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龍鳳 (空母)

龍鳳(りゅうほう/りゆうほう)は、日本海軍の航空母艦。公式類別では瑞鳳型航空母艦に属する。潜水母艦大鯨(たいげい)として竣工し、後に航空母艦へ改装された。大鯨とは巨大な鯨という意味。1930年(昭和5年)4月22日に調印されたロンドン海軍軍縮条約で、日本は主力艦に続いて補助艦艇の保有を大きく制限された。そのため海軍は、制限がなかった10,000トン以下の潜水母艦や給油船などを、あらかじめ戦時にいつでも航空母艦に改造できるように設計、建造した。こうして、潜水母艦大鯨、高速給油艦剣埼(祥鳳)、高崎(瑞鳳)が建造されることとなった。この3隻は全て横須賀海軍工廠で建造された。後述のように船体構造に溶接を広く採用、日本海軍では小型の敷設艦八重山で建造の経験があったが、大型艦では初めての試みであった。また主機にはディーゼルエンジンを大型艦艇で初めて採用、航空母艦へ改造した際は煙路の問題と航続距離の伸延に有利となるはずだった。計画当初、第1状態としての潜水母艦の要目は以下のようであった。潜水母艦としては一等潜水艦3隻で編成された潜水隊3隊、計9隻に補給できる母艦としての要求であった。主機は1基8,000馬力のディーゼルエンジン4基を搭載しフルカンギアに接続して2軸とし、出力を制限して、ロンドン海軍軍縮条約に従うよう速力20ノット以下とする計画だった。また空母改造時にはディーゼルエンジンを合計8基とし、出力70,000馬力、公試排水量9,600トンで速力33ノットの計画で、この速力を得るために水線長は210mが必要とされた。艦載機は九〇式艦上戦闘機9機、八九式艦上攻撃機21機を計画した。昭和6年度(1931年)に決定したマル1計画では最終的に航空母艦1隻、潜水母艦1隻が除外された。しかしこの種の艦は急遽建造が必要であるとされ、第1状態は潜水母艦として、有事の際には速やかに第2状態の航空母艦に改造できるような、ロンドン条約制限外の潜水母艦1隻を建造することにした。これが後の大鯨である。同じくマル1計画で除外された300トン型駆潜艇2隻(後の「第1号駆潜艇」「第2号駆潜艇」)とともに昭和8年度(1933年)予算に計上し、同年度1年限りとして第64回帝国議会で成立した。潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて1933年(昭和8年)4月12日に起工された。5月23日、大鯨(たいげい)と命名。電気溶接を使用して建造された。当時、日本海軍の軍艦で溶接が適用されていたのは、横隔壁や上部構造のような船体の縦強度計算に関係のない部分に限られていた。それを一挙に縦強度にもおしひろげ、シャフトブラケットやスターンチューブ、スターンフレームなども全て鋼板と打物とを溶接で組み合わせられた。また、溶接ブロック方式が考案、実行されたため全体の溶接工事量は膨大であった。そのため溶接工が急速に養成され、最初は70人程度だったものが最終的に200人以上になる(その大部分が三級溶接工であった)。こうして建造されていくが、溶接の過程で歪みが発生。有効な解決策がないまま船体への溶接が上部に進むに従って、キール前後端の歪みがますます大きくなっていった。そのため船殻工事が完成した頃には艦首端でキールの上昇歪みが150ミリ、艦尾のカットアップで100ミリほどになってしまう。この歪みのためにスクリューシャフト取付に必要な軸心見透しができなかった。