熊野(くまの)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。最上型の4番艦。15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。一方、日本海軍の書類上の分類は戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった。重巡洋艦『熊野』の艦名は奈良県、和歌山県、三重県を流れる熊野川から因んで命名された。大日本帝国海軍(以下日本海軍)軍艦としての『熊野』は、明治時代の水雷母艦熊野丸、大正3年に日本郵船から購入した水雷母艦熊野丸に使用されている。また。またロシア帝国のバヤーン級装甲巡洋艦1番艦「バヤーン」を日本海軍が鹵獲・編入時の候補艦名でもあった(実際は一等巡洋艦阿蘇と命名)。重巡洋艦熊野の艦内神社は熊野坐神社(現・熊野本宮大社)。本艦建造時、熊野坐神社本殿を模した艦内神社が寄贈されたという。毎月1日には熊野神社例祭が行われていた。日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田、天龍、球磨、多摩)を以下4隻(最上、鈴谷、三隈、熊野)と置換することにした。建造中、第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正され1番艦(最上)、2番艦(三隈)とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもある。ただし日本海軍の分類は4隻とも最上型二等巡洋艦である。またボイラーは先行2隻(最上、三隈)の重油専焼罐大型8基小型2基・計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー数の減少の分だけ径が細くなっている。仮称艦名、第4号中型巡洋艦。1934年(昭和9年)3月10日、日本海軍は建造予定の二等巡洋艦を『熊野』、敷設艦を『沖島』と命名した。同日附で2隻(熊野、沖島)は艦艇類別等級表に類別される。本艦は同年4月5日、川崎重工業神戸造船所にて起工。1936年(昭和11年)10月15日、伏見宮博恭王、永野修身海軍大臣列席のもとに進水。呉海軍工廠で製造された熊野用15.5cm三連装砲塔5基は、知床型給油艦1番艦知床が呉から神戸へ輸送した。12月1日、日本海軍は須賀彦次郎大佐(美保関事件の駆逐艦菫艦長)を熊野艤装員長に任命した。12月7日、藤永田造船所に江風艤装員事務所を、神戸川崎造船所に熊野艤装員事務所を設置する。1937年(昭和12年)7月上旬、熊野は神戸川崎造船所から呉海軍工廠へ移動、艤装員事務所も移転した。8月8日、熊野艤装員事務所を神戸川崎造船所に戻す。9月下旬から10月上旬にかけて、艤装員事務所を呉海軍工廠に移転。10月9日、艤装員事務所を神戸に戻す。10月31日就役。その姿は一般にも公開された。また熊野は、鈴谷以下3隻(鈴谷、大潮、満潮)と同日附の竣工だった。竣工と同時に須賀彦次郎艤装員長は軍令部出仕となり、西村祥治大佐が熊野艦長(初代)に任命された。後日、須賀(海軍少将)は海軍大将大角岑生(元海軍大臣)と共に中国方面で飛行機墜落事故に遭遇し事故死した(1941年2月5日、死亡認定。海軍中将)。熊野の竣工から約一ヶ月後の1937年(昭和12年)12月1日、日本海軍は沢本頼雄少将(海軍艦政本部総務部長)を司令官とする第七戦隊を編制。第七戦隊は、最上型巡洋艦4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)からなる新鋭戦隊となる。沢本司令官は、七戦隊初代旗艦を「熊野」に指定。12月6日、将旗を本艦に掲げた。1938年(昭和13年)11月15日、当時の伊勢型戦艦2番艦日向艦長宇垣纏大佐が軍令部出仕となり、西村大佐(熊野艦長)は本艦及び日向艦長を兼務する。12月15日、第七戦隊司令官沢本頼雄中将は退隊、後任司令官は清水光美少将(海軍省人事局長)。同日附で平岡粂一大佐(戦艦比叡艦長、重巡三隈艦長)の艦長兼務が比叡及び日向となり、西村(熊野、日向艦長)は日向艦長の任を解かれた。1939年(昭和14年)5月18日、西村祥治(熊野艦長)は金剛型戦艦3番艦榛名艦長へ転任、球磨型軽巡洋艦1番艦球磨艦長八代祐吉大佐が熊野艦長となる。5月20日、第七戦隊司令官清水光美少将は第六戦隊(利根、筑摩)司令官へ転任した。第七戦隊の残務処理は第六戦隊司令部でおこなわれた。熊野は5月20日より予備艦に指定され、同年、最上型各艦は当初主砲として搭載されていた15.5cm3連装砲塔をに20.3cm連装砲塔に換装する。