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三隈 (重巡洋艦)

三隈(みくま)は、旧日本海軍の重巡洋艦で、最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の2番艦。三菱造船長崎造船所にて建造された。艦名は大分県の日田盆地を流れる三隈川(筑後川の一部)に因る。艦内神社は大原八幡宮。三隈はミッドウェー海戦で沈没し、太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。艦名は海上自衛隊の護衛艦に継承された。日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田、天龍、球磨、多摩)を以下4隻(最上、鈴谷、三隈、熊野)と置換することにした。軍艦三隈は1931年(昭和6年)12月24日、 三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて、計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、60口径15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工。電気溶接を多用している。1932年(昭和7年)8月1日、正式に『三隈』と命名された。同日附で姉妹艦『最上』や、駆逐艦3隻(初春、子日、若葉)、水雷艇2隻(千鳥、真鶴)、夏島型敷設艇夏島、伊六八《伊168》、伊六九《伊169》等も命名されている。各艦は艦艇類別等級表に類別、二等巡洋艦最上型、一等駆逐艦初春型、千鳥型水雷艇、一等潜水艦海大六型等が新設された。1934年(昭和9年)5月31日、三隈は米内光政佐世保鎮守府長官や皇族の伏見宮博恭王が見守る中で進水する。6月1日、日本海軍は吉田庸光大佐(当時第7駆逐隊《曙、朧、潮》司令)を三隈艤装員長に任命する。6月14日、艤装員事務所を設置。翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが、藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型二等巡洋艦の工事も急遽中断された。最上を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、三隈も補強工事を行う。7月4日、三隈艤装員長と川内型軽巡洋艦1番艦川内艦長を入れ替える人事が行われる(吉田大佐は川内艦長へ。川内艦長鈴木田幸造大佐が三隈艤装員長へ)。なお吉田大佐は11月20日より最上型3番艦鈴谷艤装員長に任命された。三隈は1935年(昭和10年)8月29日に就役。初代の幹部は、鈴木田幸造大佐(艦長)、松田平重朗中佐(副長)、高橋三治少佐(運用長)、中島民部少佐(砲術長)、小原尚少佐(航海長)、桝本要少佐(水雷長)、高内和義少佐(通信長)、指山辰雄機関中佐(機関長)、古河兼義主計少佐(主計長)。同日附で艤装員事務所を撤去。この時点で基準排水量は1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった。竣工した三隈は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日、 三陸沖にて第四艦隊事件に遭遇した。11月15日、三隈は第2予備艦に指定。鈴木田(三隈艦長)は高雄型重巡洋艦2番艦愛宕艦長に補職、青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」艦長武田盛治大佐が三隈艦長として着任する。三隈は11月30日より呉工廠に入渠、修理や調整を行う。1936年(昭和11年)2月5日に出渠、4月1日より第3予備艦となる。12月1日、武田大佐(三隈艦長)は妙高型重巡洋艦3番艦「足柄」艦長へ転任、室戸型給炭艦2番艦野島特務艦長や出雲型装甲巡洋艦1番艦「出雲」艦長等を歴任した岩越寒季大佐が三隈艦長に任命される。1937年(昭和12年)5月7日から10月31日にかけて呉工廠に入渠。12月1日、最上型巡洋艦からなる新鋭の第七戦隊が編制され、日本海軍は沢本頼雄少将(当時、海軍艦政本部総務部長)を第七戦隊司令官に任命する。同日附で、岩越大佐(三隈艦長)は妙高型重巡洋艦2番艦那智艦長へ転任。