また、日中の太陽の熱で暖められた上甲板が、夜になり冷えてくると収縮し船体の前後端が上方にひっぱられ、鋼板がきしみ夜泣きのようにキーンと甲高く響いていたという。この歪みを解消するためいくつかの方法が試みられるがうまくいかず、ついに船体の切断が行われる。艦尾を自重によって下降させようやく歪みを矯正。この切断部はリベットにより連結された。これらの努力により起工後わずか7ヶ月という短期間で進水した。しかしこの時、大鯨はまだスクリューシャフトを通していなかった。進水式の日程は昭和天皇に知らされており、工事を急ざるを得なかった。10月28日、横須賀海軍工廠に大鯨艤装員事務所を設置。11月16日に進水した。横須賀工廠はただちに最上型重巡洋艦3番艦「鈴谷」の建造準備に入り、同艦は大鯨と同一船渠で12月11日に起工した。大鯨は進水直後にドック入りしてふたたび軸心見透しを行った結果、歪みの除去が十分でなく、船体の切断箇所を中甲板まで広げて同一箇所で再切断、また艦首部にも切断箇所を設けリベットにより再結合された。起工翌年の1934年(昭和9年)3月31日に大鯨は竣工し、横須賀鎮守府籍。ただし予算上の問題のための形式上のものであり、居住設備の艤装が一部未了、電気配線が一部仮設のまま、主機の運転も済んでいなかった。大鯨艤装員事務所を撤去したものの、そのまま大鯨陸上事務所と改名。予備艦となって引き続き工事を続行。同時に友鶴事件の対策工事も行い、固定バラストの搭載などを行った。空母改造を秘匿するために最上甲板(空母時の飛行甲板)に搭載の予定だった短艇類は一部を残して艦尾に移動させた。補給用真水タンクも同所に設置予定だったが、後部機械室に予定された箇所へ移動した。同年7月1日に呉鎮守府へ転籍、11月15日に練習艦となり、11月20日に実質的に竣工した。11月下旬、横須賀を出発。24日には伊勢神宮沖合に到着。翌日出発し、呉に到着した。ただし細部の艤装は未決定の部分があり翌年春頃まで呉海軍工廠で艤装工事を行ったという。基本計画時の公試排水量10,500トンは、竣工時計画で公試排水量10,717トンにまで増えていたが、友鶴事件の対策で更に固定バラスト1,000トンを搭載し計画で公試排水量11,717トンとなった。また実際の排水量は公試排水量12,662トン、満載排水量14,282.5トンとなっていた。兵装は機銃、射出機、高射装置などがまだ未装備であり、探照燈も未装備だった。高角砲は1935年(昭和10年)春頃までは12cm連装高角砲2基を搭載しており、同年秋頃には12.7cm連装高角砲に換装されていた。水偵は一四式水上偵察機が搭載されていた。日本海軍の大型艦艇に初めて採用されたディーゼルエンジンは問題が多く、発煙も多く故障が続出し出力は予定の半分の馬力がせいぜいであり、根本的な欠陥を示した。同年9月18日に行われた公試では18,254馬力で20.1ノットだったという。当時潜水艦用の主機としてディーゼルエンジンは成功を収めており、ドイツ海軍の装甲艦ドイッチュラントがディーゼルエンジンを採用したことから、日本海軍も大型水上艦用ディーゼルエンジンの試作を1932年(昭和7年)から始めていた。しかし、ドイツの場合でも実用化には約10年かかっており、大鯨への採用は日本海軍関係者の一部でも無謀とされていた。また竣工翌年9月には第四艦隊事件が発生した。大鯨は第四艦隊・第二戦隊(足柄、川内、大鯨)となり、アメリカ軍戦艦と想定されて参加した。9月26日午後2時10分、大鯨は後部防水扉の破損により舵取機室昇降口から海水が流入、電動機の故障により舵がきかなくなり、台風の中で人力操舵を余儀なくなされた。同日には第一航空戦隊(龍驤、鳳翔)や第四水雷戦隊各艦も台風で損害を受けている。