的に盛んとなった小型車の前輪駆動化の潮流に先鞭をつけた。現行の主力モデルでは、水平対向エンジンを車体前方に縦置き搭載して四輪を駆動するSYMMETRICAL AWD(シンメトリカルAWD)構造を特徴としている。水平対向エンジンは、量産型の乗用車用エンジンとしては、2015年現在、富士重工業とポルシェしか採用していない。また、フルタイム四輪駆動機構を展開する自動車メーカーとしてはドイツのアウディ等が有名であるが、水平対向エンジンとフルタイム四輪駆動機構の双方を組み合わせたパッケージングを展開するのは、世界でスバルのみとなっている。水平対向エンジンは、クランクシャフトを軸にピストンを180度開いた位置に配置しているため、直列エンジンやV型エンジンに比べ重心位置が低い。また、向かい合うピストンがお互いの慣性力を打ち消し合うように、それぞれ外に振り出されるため、本質的に直列エンジンより回転バランスに優れる。パッシブ・セーフティ(受動安全性)の面からも、前面衝突時にエンジンがフロントバルクヘッド下に潜り込むような形になるため、エンジンがキャビンを変形させる確率が低く、フロントのクラッシュ・ストロークを長く取れる利点がある。スバル初の四輪駆動車は、1972年のレオーネエステートバン1400 4WDで、本格的な量産ラインで生産される自動車としては世界初の四輪駆動乗用車となった。自動車の運動性能にもたらす四輪駆動の効果に世界中の自動車メーカーが注目する端緒となったドイツのアウディ・クワトロの発売は1980年であり、富士重工業は四輪駆動乗用車技術の長さではアウディをも上回る。そのため、四輪駆動システムについても、その初期から様々な試みがなされており、世界の自動車メーカーのベンチマークとなっている技術も数多いレオーネの四輪駆動車は一般的なサルーンの外観でありながら優れた悪路走破性を持つ独自のキャラクターが降雪地域のユーザーなどから高い評価を得た。1980年代からはよりオンロード色が強まり、後継のレガシィやインプレッサではさらに顕著になった。四輪駆動の技術を活かし、アウトドアを嗜む社員の視点から、レオーネ/レガシィ・ツーリングワゴンのような四輪駆動ステーションワゴンやレガシィ・アウトバック、フォレスターのようなクロスオーバーSUVといった新規マーケットを開拓した。1989年10月発売のレガシィ・ツーリングワゴンGTはハイパワー4WDワゴンというキャラクターが市場に受けヒットした。社団法人自動車技術会の委員会が「後世に語り継ぐべき特徴を持つ故実」として選定した「日本の自動車技術240選」の中で、スバル・レオーネ4WDバンとセダンがそれぞれ選ばれている。2014年現在、軽自動車を含む全車種(BRZを除く)に四輪駆動が展開されているが、特にレガシィ、フォレスター、レヴォーグ、VA型WRXは全モデルが四輪駆動である。1981年、後輪駆動用トランスファーに、世界で初めて流体式の電磁式油圧多板クラッチを実用化したフルタイムAWDオートマチックを発売。また、この電磁式油圧多板クラッチを発展させ、前後不等・可変トルク配分とエンジン出力制御、ABSとの統合制御による高度なアクティブ・セイフティ技術である車両制御システムVDC(Vehicle Dynamics Control System、横滑り防止機構)も実用化している。このVDCは、すでに実用化されている自動運転支援システムADA(Active Driving Assist)や防衛関連事業で培った高度なロボット技術との統合制御による、完全自律運転システムへの発展が期待され研究が続けられている。なお、2008年6月、このADAから前車との車間計測のために備えていたミリ波レーダーを廃して、2台のCCDステレオカメラで車両周辺の状況を解析・判断、車両制御技術としては世界初となる、車速が15km/h以下でのプリクラッシュ・ブレーキ制御や障害物検知、さらに全車速追従型クルーズコントロールなどの機能を備えた「eyesight(アイサイト)」システム搭載車を発売。従来の安全技術などと比べ高機能でありながら割安な価格設定である。モータースポーツにおいてはラリー競技での活動が知られる。テストドライバーの小関典幸や高岡祥郎を中心とする社内活動として、1973年(昭和48年)よりオーストラリアのサザンクロスラリー、1980年(昭和55年)よりケニアのサファリラリーに挑戦し、「ボクサー+4WD」というアイデンティティを示した。