入船直三郎大佐(海軍砲術学校教頭)が三隈艦長となる。1938年(昭和13年)11月15日、入船大佐(三隈艦長)は海軍艦政本部総務部第二課長へ転任。金剛型戦艦2番艦比叡艦長平岡粂一大佐は、比叡艦長と三隈艦長の兼務を命じられた。12月15日附で第七戦隊司令官沢本頼雄中将は軍令部出仕となり、海軍省人事局長清水光美少将が後任の七戦隊司令官に補職。同日附で平岡大佐(比叡艦長)の兼務は三隈から伊勢型戦艦2番艦日向に変更(比叡、日向艦長兼務)。天龍型軽巡洋艦1番艦天龍艦長阿部孝壮大佐が三隈艦長に任命された。1939年(昭和14年)5月20日、第七戦隊司令官清水光美少将は第六戦隊(利根、筑摩)司令官へ転任。第七戦隊の残務処理は第六戦隊司令部でおこなわれる。本艦は第3予備艦に指定された。7月20日、阿部大佐(三隈艦長)は妙高型1番艦妙高艦長へ転任、姉妹艦「鈴谷」艦長久保九次大佐が鈴谷及び三隈艦長を兼務する。7月24日附で、当時の三隈砲術長志柿謙吉少佐(空母飛鷹沈没時副長)は上海海軍特別陸戦隊へ転任、後任の三隈砲術長は田代格少佐となる(太平洋戦争開戦時、大本営海軍報道部所属)。同年11月15日、三川軍一少将(軍令部第二部長)が第七戦隊司令官に任命される。第七戦隊旗艦は「熊野」に指定された。同日附で、久保九次大佐(鈴谷・三隈艦長兼務)は空母加賀および金剛型戦艦4番艦霧島艦長を命じられる(加賀、霧島艦長兼務)。そのため高柳儀八大佐(海軍砲術学校教頭)が鈴谷艦長に、木村進大佐(横須賀海軍工廠航海実験部長)が三隈艦長に、潜水母艦迅鯨副長小西要人中佐が三隈副長に、それぞれ任命された。本艦は特別役務艦となり、主砲換装工事にとりかかる。12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する五十口径三年式二〇糎砲(20.3cm連装砲塔)5基に換装する。15.5cm砲は用兵側からの評価が高く、後に砲塔のみ新造して大和型戦艦の副砲や軽巡大淀の主砲に流用している。1940年(昭和15年)5月1日、工事を終えた三隈は第七戦隊に復帰。10月19日、当時三隈副長小西要人中佐は第21水雷隊司令へ転任(開戦時の第7駆逐隊司令。第9駆逐隊司令、阿武隈艦長を経て空母雲龍艦長)、球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」副長山岡昭一中佐が三隈副長となる。11月1日、三川軍一少将(第七戦隊司令官)は金剛型戦艦で編制された第三戦隊司令官へ転任、三川の後任として第四水雷戦隊司令官栗田健男少将が第七戦隊司令官に任命される。同日附で三隈艦長は木村進大佐から崎山釈夫大佐(長良型軽巡洋艦6番艦阿武隈艦長)に交代した(木村は金剛型3番艦榛名艦長)。1941年(昭和16年)8月11日、山岡(三隈副長)は金剛型1番艦金剛副長へ転任、長良型6番艦「阿武隈」副長高嶋秀夫中佐が三隈副長となる。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において、三隈は引き続き姉妹艦3隻(熊野、鈴谷、最上)と共に第七戦隊(司令官栗田健男少将、旗艦:熊野)を編成し、南方作戦に投入された。蘭印作戦にも従事し、船団護衛や上陸支援を行う。1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦において、第七戦隊第2小隊(三隈、最上)および同行駆逐艦敷波は海戦後半になり戦場へ到着、崎山(三隈艦長)は「われ今より敵に止めを刺す」と宣言。共同でアメリカの重巡ヒューストンとオーストラリアの軽巡パースを撃沈した。この戦果に対し、連合艦隊司令長官山本五十六大将は後日感状を授与した。続いて生起したセイロン沖海戦(ベンガル湾通商破壊作戦)では、馬来部隊指揮官小沢治三郎中将(旗艦鳥海)の指揮下、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、中央隊(鳥海、龍驤、由良、夕霧、朝霧)、南方隊(三隈、最上、天霧)という編制で通商破壊作戦に従事。本艦を含む南方隊は商船約10隻撃沈を記録した。内地帰投後の5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進。1942年(昭和17年)6月上旬に生起したミッドウェー海戦で、三隈は近藤信竹中将指揮する第二艦隊、第七戦隊三番艦として参加し、支援隊(輸送船団護衛艦隊)として第二艦隊主隊とは別行動をとった。