横須賀入港後の調査では、船体溶接部分に亀裂が見つかり、応急修理を受けたあと呉に向かった。1936年(昭和11年)1月、再び横須賀に戻り、同年2月から翌年7月まで主機換装と性能改善工事を行う。またこの時、二・二六事件に遭遇している。日華事変の勃発により一旦工事を終えて、1937年(昭和12年)8月に第3艦隊に編入し中国方面へ出撃、同年10月には再度予備艦となって工事を再開した。第四艦隊事件対策後に空母改造を再検討した結果、更に船体の補強やバルジの装着、固定バラストの追加などが必要となっていた。これらは1938年(昭和13年)夏に大臣決裁を得て、同年度中に工事を終了したという。この時点で高射装置と右舷に射出機1基を搭載、更に船体側面にはディーゼルエンジン吸気口と思われる構造物が追加されている。第4艦隊事件の対策として艦尾甲板を1甲板分上げたのもこの時とされる。これらの問題解決に時間を費やした結果、実際の就役は大幅に遅れて1938年(昭和13年)9月5日に第一潜水戦隊に編入。9月8日、第一潜水戦隊旗艦は伊号第七潜水艦から大鯨に変更された。実質的な竣工である1938年(昭和13年)時の要目を示す(特記の無い場合は計画要目)。この時点での航空母艦改造計画は、ディーゼルエンジンを8基搭載し公試排水量15,200トン、出力は56,000馬力、速力27ノットになった。兵装は12.7cm連装高角砲4基を搭載、機銃は25mm機銃18挺の要求だったが重量の問題で連装機銃6基12挺とした。搭載機は九六式艦上爆撃機18機、同補用6機、九六式艦上攻撃機(偵察用)4機、同補用1機を予定、原計画より速力が低下したために飛行甲板の長さを20m延長する計画だった。1938年(昭和13年)の艦隊編入後は、北支方面や南洋方面で進出し隷下潜水艦と共に活動した。1940年(昭和15年)11月15日に第六艦隊・第一潜水戦隊へ編入。翌1941年(昭和16年)1月16日には1日だけ第六艦隊旗艦を香取型練習巡洋艦1番艦香取から引き継いだ。4月10日には第六艦隊・第二潜水戦隊へ編入された。呉で整備中の5月1日、第一潜水戦隊旗艦は特設潜水母艦さんとす丸に指定され、大鯨は5月3日に伊号第七潜水艦より第二潜水戦隊旗艦を引き継いだ。第六艦隊各艦と共にクェゼリン環礁に進出する。9月3日、大鯨は軽巡洋艦五十鈴より第三潜水戦隊旗艦を引き継いだ。10月3日、第三潜水戦隊旗艦は大鯨から伊号第八潜水艦に変更された。開戦直前の12月4日、大鯨は呉港に帰港した。その後、横須賀に回航された。1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発。12月中旬、潜水母艦剣埼の空母改装が完了し、空母祥鳳と改名された(12月22日附)。祥鳳の完成に先立った12月20日、大鯨は第三予備艦に指定され、横須賀海軍工廠で航空母艦への改装に着手した。この改装工事は3ヶ月以内に完了するはずだったが、工事には思っていた以上に時間がかかり、結局工事が完了したのは1942年(昭和17年)11月のことだった。工事が遅れたことには次のような理由がある。ドーリットル空襲で大鯨に爆弾を命中させたのはエドガー・E・マックエロイ中尉機であり、右舷に縦8メートル、横15メートルの破孔が生じ修理に4ヶ月を要した。また、5月上旬、横須賀鎮守府在籍の空母翔鶴が珊瑚海海戦で大破、母港(横須賀海軍工廠)は大鯨の改造工事等で手一杯のため、呉に回航されるという一幕もあった。様々な不運に見舞われた大鯨であったが、1942年(昭和17年)10月20日に舞鶴鎮守府へ転籍。