11月15日附で日本海軍は第七戦隊を再編し、三川軍一少将(軍令部第二部長)を第七戦隊司令官に任命。同日附で八代大佐(熊野艦長)は妙高型重巡洋艦2番艦那智艦長へ転任し、有馬馨大佐(海軍省教育局第二課長)が熊野艦長として着任する。第二艦隊司令長官古賀峯一中将は第七戦隊旗艦を熊野に指定した。1940年(昭和15年)10月11日、第七戦隊と第八戦隊の重巡5隻(熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した。10月15日、熊野艦長は有馬馨大佐(金剛型戦艦2番艦比叡艦長補職。後日、大和型戦艦2番艦武蔵初代艦長等を歴任)から敷設艦沖島艦長小畑長左衛門大佐に交代。11月1日、第七戦隊司令官も三川軍一少将から栗田健男少将(当時、第四水雷戦隊司令官)に代わった。1941年(昭和16年)5月24日、小畑(熊野艦長)は扶桑型戦艦2番艦山城艦長へ転任、田中菊松大佐(海軍砲術学校教頭)が後任の熊野艦長に補職される。8月20日、当時の熊野水雷長前田実穂少佐は睦月型10番艦三日月艦長へ転任(前田はレイテ沖海戦時の磯風艦長)。軽巡神通水雷長瀧川孝司大尉が熊野水雷長に補職される。9月20日、左近允尚正少将の長男左近允正章少尉候補生(練習巡洋艦鹿島乗組)は熊野乗組を命じられる。11月1日、正章は海軍少尉に任官し、ひきつづき熊野乗組。正章少尉は翌年8月まで熊野で勤務し、その後白露型駆逐艦2番艦時雨砲術長に任命された。1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、第七戦隊(司令官栗田健男少将)は第一小隊(熊野、鈴谷)、第二小隊(三隈、最上)で編成されていた。しかし本艦から指揮をとる栗田少将の作戦指導には問題があった。12月8日以降、マレー上陸作戦に参加する。蘭印作戦中に生起した1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦には、第2小隊(三隈、最上、駆逐艦敷波)のみ参加する。本海戦直前、連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将(軽巡洋艦名取座乗)と、敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将(熊野座乗)は一日近く電文の応酬をくりひろげた。みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し、仲裁に入る一幕もあったほどである。第七戦隊(栗田司令官)の行動について小島秀雄(海軍少将)は『あとで第七戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部に、第七戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。大事にしてくださいと言われて、後におるやつがあるものか』と批評している。4月1日より、第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)はインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事。第七戦隊は栗田少将直率の北方部隊(熊野、鈴谷、駆逐艦白雲)、三隈艦長指揮の南方部隊(三隈、最上、駆逐艦天霧)に分割されてベンガル湾で活動し、小沢治三郎中将直率の中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)と共に商船多数を撃沈した。4月22日、第七戦隊は第19駆逐隊(綾波、敷波、磯波、浦波)と共に内地へ帰投した。5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進。日本帰還後、第七戦隊はミッドウェー作戦に向けて準備を行う。第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)は第8駆逐隊(荒潮、朝潮)及び日栄丸を指揮下に入れ、護衛隊支援を任ぜられた。5月22日から6月22日にかけてミッドウェー作戦に参加する。6月5日、日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失、制空権をうしなった。残存する日本艦隊はアメリカ軍機動部隊とミッドウェー島基地航空隊に挟み撃ちにされる危険性が高くなった。