5月28日、グアム島を出港してミッドウェー島占領部隊(輸送船団)と合流し、作戦海域へ向かう。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。日本時間6月5日午前7時25-30分、南雲忠一中将指揮する南雲機動部隊の主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)はレイモンド・スプルーアンス少将率いるアメリカ軍第16任務部隊と第17任務部隊の空母ヨークタウン("USS Yorktown, CV-5")、空母エンタープライズ("USS Enterprise, CV-6")、空母ホーネット("USS Hornet, CV-8")艦載機の攻撃で致命傷を負った。この時点で日本軍は、試作彗星爆撃機の偵察結果やアメリカ軍搭乗員捕虜の尋問結果からアメリカ軍戦力の正確な情報を得た。主隊の大和型戦艦1番艦大和座乗中の連合艦隊司令部(山本五十六司令長官、宇垣纏参謀長、黒島亀人参謀等)は、日本軍3空母被弾時点で健在だった空母飛龍(第二航空戦隊司令官山口多聞少将)の攻撃で米空母に損害を与えたのち夜戦に持ち込めば「勝利の望みあり」と判断する。旗艦・赤城から脱出後、長良型軽巡洋艦1番艦長良(第十戦隊旗艦)に移乗していた南雲司令部(南雲中将、草鹿龍之介参謀長)も連合艦隊司令部と同じ認識を持っていた。ここでミッドウェー島飛行場が問題となった。ハワイから増援航空兵力がミッドウェー基地飛行場に飛来し、同島基地飛行隊とアメリカ軍機動部隊により日本軍艦隊が挟み撃ちにされる可能性が生じたのである。宇垣参謀長は南雲艦隊に『ミッドウェーに対する成果、特に敵機が明朝同基地を使用し得るかにつき報告ありたし』と照会するが、南雲司令部からの返答はなかった。黒島亀人参謀達は夜間のうちに第二艦隊(近藤艦隊)の巡洋艦部隊でミッドウェー島を砲撃することを提案し、宇垣纏参謀長は最初反対したが、最終的に同意した。日本時間午前10時10分、山本長官は連合艦隊電令作第156号『攻略部隊は一部の兵力を以って今夜AF陸上航空基地砲撃破壊すべし。AF、AO攻略は一時延期す』と発令する。山本から命令を受けた前進部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官)は、栗田健男中将の第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)および第8駆逐隊2隻(荒潮、朝潮)に対し、6月6日夜明け前のミッドウェー島進出と砲撃を命じた。近藤中将は、栗田少将の第七戦隊が予定どおり最も前方に進出してミッドウェー島に近い距離にいると考えていたが、実際にはかなり後方に離れていた。鈴木正金(中佐・七戦隊首席参謀)は「連合艦隊は空母をやられて血迷ったか」と発言し、山内正規(最上航海長)は「横暴」という表現を使っている。近藤中将は第七戦隊からの報告で同戦隊の正確な位置情報(愛宕の真南120浬。上陸船団のはるか後方)を入手し、中島親孝(第二艦隊通信参謀)は『いつもながら困った戦隊である』と述べている。第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と判断した近藤は連合艦隊に砲撃中止を求めたが、連合艦隊参謀達は特に対策を講じず、返信もなかった。第二艦隊の命令を受けて、第七戦隊はミッドウェー島へ向かって35ノットという最大戦速で南進した。午後2時20分、栗田少将(第七戦隊司令官)は重巡洋艦の突進についてゆけない第8駆逐隊(荒潮、朝潮)に待機を命じる。また後に空母ヨークタウンを撃沈する潜水艦「伊一六八」も午後5時30分に『伊168は午後11時までミッドウェー(イースタン島)敵航空基地を砲撃すべし。2300以後は第七戦隊とす』という連合艦隊命令を受信している。この間、第二航空戦隊司令官山口多聞少将率いる空母飛龍は米空母ヨークタウンに二波の攻撃隊を送り込んで撃破・航行不能としたが、飛龍もまたアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃により被弾して炎上した。空母2隻(加賀、蒼龍)は既に沈没し、南雲機動部隊の残存空母2隻(赤城、飛龍)も激しい火災のため沈没は時間の問題だった。日本時間午後9時15分、山本長官はGF機密第303番電で『第七戦隊を含む攻略部隊(第二艦隊)、南雲機動部隊は連合艦隊主力部隊に合同せよ』と命じた。