第一警備艦に指定される。11月28日に航空母艦への改装を完了した。11月30日に龍鳳と命名され、航空母艦としての道を歩み始めた。龍鳳と同時期に改造された瑞鳳型航空母艦とは外観は類似しているが同型艦ではない。瑞鳳型との主な相違点は以下の通り。竣工時 - マリアナ沖海戦マリアナ沖海戦後ここに書かれている搭載機数はあくまで計画値であり、マリアナ沖海戦で大量の艦載機と大勢の搭乗員を失った後は、ほとんど空荷の状態だったという。航空母艦への改装を完了した龍鳳は、ただちに第三艦隊に編入された。12月上旬、大鷹型航空母艦3番艦冲鷹及び護衛駆逐艦2隻(時津風、卯月)と共にトラック泊地への進出を命じられる。搭載航空機は日本陸軍の九九式双発軽爆撃機だった。龍鳳が第四水雷戦隊に護衛艦について問い合わせると、第9駆逐隊朝雲と第27駆逐隊時雨が指定されたとの報告があった。ところが「冲鷹」の故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、2隻(龍鳳、時津風)が先行して出発することになった。11日、2隻(龍鳳、時津風)は横須賀を出発した。ところが12月12日午前9時10分、龍鳳は八丈島東160浬で米潜水艦から雷撃され、右舷中部に魚雷1本が命中した。単独航海こそ可能であったがトラック泊地へ向かう事はできず、時津風に護衛されて出撃したばかりの横須賀へ引き返した。この米潜水艦は、昭和17年4月に水上機母艦瑞穂を撃沈したドラム("USS Drum, SS-228")であった。結局、龍鳳の1942年は損傷の修理をするだけで終わった。なお、龍鳳が運ぶはずだった陸軍機は空母瑞鶴によりトラック泊地へ輸送された。一方、日本海軍はミッドウェー海戦における主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)喪失をうけて、1942年(昭和17年)7月14日附で翔鶴型航空母艦を基幹とした第三艦隊(機動部隊)を編制していた。航空母艦搭載機搭乗員を育成するため、鹿屋海軍航空隊(艦爆、艦攻)と築城海軍航空隊(艦戦)が第三艦隊附属となって補充員の錬成にあたるが、第三艦隊の空母(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹、飛鷹)はガダルカナル島の戦いに投入されて内地に戻れず、鹿屋・築城航空隊とも効果的な教育訓練が出来なかった。そこで1943年(昭和18年)1月15日附で鹿屋・築城航空隊および空母2隻(鳳翔、龍鳳)により第五十航空戦隊(司令官酒巻宗孝少将)が編制されて第三艦隊に編入され、空母艦載機搭乗員の育成にあたることになった。横須賀での修理を終えた龍鳳は、南太平洋海戦(10月26日)で大破後に横須賀で修理されていた空母翔鶴と行動を共にした。3月20日、空母2隻(翔鶴、龍鳳)は駆逐艦4隻(浜風、漣、響、波風)に護衛されて内海西部へ到着、以後の龍鳳は鳳翔と共に訓練に従事した。5月10日附で第五十航空戦隊司令官は城島高次少将にかわった。6月上旬、日本本土の第二航空戦隊(飛鷹)、第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)はトラック泊地への進出を命ぜられていた。航空機を南方へ輸送すると共に、跳梁するアメリカ軍潜水艦を航空機によって排除しようと企図したのである。6月10日、先行して出港した飛鷹が米潜水艦の雷撃で大破、軽巡五十鈴に曳航されて横須賀に戻る。飛鷹航空隊はそのまま龍鳳航空隊に転用された。ただし、龍鳳は小型のため飛鷹航空隊を全て搭載することができず、一部部隊は空輸によりトラック泊地へ向かった。