この為、山本五十六連合艦隊司令長官(戦艦大和座乗)および攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(重巡愛宕座乗)は、第七戦隊(最上型重巡4隻)の艦砲射撃によるミッドウェー島基地(飛行場)破壊を命じる。近藤長官は第七戦隊がミッドウェー島に一番近い位置にいると思っていたが、本当の七戦隊は長官の予想位置より80浬後方にいた。第七戦隊は35ノットで9時間も突進したため、第8駆逐隊は落伍してしまう。だがミッドウェー島飛行場砲撃2時間前(同島より西方90浬地点)に作戦中止命令がだされ、第七戦隊は反転した。この作戦過程で、浮上中のアメリカの潜水艦タンバー("USS Tambor, SS-198")を回避しようとした単縦陣先頭艦(旗艦熊野)の航海信号が、後続艦(鈴谷、三隈、最上)に誤って伝達された。結果、七戦隊3番艦(三隈)と4番艦(最上)が衝突。栗田司令官は損傷の大きい最上に3隻(三隈、荒潮、朝潮)の護衛をつけ、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて主力部隊との合流を急いだものの、そのまま行方不明となった。6月6日から6月7日にかけて、最上以下4隻はアメリカ軍機動部隊艦載機とミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け三隈が沈没、最上が大破、朝潮・荒潮も小破という損害を受けている。この間、栗田及び第1小隊(熊野、鈴谷)はミッドウェー基地空襲圏外にでるため西方に向けて航行しており(連合艦隊司令部の命令も無視)、6月7日になって近藤信竹攻略部隊指揮官より三隈・最上救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した。戦後、栗田は「そんな情況だったのには気付かなかった」、田中(当時熊野艦長)は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第2小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている。6月8日午前4時頃、攻略部隊は損傷艦(最上、朝潮、荒潮)を収容、すると行方不明の第1小隊(熊野、鈴谷)が『まったく思いがけなく反対側の西方』から出現し、攻略部隊に合同した。本海戦における栗田中将の行動や指揮に対し、日本海軍は特に問題視しなかった。一方、鈴谷艦長木村昌福大佐は栗田(熊野座乗)の行動について、珍しく批判的なメモを残した。また当時の鈴谷運用長前田一郎少佐は、「鈴谷は熊野と分離して単艦で三隈・最上救援にむかった」と回想しているが、確実な証拠はない。最上は8月25日をもって第七戦隊から外れた。6月25日、第七戦隊司令官は栗田健男中将から第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(熊野初代艦長)に代わった。栗田は7月13日より金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)で編制された第三戦隊司令官となり、前任の三戦隊司令官三川軍一中将(昭和14年当時の第七戦隊司令官)は第八艦隊司令長官に補職されている。本艦は引き続き第七戦隊(熊野、鈴谷)の旗艦を務め、作戦準備をおこなう。7月17日、インド洋での通商破壊作戦(B作戦)に従事すべく、姉妹艦鈴谷、第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨、夕立)、第15駆逐隊(親潮、早潮、黒潮)等と共にマレー半島のメルギーに進出した。同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将兼務、十六戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第三水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、熊野以下七戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた。B作戦実施前の8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島(ツラギ島)に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる。メルギー待機中のB作戦参加各隊は、通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かう。