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第二水雷戦隊

第二水雷戦隊(だいにすいらいせんたい)は、日本海軍の部隊の一つ。1914年(大正3年)に第一次世界大戦に備えた戦時編制で初めて編成され、日本海軍最後の水上艦作戦行動となった坊ノ岬沖海戦で壊滅するまで、漸減邀撃作戦における前線部隊に位置づけられた第二艦隊に属し、最前線の攻撃部隊として活動した。水上雷撃戦部隊として日本海軍水雷戦隊の中でも最も練度、攻撃力の高い水雷戦隊である。太平洋戦争でもソロモン方面などで活躍した。 略して二水戦(にすいせん)と呼ばれていた。日清戦争における威海衛夜襲、日露戦争における日本海海戦の夜間雷撃戦を通じ、日本海軍では水雷攻撃を砲撃と並ぶ二本柱として重視した。1914年(大正3年)8月18日、ドイツへの宣戦布告に備えて戦時編制を組んだ際に、第一艦隊に属する第一水雷戦隊とともに、第二艦隊用に第二水雷戦隊を編制した。この2個戦隊は、特設の第三水雷戦隊以降とは違って常設となった。第二艦隊が前線部隊であることから、第二水雷戦隊には、強力な装備と長大な航続力が要求された。このため、漸減邀撃作戦が瓦解した真珠湾攻撃以後も、第二水雷戦隊には強力な装備を誇る駆逐艦が投入された。またレイテ沖海戦で崩壊した日本海軍水上艦部隊の残存部隊でも、第一水雷戦隊は解散したにもかかわらず、最後の水雷戦隊として、第二水雷戦隊は寄せ集めとはいえ壊滅の日まで維持された。編制当初は、最初に導入した東雲型から神風型までの三等駆逐艦がだぶついている一方、一等駆逐艦は海風型しかなく、二等駆逐艦も桜型とその量産型の樺型が量産中であったために参加できず、2個水雷戦隊はやむなく三等駆逐艦だけで編制した。1915年(大正4年)12月13日、一等・二等駆逐艦の量産が一段落したことから、ようやく第二水雷戦隊に一等・二等駆逐艦が供給された。以後、第二水雷戦隊には、峯風型・神風型・睦月型・吹雪型・陽炎型・夕雲型・島風型と、最新・最強の駆逐艦が投入された他、配属された兵員も練度が高い精鋭が集められた為、華の二水戦と謳われた。一方、最終防衛線で主力の戦艦を護衛する第一水雷戦隊には、第二水雷戦隊ほどの強力な武装を要求されなかった。このため、第二水雷戦隊に新型が導入されたために追い出された型落ちの駆逐艦(たとえば、吹雪型就役のために陳腐化した神風型や睦月型)が回されたり、もとより最前線での使用を考えられていなかった樅型や若竹型などの二等駆逐艦、期待された性能に届かなかった初春型・白露型・朝潮型は第一水雷戦隊でデビューした。それでも、第一水雷戦隊は、世代が違うほど旧式化した老朽駆逐艦をかき集めた第三水雷戦隊、第四水雷戦隊などからみれば、充実した戦力を保有していたといえる。ただし太平洋戦争開戦時の第二水雷戦隊・第18駆逐隊は陽炎型(陽炎、不知火)と朝潮型(霰、霞)の混成部隊であり、陽炎型4隻(谷風、浦風、浜風、磯風)で統一された第17駆逐隊は第一水雷戦隊、陽炎型4隻(嵐、野分、萩風、舞風)の第4駆逐隊は第四水雷戦隊の所属である。太平洋戦争の激化にともない駆逐艦の消耗が激しくなると、初春型や白露型も第二水雷戦隊へ順次編入され、最終時の二水戦は吹雪型(初雪型)、初春型、白露型、朝潮型(満潮型)、陽炎型(不知火型)、夕雲型、秋月型の寄せ集めとなった。坊ノ岬沖海戦直前の4月6日午前9時、草鹿龍之介連合艦隊参謀長は各部隊に対し、二水戦所属駆逐艦を「月型2隻《冬月、涼月》、磯風型3隻《雪風、磯風、浜風》、若葉型3隻《初霜、朝霜、霞》」と説明している。同日午後1時30分頃の電文では、誤爆・誤突入を避けるための艦型識別説明において、護衛駆逐艦を秋月型駆逐艦2隻(冬月、涼月)、夕雲型駆逐艦6隻(磯風、雪風、浜風、霞、初霜、朝霜)と説明している。戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」と共に沖縄へ出撃した第二水雷戦隊所属駆逐艦の艦型は、秋月型2隻(冬月、涼月)、初春型1隻(初霜)、満潮型1隻(霞)、不知火型3隻(磯風、雪風、浜風)、夕雲型1隻(朝霜)だった。日本以外の国の水雷戦隊は、一回り大型の駆逐艦(嚮導駆逐艦)に司令官が座乗したが、日本は巡洋艦を旗艦とする方針を当初より採り、新編時は利根 を旗艦に当てた。荒天時の索敵能力に優れ、のちには艦載機による索敵も可能となった。また遭遇戦では巡洋艦の強力な武装による敵水雷戦隊の制圧、逆に頑強な防御力を頼みにした囮役が期待された。現に、太平洋戦争時には、神通・川内らが敵軍の集中攻撃を受けているうちに、味方水雷戦隊の雷撃が成功している例がある。とはいうものの、巡洋艦には最前線の洋上単独偵察という本来の任務があるため、最新鋭の巡洋艦を水雷戦隊旗艦の任務に充てるわけにはいかなかった。第一次世界大戦中は、最新鋭の筑摩型を充てることができず、旧式で機動性に劣る装甲巡洋艦の出雲や吾妻で乗り切っている。しかし、日本海軍は大正期以降は巡洋艦の水雷戦隊旗艦としての用途を重視し、英海軍のスカウト(偵察艦)の流れをくむ一連の高速軽巡洋艦が開発された。3500t型と呼ばれる天龍型とその拡大型である5500t型、球磨型・長良型・川内型である。だが、就役当時は列強の羨望の的であった5500t型も日本の国力では後継艦の建造が思うに任せず、太平洋戦争時にはすでに旧式化していたが、阿賀野型の就役までは第一線に立たざるを得なかった。また米軍の制空権下で対空火器の貧弱な5500t型を運用するのは困難だったため、戦場に突入する場合は夕雲型駆逐艦や秋月型「照月、新月」などの駆逐艦が旗艦を務めることも多かった。

出典:wikipedia

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