6月12日附で龍鳳は第二航空戦隊に編入、旗艦となる。6月16日、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、空母3隻(龍鳳、大鷹、冲鷹)、軽巡(五十鈴)、駆逐艦部隊(第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第24駆逐隊《涼風》、秋月型駆逐艦《新月》、夕雲型《清波》)は横須賀を出港、南方へ進出した。航空隊は陸上基地に配備された。7月2日、龍鳳飛行隊(零戦21、艦攻9)はラバウルを経てブーゲンビル島のブインに進出したが、約1ヶ月で半数を失った。7月中旬、戦力を喪失した龍鳳航空隊は解散し、現地の第204海軍航空隊に吸収された。その後も龍鳳は航空機輸送任務に従事し、最前線でアメリカ軍と交戦する機会は訪れなかった。1944年(昭和19年)3月上旬、空母瑞鳳と共にサイパン・グアム方面への輸送任務を命じられる。当初龍鳳が輸送部隊を指揮することになっていたが、艦長交替に伴い「瑞鳳」が指揮を執ることになった。軽巡洋艦能代、駆逐艦雪風、初霜、山雲が護衛に就いた。横須賀から出港した空母瑞鳳等と合流後、輸送部隊は南下。31日、能代が艦隊から分離してパラオへ向かう。4月1日、龍鳳は駆逐艦初霜と共に艦隊から分離、グアムに向かう瑞鳳と別れてサイパンへ向かった。同地ではアメリカ軍艦隊出現の報告があったものの各艦損害を受けることはなく、4月8日に呉へ戻った。6月下旬、マリアナ沖海戦に参加した。龍鳳は航空母艦飛鷹、隼鷹と共に第二航空戦隊(司令官城島高次少将)に所属し、戦艦長門、重巡洋艦最上、第2水雷戦隊(第27駆逐隊《時雨、五月雨》、第2駆逐隊《秋霜、早霜》)、第10戦隊(第4駆逐隊《満潮、野分、山雲》、第17駆逐隊浜風)と共に小沢機動部隊乙部隊を編成していた。19日、攻撃隊を発艦させたがこの攻撃は失敗に終わった。同日、機動部隊主隊(甲部隊)は米潜水艦の雷撃により大鳳と翔鶴の2空母を喪失してしまう。20日、甲部隊、乙部隊、前衛部隊、補給部隊は同一海面に集合、混乱をきたしたところをアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受けた。この時、龍鳳に第27駆逐隊の時雨が随伴していた。時雨は龍鳳を目標として接近するTBFアベンジャー雷撃機の一群を発見、対空砲火で龍鳳を守った。時雨は戦闘詳報の中で「敵急降下爆撃機ばかりに気を取られて、雷撃機への警戒が足りない」と提言している。本戦闘で飛鷹と油槽船の清洋丸、玄洋丸が沈没、瑞鶴、隼鷹、千代田、榛名、摩耶、速吸が損傷を受け、龍鳳にも至近弾により若干の被害があった。第二航空戦隊の航空機損害は79機(自爆6、未帰還47、不時着26)であった。結局、このマリアナ沖海戦は龍鳳が機動部隊として参加した最初で最後の戦いとなった。マリアナ沖海戦後は艦載機の不足により、輸送艦として用いられた。11月7日、空母雲龍より第一機動艦隊旗艦(司令長官小沢治三郎中将)を引き継ぐが、11月15日に第一機動艦隊及び第三艦隊は解散。龍鳳は日本海軍機動部隊最後の旗艦となった。1944年12月下旬、本艦および第二水雷戦隊5隻(軽巡《矢矧》、第17駆逐隊《雪風、浜風、磯風》、第21駆逐隊《時雨》)はヒ87船団に加入し、台湾方面への輸送作戦を下令される。19日の連合艦隊電令時点で時雨は編制に加えられていないが、同艦は護衛中の空母雲龍(搭載貨物「桜花」)が米潜水艦に撃沈されたあと佐世保に戻っており、21日の電令で作戦参加が決定した。