第七戦隊は8月22日に南雲忠一中将率いる第三艦隊(南雲機動部隊)と合流した。機動部隊における第七戦隊の役割は、第十一戦隊(戦艦《比叡、霧島》)や第八戦隊(利根、筑摩)等と共に前衛部隊としてアメリカ軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。田中(熊野艦長)は「駆逐艦兼おとり」と表現している。8月24日の第二次ソロモン海戦ではB-17爆撃機と交戦し、戦果も被害もなかった。9月、ソロモン諸島で適宜行動。10月11日、機動部隊前衛はトラック泊地を出撃。10月13日、熊野で機関故障が続出したため18日附で第七戦隊旗艦は鈴谷に変更される。20日、本艦は機動部隊前衛から機動部隊本隊に編入され、熊野水偵3機(搭乗員含む)は前衛(第八戦隊《利根、筑摩》、霧島)等に派遣された。10月26日の南太平洋海戦における熊野は護衛部隊(熊野、照月、浜風、嵐、舞風、雪風、時津風、初風、天津風)を編成し、第三艦隊司令長官南雲忠一中将直率の第一航空戦隊空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と共にアメリカ軍機と交戦した。この戦闘で熊野はSBDドーントレス急降下爆撃機の空襲により至近弾を受ける。10月30日、トラック泊地に帰投。11月2日、損傷した4隻(翔鶴、瑞鳳、筑摩、熊野)は駆逐艦部隊(嵐、野分、舞風、谷風、浦風、浜風、磯風、秋雲、秋月)に護衛され、日本本土へ向った。11月7日、呉に到着して修理を行った。11月22日、熊野は駆逐艦谷風(第17駆逐隊)と共に呉を出港、翌日、第九戦隊(司令官岸福治少将:軽巡洋艦2隻《北上、大井》)の指揮下に入った(「夏輸送」)。参加艦艇(大井、北上、球磨、熊野、谷風)は27日までにマニラへ集結。陸兵や物資を積載して出港。各隊は12月3~4日、ラバウルに到着して輸送任務を終えた。同日附で2隻(熊野、谷風)は外南洋部隊(第八艦隊)に編入された。さらに熊野は外南洋支援部隊に復帰した。それまで支隊と行動を共にしていた重巡摩耶、駆逐艦春雨をトラックに帰投させた後の12月6日、熊野は第七戦隊旗艦に復帰した。その後、第七戦隊(熊野、鈴谷)は駆逐艦望月等と共にソロモン諸島での輸送任務や支援行動、ニューアイルランド島のカビエン周辺警戒任務に従事した。また重巡3隻(鳥海、熊野、鈴谷)の水上偵察機がR方面航空部隊に編入され、駆逐艦部隊の上空警戒やガ島基地夜間爆撃に従事した。1943年(昭和18年)1月4日、熊野の姉妹艦鈴谷が整備修理のためカビエンを出発した(1月12日内地着)。1月下旬、日本軍はガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)を発動。同時期、第七戦隊と共にカビエンで待機していた重巡鳥海が正式に外南洋部隊支援隊に編入される。1月27日にも軽巡川内が同地に到着したので、支援部隊指揮官西村祥治少将は所在先任指揮官として、3隻(熊野、鳥海、川内)を指揮下においた。2月上旬、カビエンで待機。2月9日附で機動部隊への復帰を下令され、4隻(熊野、鳥海、谷風、浦風)は2月11日にカビエンを出発、13日トラック泊地到着。トラック着と共に鈴谷と合流し、3隻(鳥海、谷風、浦風)は西村少将の指揮下を離れた。2月17日、熊野艦長は田中菊松大佐から藤田俊造大佐(2月12日まで軽巡神通艦長)に交代。3月中はトラック泊地で待機。3月22日、熊野機関に故障が発生、西村司令官は旗艦を鈴谷に変更した。24日、駆逐艦天津風(第16駆逐隊)に警戒されつつ3隻(鈴谷、熊野、浦風)はトラック泊地を出発、豊後水道では駆逐艦萩風(第4駆逐隊)と合同し、29日呉に到着した。4月は呉で待機にあたった。第七戦隊が呉で整備待機中の1943年(昭和18年)5月12日、アメリカ軍は北方方面で反攻作戦を実施、アッツ島に上陸を開始した(アッツ島の戦い)。5月17日、第七戦隊に最上が復帰した。アリューシャン方面の戦いに備えて作戦準備を行うが、アッツ島守備隊(指揮官山崎保代陸軍大佐)は5月29日(報告30日)に玉砕。第七戦隊は内海西部へ戻った。6月15日附で第七戦隊は前進部隊に編入され、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡「五十鈴」、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、第24駆逐隊《涼風》、秋月型《新月》、夕雲型《清波》)という戦力で横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した。