事実上のミッドウェー島砲撃中止命令である。第七戦隊は大和以下連合艦隊主力部隊と合流すべく反転した。ミッドウェー島砲撃可能距離まで、あと2時間程だったという。日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号で明確にミッドウェー攻略作戦の中止と、各艦隊の撤退を命じた。第七戦隊は針路を北北西にとり、28ノットで連合艦隊主隊との合流地点へ急いだ。陣形は、旗艦熊野を先頭に鈴谷-三隈-最上と続く一列縦列(単縦陣)である。第七戦隊の反転から約1時間20分後、アメリカの潜水艦タンバー ("USS Tambor, SS-198")が数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した。直後、タンバーは日本艦隊が接近したため急速潜航を行う。同時刻、第七戦隊も右45度前方5000mにタンバーを発見し、旗艦熊野は信号灯による左緊急45度一斉回頭を命じた。すると岡本功(少佐・熊野当直参謀)が「左45度」1回だけでは回避角度が足りないと判断し、無線電話で追加の「緊急左45度一斉回頭」を命じた。このため後続2番艦(鈴谷)は左緊急回頭が1回だけか、2回行うのか、判断に困って混乱する。その間にも2番艦(鈴谷)は先頭艦(熊野)と衝突コースに入り、鈴谷は咄嗟に面舵に転じた為、単縦陣形から右方向にはじき出された。3番艦(三隈)は2番艦(鈴谷)が右方向に去ったことに気づかず、左に曲がる1番艦(熊野)を2番艦(鈴谷)と思い込み、衝突の危険を感じてさらに左に舵を切った。最後尾4番艦(最上)は2番艦(鈴谷)の離脱に気づかず、くわえて1番艦(熊野)を3番艦(三隈)と誤認し、左45度1回、左25度1回に変針したあと、右45度面舵に転じて1番艦(熊野)に続行した。福田徳次郎(中佐・最上副長)が前方を横切る3番艦(三隈)に気づき、曾爾(大佐、最上艦長)が取舵を命じた時には手遅れだった。28ノットで進む4番艦(最上)は3番艦(三隈)の左舷中央部に衝突する。両艦の殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった。最上は左方向に艦首がつぶれた。三隈は艦橋から煙突の下に長さ20m、幅2mの破孔が生じて小火災が発生したが、浸水はわずかで、火災もすぐに消火された。だが左舷燃料タンクが損傷し、油の尾を引くようになる。第七戦隊司令官栗田健男少将は連合艦隊司令部(大和)に対し『十一時三十分、右45度に浮上中の敵潜を認め緊急回避中、四番艦最上は其艦首を以て三番艦"三隈に衝突"、最上前進見込み立たず、三隈支障なし。地点・・・最上援護中』と報告し、第2小隊(三隈、最上)に南西方向の日本軍拠点トラック島泊地へ退避するよう命じる。その後、栗田は第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった。このあと第七戦隊は上級部隊に一切報告を入れず沈黙し、8日になってからようやく近藤艦隊と合流。中島(第二艦隊参謀)は栗田司令官と参謀達を再び『どうも困った部隊である』と評している。宇垣纏連合艦隊参謀長は『第七戦隊を二手に分けるより、戦隊全艦で最上を護衛した方が良かったのではないか』と指摘する。だが強い批判ではなく、その後も栗田が譴責されるような事にはならなかった。この時点での被害は三隈より艦首を喪失した最上の方がひどく、最大発揮速力は16ノット程度だった。第1小隊(熊野、鈴谷)が去ったため、ミッドウェー島から距離120浬地点で三隈艦長は4隻(三隈、最上、朝潮、荒潮)を指揮し、退避行動に移る。一方で、浮上や潜水を繰返していたタンバーは『敵味方不明の多数の艦(ミッドウェーより89マイル)』を報告、さらに第2小隊(三隈、最上)を確認したが、最終的に振り切られている。スプルーアンス少将は息子が乗艦するタンバーから第七戦隊発見の報告を受けると、アメリカ軍機動部隊を率いて南下した。6月6日午前6時30分、三隈はアメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇を発見し、空襲があると判断した乗組員達の間には悲壮な空気が漂いはじめた。カタリナは『二隻の戦艦の艦尾に油の航跡が見える』と報告、これを受けてB-17重爆8機が攻撃に向かった。