龍鳳の積荷は雲龍と同じく有人ロケット特攻機桜花58機であった。だがフィリピンに向かった雲龍が撃沈されたことにより、急遽龍鳳の目的地は台湾に変更されたという経緯があった。龍鳳及び護衛艦は出撃準備を進めたが、矢矧は補充兵の内地訓練が必要として連合艦隊より作戦参加を免除され、雪風は機関部に故障が見つかり作戦不参加となる。12月31日、龍鳳はタンカー9隻、駆逐艦4隻(浜風、磯風、時雨、旗風)、海防艦4隻(御蔵、屋代、倉橋、第13号海防艦 )とヒ87船団を編成し、門司港から台湾に向かった。1945年(昭和20年)1月3日、アメリカ軍機動部隊第38任務部隊の台湾空襲が開始され、船団は舟山群島北方泊地へ退避した。さらに商船が空襲を受けているとの情報を受けて神威より4隻(龍鳳、時雨、浜風、磯風)に退避命令が出た。4日12時過ぎ、龍鳳以下は船団を離脱して嵊泗列島の泗礁山泊地に向かった。4隻は約1日避退したのち、6日11時にヒ87船団本隊と合流する。7日11時27分、船団は米潜水艦ピクーダから襲撃されてタンカーの宗像丸が損傷を受けた。輸送船団の1隻海邦丸からは、龍鳳が時雨を率いて船団から離脱したように見えたという。実際には船団指揮官の命令によるものである。13時、4隻(龍鳳、時雨、浜風、磯風)は船団から先行するよう命じられ、船団に先行して台湾の基隆港へ向かった。基隆到着をもって駆逐艦3隻(時雨、浜風、磯風)は龍鳳護衛任務を終え、船団護衛に戻った。翌日、浜風は海邦丸と衝突、さらに馬公市に向かう途中座礁して窮地に陥り、かろうじて本土に戻った。また予定どおり高雄港に向かったヒ87船団は、第38任務部隊艦載機の空襲や米潜水艦の攻撃で大損害を受けた。高雄で時雨と磯風は分離した。引き続きヒ87船団を護衛していた時雨も1月24日に米潜水艦ブラックフィン("SS-322")の雷撃で撃沈されている。11日午前、磯風と海防艦御蔵が基隆に戻った。龍鳳の出港が遅れていたため、磯風が引き続き同艦の護衛にあたることになった。12日6時45分、龍鳳はタモ35船団護衛として基隆を出港。17日12時、日本本土近海でタモ35船団と分離したのち、15時5分に磯風は龍鳳と分離すると先行して呉へ向かった。本土帰還後は練習空母となったが、3月下旬アメリカ海軍機動部隊による呉軍港空襲に遭遇した。ロケット弾や爆弾数発が命中して中破、爆風により飛行甲板は中央部で2m隆起し50mにわたって大亀裂が生じた。4月20日、空母4隻(隼鷹、天城、龍鳳、鳳翔)も第四予備艦に指定される。6月1日附で各艦(長門、榛名、伊勢、日向、天城、鳳翔、龍鳳)は特殊警備艦に指定された。その後、残存大型艦(天城、葛城、榛名、伊勢、日向、利根、青葉、大淀)等と共に、浮砲台として呉軍港に係留された。乗組員は艦の修理を行うと同時に、農園の手入れにも従事した。7月下旬の呉軍港空襲では、繋留された状態ながら対空戦闘を行う。24日空襲では12.7cm高角砲81発、25mm機銃1376発、12.7cm噴進砲(ロケット砲)15発を発射。28日空襲では高角砲12発、機銃252発を発射。30日、呉鎮守府長官は龍鳳及び空母鳳翔の周辺に25mm機銃を配備して対空陣地を築くよう命じる。さらに空襲で大破着底した巡洋艦利根、大淀からも両艦が装備していた25mm単装機銃及び乗組員が龍鳳と鳳翔に派遣された。龍鳳は防空砲台となった状態で終戦を迎えた。1946年(昭和21年)4月2日に呉工廠にて解体を開始し、9月25日に完了した。

出典:wikipedia

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