当時の主体は群馬の研究実験部だったが、1988年(昭和63年)に久世隆一郎を代表とする、モータースポーツ関連の子会社「スバルテクニカインターナショナル (STI) 」を設立する。1990年(平成2年)にはイタリアのモトーリ・モデルニと提携し、コローニチームを買収してF1に参戦したが、予備予選を通過できず半年のみで撤退した。スポーツプロトタイプカー世界選手権 (WSPC) でもF1用のF12エンジンをアルバAR20/1に搭載したが、似たような結果に終わった。1989年(平成元年)にレガシィを発表するとイギリスのプロドライブと提携し、スバルワールドラリーチーム (SWRT) として1990年(平成2年)より世界ラリー選手権 (WRC) に本格参戦。1993年(平成5年)より後継のインプレッサを投入し、1995年から1997年にかけてマニュファクチャラーズタイトルを3連覇するなど、一時代を築いた。ドライバー部門ではコリン・マクレー(1995年)、リチャード・バーンズ(2001年)、ペター・ソルベルグ(2003年)の3人のチャンピオンを輩出した。世界同時不況の影響で2008年シーズンを最後にWRCでのワークス活動を終了。WRC通算47勝(レガシィ1勝、インプレッサ46勝)は国内メーカーの中では最多(トヨタ43勝、三菱34勝)。他には(Subaru Rally Team USA)、SUPER GT(GT300クラス)、スーパー耐久、ニュルブルクリンク24時間レースでの活動があり、ほぼスバルエンジンのワンメイクとなった入門フォーミュラFJ1600もある。AWDを積極的に自動車の運動性能・操縦性の向上に利用する取り組みでは、1990年からイギリス・プロドライブ社とのWRCへの参戦で、エンジン性能向上技術や、2004年まで、前、後、センターデフのフルアクティブ化をはじめとする、膨大な技術的データ蓄積が得られているものと思われる。WRC参戦用ベース車両であるインプレッサの市販型では、WRCからの直接のフィードバックはないものの、1994年に登場したDCCD(ドライバーズコントロールセンターデフ)制御に、2002年、4輪の車輪速センサー、横Gセンサー、スロットルセンサーなどから4輪のグリップバランスを把握して、最適な前後駆動トルクを自動的に配分する「DCCD-AUTO」モードを装備。2004年には新たに、ヨーレートセンサーを加え、さらに前後LSDとの協調制御により、操縦感覚の良さと速さを両立している。2010年現在広く使われているスチールベルト式無段変速機を「ジャスティ」向けに日本で初めて導入、改良して「ECVT」の名で量産した(オランダ、VDT社と共同開発)。小排気量車向けのみが同社車種およびイタリアFIAT社のプント、パンダに搭載された。CVTの技術はその後日産自動車にライセンスされ、日本メーカー各社が主にコンパクトカーなどに採用しているジヤトコ社製「ハイパーCVT」のベースとなったといわれている。スバルのCVT搭載車は2009年頃までは軽自動車のみであったが(2010年現在も軽自動車にCVTを多く採用するメーカーの代表格となっている)、2009年5月20日にレガシィ、レガシィアウトバックにもチェーン式のバリエーター(主変速機機構)を採用した「リニアトロニック」というCVTを新たに設定した。2009年現在、スバルの軽自動車はサンバーを除く全車に、普通車では先述の通りレガシィ、レガシィアウトバックにCVT車を設定している他、同年9月2日に改良されたエクシーガのNAエンジン搭載車の上級グレードにも設定された。前出の「日本の自動車技術240選」の変速機・駆動系部門の中で、スバル・ジャスティのECVTが選ばれている。サンバートラック・バンは、軽トラック・軽キャブオーバーバンで唯一となったリアエンジン方式ならではのトラクション性能と、フル・キャブオーバー型の堅持による最小回転半径の小ささなどで、農家や運送業者など、軽貨物車ユーザーの一部に根強い支持層を持つ。JA向けの特装車両や、軽運送の赤帽用に標準車以上の耐久性と使い勝手を考慮した特装車両が存在する。軽トラックの四輪駆動は現在では当たり前の装備となっているが、それを初めて採用したのもサンバーである(1980年、パートタイム式)。