またフレミング大尉率いる急降下爆撃機SB2Uビンジゲーター6機、テイラー大尉率いる急降下爆撃機SBDドーントレス6機がミッドウェー島を発進し、日本軍の『戦艦2隻』を仕留めに向かった。午前8時40分、アメリカ軍機は攻撃を開始、SBU隊指揮官のフレミング大尉は対空砲火で被弾炎上し、「三隈」の4番砲塔に体当たりしたとされる。アメリカ軍海兵隊は、フレミング大尉は三隈に直撃弾を与えたものの、被弾して海中に突入したと記録している。フレミング大尉は勇敢な行動によりメダル・オブ・オナー(名誉勲章)を死後授与された。続いてB-17爆撃機8機が水平爆撃を行い、至近弾3発、命中弾2発を主張した。もっとも最上で2名が戦死したが、命中弾はなかった。三隈は深刻な被害を受けたとする解釈もあるが、実際は不明である。三隈乗組員も、同日は大きな被害なかったと回想している。第二艦隊への報告では、両艦とも被害なし。スプルーアンス少将は『戦艦2隻、および炎上中の空母1隻、重巡洋艦3隻見ゆ、方位324度、距離240浬、針路310度、速力12ノット』という報告を受け、南雲機動部隊を追撃し、掃討することを決意した。1942年(昭和17年)6月7日午前5時、第七戦隊第2小隊(三隈、最上)は第8駆逐隊(荒潮、朝潮)と合流した。同時刻、ホーネットの索敵機は『空母1隻、駆逐艦5隻』発見を報告し、続いて『さらに戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻見ゆ』と報告、また別の索敵機も『重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻』の発見を報告した。スプルーアンス少将は南雲機動部隊にとどめを刺すべく、ホーネット("USS Hornet, CV-8")に攻撃を命じた。直ちにF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機が発進する。続いて午前10時45分、エンタープライズからワイルドキャット12機、ドーントレス31機(艦戦12、艦爆31、艦攻3とも)が発進した。三隈は午前7時前後からアメリカ軍索敵機を発見し、『敵水偵2機触接、付近に水上艦艇あるものの如し。われ敵空母水上艦艇の追跡を受けつつあり、今よりウェーキ島へ向かう。地点、ウェーキの30度710浬』と発信した。午前8時25分、最上は『敵兵力は空母1、巡洋艦2程度と認む』と発信する。宇垣参謀長は近藤信竹中将の第二艦隊に救援命令を出すと共に、アメリカ軍機動部隊の戦力を空母1-2・特空母2隻程度と推測し、ウェーク島の航空機行動圏内に引き込んで決戦を挑むしかないと判断した。近藤中将は『攻略部隊主隊は敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈、最上を救援せんとす』と山本五十六連合艦隊司令長官に連絡すると、第二艦隊兵力を率いて七戦隊第2小隊(三隈、最上)の救援に向かったが、駆逐艦の燃料の関係から20ノットが限界であったという。近藤中将は部下達に、空母瑞鳳(第二艦隊)の航空兵力と重巡洋艦が搭載する水上偵察機部隊を用いて全力攻撃をかける覚悟を示している。特攻を検討したと証言する瑞鳳搭乗員もいる。一方、三隈は駆逐艦の護衛をつけると3隻(最上、朝潮、荒潮)を残し、ウェーク島日本軍基地から発進する一式陸上攻撃機の飛行圏内に向って単艦で退避行動を開始した。曽爾章(最上艦長)や山内正規(最上航海長)は三隈の行動を理解しつつ、離れていく三隈を羨望の思いで見つめていた。エンタープライズの報告書によれば、6月7日は穏やかな天候で、少し低い所に雲がかかっていた。零式艦上戦闘機がいないため、アメリカ軍攻撃隊は余裕をもって空襲を行うことができた。午前7時、ホーネットの攻撃隊(ドーントレス1機喪失)は霧島級戦艦1隻に500kg爆弾2発と250kg爆弾1発の命中を主張し、2隻(最上、荒潮)にも爆弾命中を主張する。最上は後部砲塔に深刻な損害を受け、艦中央部で火災が発生し、酸素魚雷を緊急投棄した。最上の撃沈を確信したアメリカ軍機は、三隈に目標を変更した。エンタープライズの攻撃隊は28ノットで西に進む戦艦と愛宕型重巡洋艦を発見、攻撃を開始した。エンタープライズ隊は1,000ポンド爆弾5発命中、2発至近弾を主張し、さらにワイルドキャット戦闘機が12.7mm機銃を撃ちこんだ。午前11時の段階で三隈は艦橋から艦中央部にかけて集中的に被弾し機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生、『三隈大爆発見込なし』という状態になった。