黒沢 年雄(くろさわ としお、1944年2月4日 - )は、日本の俳優・歌手。本名・旧芸名(2000年に改名)、黒沢 年男(読み同じ)。株式会社プロダクション・クロ代表取締役。神奈川県横浜市西区出身。日本大学高等学校中退。弟はくろさわ博(元ヒロシ&キーボー)。妻は街田リーヌ(本名・街子、旧姓・宮崎)、娘は黒沢レイラ(旧芸名・三井万裕美、本名・裕美)。1964年、第4期東宝ニューフェイスとして東宝に入社。俳優を志した理由は「有名になって金持ちになりたかったから」。岡本喜八、福田純、西村潔、松林宗恵などの作品に多く起用されて人気が出る。テレビドラマでも『ザ・ハングマン』への出演で知られるようになる。独特の低音声が特徴で、『やすらぎ』と『時には娼婦のように』には大ヒットとなった。平成に入ってからはオウミ住宅のCMが話題を集め、トーク番組では中尾彬などと並んで出演が増加した(『踊る!さんま御殿!!』内では一時期「八方一郎(やかた いちろう)」という名前で呼ばれ、頻繁にゲスト出演していた)。1992年に大腸癌が発覚し、それまでアイパーをかけていた頭髪を短く刈り込み(現在はそれに加えて白く染めている)、その後は無精髭(長さは2mmに揃えている)を生やし、ニット帽(当初はファッションモデルの夫人が持っていたピエール・カルダンのニット帽だった)を被るようになった。2010年、著書『二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由』(講談社刊)を上梓、2008年に膀胱癌の内視鏡手術を行っていたことを告白した。2015年5月14日、白内障の手術を受け、成功。東宝で面接を受ける日、わざと遅刻して面接会場に現れ、「自分を合格させないと映画界の損失になる」と言い放った(その時面接を受けた男性希望者で合格したのは黒沢ただ一人だった)。トレードマークとなったニット帽は先述の通り妻が持っていたものであるが、黒沢は、ある日「このままでは自分の存在が薄くなって忘れ去られてしまうのではないか」と思い立ち、今までの自分を捨てて新しくイメージを構築することを思い立ち、まず頭を丸めたが、「まだ何か足りない」と思っている時、妻が自分の古い写真を見つけ、さらにその中で被っていたニット帽が箪笥の中から出てきたので被ってみると、思いのほか似合っていたため、この格好に決めたという(さらに髭を伸ばして見たとき、自ら「ショーン・コネリーに似ている」とも思ったと述べている)。当初は『ウルトラマン』のウルトラマン(ハヤタ)役の候補に挙がっていた。黒沢本人は、当時所属していた東宝プロデューサーの藤本真澄が黒沢に映画の仕事を優先させるために断ったのではないかと推測している。『いつみても波瀾万丈』出演時によると、デビュー前後に関わらず、ケンカに明け暮れていた。その腕っ節は強く、警察に職務質問を受けても捕まらなかった。映画スターとなってかなりの収入があったが、森繁久彌から「貯金を残すな」と言われ、そのとおりに遊興し、東宝との契約解除や『ハングマン』の主役交代などで幾度か収入がピンチになってしまい、「森繁さんの言うことさえ聞いてなければ、今頃は…」とコメントしたことがある。『三年目の浮気』を歌う依頼があったが、当初、ニヒルな二枚目としてのイメージがあった黒沢は、コミカルな歌の内容からこれを断り、バンド活動をしていた弟に白羽の矢が立てられた。
出典:wikipedia
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