きっかけは愛媛県のみかん農家からの登坂力確保の要望であった。軽自動車においては1980年代から機械式スーパーチャージャーを積極的に採用。ターボラグがなく、低回転時のトルクを特に強力に補うスーパーチャージャーの特性は、スバル軽四輪に採用例が多かったEN05/07直列4気筒エンジンとのマッチングが良好で、他社の車両が次々にスーパーチャージャーの純正採用を断念する中で自社製軽自動車製造終了まで搭載され続け、スバル軽四輪の一つの特徴として認識されている。富士重では早くから衝突安全に対する取り組みを行なっており、1965年(昭和40年)にはSAE基準による衝突試験を実施。これは日本における最初の自動車衝突試験となった。また、自動車メーカー各車が衝突被害軽減ブレーキの障害物認識に、ミリ波レーダ(レーダー)のみの利用、またはレーダと単眼カメラの併用とする中、富士重では歩行者などの認識に優れるステレオカメラのみを用いたEyeSightを開発、単眼カメラ方式で研究を進めていた日立製作所・日立オートモティブシステムズとの技術提携により、2006年(平成18年)より市販車(BRZを除くスバル普通車)への搭載が始まっている。車載のステレオカメラのみを利用した衝突被害軽減システムの実用化は世界初であるが、レーダ関連を不要としたことで比較的低コストとなっている。富士重工業は、飛行機工場を由来とすることもあり、軽飛行機のFA-200「エアロスバル」により戦後日本における民間機産業の「復活」を図った。続いてビジネスジェットのFA-300を開発し生産にこぎつけたが、商業的には損失となっていたこともあり、その後は民需の航空分野では開発分担やライセンス生産にとどまっている(官需(主として自衛隊機)については富士重工業#航空宇宙部門を参照)。「放課後のプレアデス」日本のアニメーション制作会社であるガイナックスと富士重工業(スバル)が展開するアニメプロジェクト「SUBARU x GAINAX Animation Project」第1弾作品。自動車そのものは作品中に描かれてはいないが(ただし、背景描写として登場人物の家庭の自家用車などとして描写されているシーンは存在する)、登場人物たちが使用するツールやその他に、スバル製自動車や社を想起させる様なモチーフが随所に散りばめられている。1996年10月7日滋賀県守山市の市道で交通事故が発生した。(BH型レガシィのスロットルが戻らず、次々に車輌へ衝突し、原付のライダーに足骨折の重傷を負わせた。)後に滋賀県警の依頼で、警察庁科学警察研究所が事故を鑑定し、富士重工業の技術者も立ち会った。鑑定の結果不正が判明し、リコール隠しが明らかにされた。電気自動車(EV)の開発については、1960年代後半に国産メーカー各社の開発競争があり、1971年第18回東京モーターショーに、スバル・ff-1 1300Gバンをベースにソニー製燃料電池を採用した「スバル・エレクトロワゴンX-1」を参考出品している。その後、あまり目立った動きはなかったが、突如2002年5月、NECと富士重工業との共同出資による合弁で 「NECラミリオンエナジー」 を設立し、自動車用マンガン系リチウムイオン組電池の開発開始を発表した。2005年6月、東京電力と共同開発による軽自動車「R1」をベースにしたEV、「R1e」を公開、すでに2007年春から納入を開始した。2009年6月4日には、電気自動車「スバル・プラグインステラ」を発表、同年7月より納入を開始するとしている。また、2005年に開発を発表した「水平対向ディーゼルエンジン」が2007年3月、スイス・ジュネーヴ・モーターショーで公開され、2008年3月、ドイツを皮切りに順次EU各国とオーストラリアに向けて発売が開始された。世界初の水平対向4気筒・ターボディーゼルエンジンは「EE20」型 と名付けられ、DOHC・16バルブヘッドのほか、1,800気圧の噴射圧を持つデンソー製コモンレール用インジェクター、IHI製可変ノズルターボを装備。1,998 cc の排気量から最高出力150 ps /3,600 rpm、最大トルク35.7 kg-m /1,800 rpmを発揮、CO2排出量も148 g/km と現代的なディーゼルに相応しい性能であるが、排ガス値は「ユーロ4適合」に留まっており、より排出ガス規制(特にNOx)の厳しい日本や北米市場への導入は行われていない。