最後にホーネットから発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻(三隈)に爆弾1発、軽巡洋艦1隻(最上)に爆弾6発の命中を主張した。ホーネットの第二波攻撃隊は「三隈」の3番砲塔に1発を命中させ、破片が艦橋の天蓋から頭を出していた崎山釈夫大佐(三隈艦長)に重傷を負わせた。さらに爆弾が右舷機械室と左舷後部機械室を直撃し、三隈は航行不能となった。艦の指揮を継承した高島秀夫(中佐・副長)は部下に脱出のための筏を作らせた。また空襲下4隻全体の指揮は曾爾(最上艦長)が継承した。この時、日本艦隊攻撃に向かったB-17爆撃機6機は米潜水艦のグレイリング("USS Grayling, SS-209")を誤爆し、「巡洋艦1隻撃沈」を報告している。乗組員が20発被弾と推定するほど多数の爆弾を被爆した三隈は、火災により搭載する酸素魚雷が誘爆、致命傷となった。「朝潮」の乗組員によれば、三隈中央部で被弾誘爆による大火災が発生したのち、煙突にも直撃弾があって白煙が噴出し、完全に停止したという。高島秀夫(三隈副長)は総員退去を命じ、高島副長自身は爆弾の直撃で戦死した。水平線の向こうから駆逐艦荒潮(第8駆逐隊)が現れて接近すると、三隈乗組員は歓声を上げて荒潮を迎えたという。接舷した荒潮は多数の三隈乗組員を救助したが、その最中に米軍機の攻撃を受け、後部砲塔に命中した爆弾により戦死者が続出する。さらに、アメリカ軍機は海面を漂う三隈乗組員に対し、執拗な機銃掃射を繰り返す。荒潮は240名程を救助した段階で退避を余儀なくされ、人力操舵で三隈から離れた。朝潮は内火艇やカッターボートを降ろして海面を漂流する三隈乗組員の救助にあたったが、アメリカ軍機の攻撃で被弾、戦死者22名・重傷者35名を出した。遠ざかる三隈になお爆弾が命中したのが目撃されている。しばらくして、エンタープライズからドーントレス2機が発進し、戦果の確認に向かった。廃墟となった三隈の周囲を飛行しながら写真を撮影。三隈は左舷に傾斜し、右舷からは煙と蒸気がたなびき、主砲は別々の方向を向いて、完全に沈黙していた。ある艦攻電信員兼機銃手は三隈を『屑鉄とガラクタでいっぱいの巨大なバスタブ』と表現している。太陽が沈みアメリカ軍機空襲の危険が去ると、朝潮は三隈の処分と脱出者の救援に向かった。空襲を受けた海域に戻った朝潮は艦影を発見できず、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告する。これを受けて最上は『三隈所在海面に至るも艦影を見ず。確認したるものなきも沈没せる算段大なりと認む。我れ取り敢えず重傷者を収容、西航を続行す』と連合艦隊に報告し、第二艦隊との合流を急いだ。アメリカ軍も三隈の沈没の瞬間を目撃していない。石川健一(三隈機関科)によれば、日没直前に沈下をはやめたのち左舷に転覆し、沈没した。6月8日午前中、第二艦隊は三隈の生存者を乗せた3隻(最上、荒潮、朝潮)を収容、生存者は荒潮から鈴谷に移乗して日本本土へ戻った。栗田提督(第七戦隊司令官)は、第2小隊の苦境について「そんな情況だったのには気付かなかった」と戦後回想している。三隈の最後を聞いた連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、陣中日記戦藻録に以下のように記述した。6月9日、アメリカの潜水艦トラウト ("USS Trout, SS-202") が漂流する救命筏から2名の三隈乗組員を救助した。当初19名が筏に乗っていたが、最終的に2名だけになってしまったという。8月10日、ミッドウェー海戦で喪失した3隻(三隈、蒼龍、加賀)は海軍から除籍された。12月8日、山本五十六連合艦隊司令長官はバタビア沖海戦における3隻(最上、三隈、敷波)の活躍に感状を与えた。同月、崎山艦長の葬儀を横須賀鎮守府で行う。1943年(昭和18年)7月13日附で、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(補海軍中将)および各艦戦死者(加賀艦長岡田次作大佐、飛龍艦長加来止男大佐、蒼龍艦長柳本柳作大佐、三隈艦長崎山釈夫大佐、高嶋秀夫中佐)達は、それぞれ昇進した。

出典:wikipedia

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