発表当初の予定では、これらの市場へは2010年までの導入を目指していた模様であり、その後、国内に関しては導入時期の延期と搭載予定車種が数度発表されているが、現在まで商品化はされていない。なお、このEE20型エンジンは、2009年(平成21年)に第6回新機械振興賞「機械振興協会会長賞」を受賞している。正規ディーラーの「スバル店」(全国46社・うち富士重工業出資34社。○○スバル自動車(旧来から用いられ、直営、独立系いずれにも使われる。例:青森スバル自動車、静岡スバル自動車、熊本スバル自動車など)または○○スバル(1990年代後半からの販社再編による合併時に用いられ始めている。主に直営販社、一部独立系も。例:北海道スバル(→函館スバル自動車+室苫スバル自動車+札幌スバル自動車)、東京スバル(→中央スバル自動車+東京スバル自動車)、福岡スバル(→福岡スバル自動車+北九州スバル自動車)など)のほかに、サブディーラー(個人経営店舗)の「スバルショップ」(旧称・スバルスコープ店)があり、また一部のJAやいすゞ自動車のディーラーでも取り扱っている例もある。一部販売会社では至近にスバルディーラーとは別店舗で輸入車(ポルシェ車。東京スバル、福岡スバル、岐阜スバルなど。)も取り扱っている。1988年にボルボ、1998年にポルシェ、2003年にはサーブとそれぞれ販売提携を結び、一部のスバル販売店で取り扱っていた、しかし、サーブは2005年に、ボルボは2006年に販売から撤退した。また、前述の直営販社を地域別に統括会社を設置し、その他の販社をその傘下にする形で販社統合が実施され、直接出資34社のうち、地域別に6の統括会社と4の単独販社(北海道・東京・神奈川・千葉)については現状を維持し、それ以外の会社を統括会社の子会社化し、事業会社として、間接部門を統合し経営のスリム化を図り、かつ販売・整備網の維持のため、基本的には販社合併は行わず、現状の体制は継続される。2008年10月1日に、奈良を除く近畿地区と九州沖縄地区での統括会社化と、長野県内の直営2社の合併、2009年4月1日に、東北、甲信越・北陸、東海、中国・四国の4地区において、統括会社化が実施され、新経営体制に完全移行した。現在、富士重工業出資10社・統括子会社23社・独立11社、全44社。日本全国でスポットCMを流している。民放BS放送での単独スポンサーの番組においては、2012年10月現在時点で4番組あるが、スポンサー名と読みについては、「“"Confidence in Motion"” SUBARU」となっている。また、「キズナのチカラ」以外のBS単独スポンサー番組と、「Dramatic Cinema」 は、YouTubeにて番組本編を配信するほか、「Dramatic Cinema」、「ふたり道」、「恋するドライブ」は、それぞれの番組Facebookページも開設していて、ソーシャルメディアにも力を入れている。ちなみに放送した過去のテレビCMは、SUBARUの公式サイト内にある『チャンネルスバル(外部リンクを参考)』にて配信している。(稀であるが、「SUBARU On-Tube」にもテレビCMを配信する事もある。)なお、テレビCM冒頭に流れるサウンドロゴは現在30秒版のみになっている。(一部は除く、以前は15秒版も存在したが、 「“"Confidence in Motion"”」は省かれている。)富士重工業の陸上競技部はスバルの製造拠点である群馬製作所内にある。事業所のある群馬県太田市が全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)のコースに含まれていることもあり、同大会への出場と地域社会の活性化への貢献を目的として1998年6月に創部された。小指徹監督以下、地元出身の阿久津圭司を始めとする12名の部員で構成される。当初は社名の「富士重工業」で出場していたが、現在はSUBARU陸上競技部として活動を続けている。部の主たる活動目標でもあるニューイヤー駅伝では2001年の第45回大会に初出場を果たし、以後12年連続出場を続けており、地元チームとして沿道での声援も大きい。また2013年度は第6位に入賞し、好調なスタートを切る。
出典:wikipedia
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