6月23日、西村司令官は5隻(熊野、鈴谷、新月、涼風、有明)をひきいてラバウルへの輸送任務を実施、27日トラックへ戻った。新月は外南洋部隊増援部隊に編入され、ラバウルに残った。6月30日、連合軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始、南東方面の状勢は緊迫化した(ニュージョージア島の戦い)。日本軍はニュージョージア島とコロンバンガラ島に増援輸送部隊をおくるが、7月5日~6日の夜戦で秋月型駆逐艦5番艦新月(三水戦旗艦)が沈没、増援部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官と三水戦司令部は全滅した(クラ湾夜戦)。秋山少将の後任として伊集院松治大佐が三水戦司令官となるが、当面の増援部隊指揮官として第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が任命された。7月9日、第七戦隊は南東方面部隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下に入り、外南洋部隊支援隊に編入される。7月10日、西村司令官直率の4隻(熊野、鈴谷、有明、朝凪)はラバウルに進出した。7月12日、輸送作戦中の増援部隊は連合軍巡洋艦部隊と交戦、川内型軽巡2番艦神通(第二水雷戦隊旗艦)の沈没により増援部隊指揮官の伊崎俊二少将と第二水雷戦隊司令部は全滅した(コロンバンガラ島沖海戦)。7月15日、第七戦隊は外南洋部隊夜戦部隊に編入される。7月16日の出撃(熊野、鈴谷、川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は空振りに終わった。7月20日、夜戦部隊指揮官西村祥治第七戦隊司令官(熊野座乗)指揮下の夜襲部隊(重巡3隻《熊野、鈴谷、鳥海》、水雷戦隊《川内〔第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将〕、雪風、浜風、夕暮、清波》)は、輸送部隊(三日月、水無月、松風)と共にコロンバンガラ島への輸送作戦を実施すべくラバウルを出撃。だがPBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"に誘導されたアメリカ軍機の夜間空襲を受けた。駆逐艦2隻(夕暮、清波)が沈没した。熊野にはTBFアベンジャー雷撃機が投下した魚雷1本が命中。木俣滋郎によれば、魚雷ではなく反跳爆撃であるという。舵故障を起こしたため熊野は浜風に護衛されて避退した。7月21日、西村司令官は鈴谷に旗艦を変更した。熊野は工作艦山彦丸の支援を受ける。7月29日、応急修理を終えた熊野は駆逐艦2隻(皐月、望月)に護衛されてラバウルを出発、トラックへ回航される。トラックに到着後、8月中は工作艦明石等の応急修理を受けた。8月28日にトラック泊地を出発、9月2日に駆逐艦雪風(第16駆逐隊)に護衛されて呉に帰還した。熊野は呉にて修理を行った。11月1日附で西村少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進。熊野は11月3日、南方へ出撃した(8日、トラック泊地着)。クェゼリン環礁等、太平洋諸島を行動する。11月15日附で左近允尚敏少尉候補生(左近允尚正少将次男)は熊野乗組を命じられる(翌年3月海軍少尉任官、引き続き熊野乗組)。12月5日、トラック到着。12月7日、第七戦隊旗艦に復帰。25日までトラック泊地で待機。その後、カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)として参加する。ちなみに、戊一号輸送任務は3隻(戦艦《大和》、駆逐艦《谷風、山雲》)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務は重巡洋艦3隻(妙高、羽黒、利根)・駆逐艦2隻(白露、藤波)によるトラック~カビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)・駆逐艦2隻(秋月、山雲)によるトラック~カビエン輸送任務である。12月26日、熊野は戦艦大和に横付けして陸兵・物資を積載すると、同日夜にトラックを出撃してカビエンに向かう。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)はアメリカ軍大型爆撃機に発見された事で一旦トラックに避退したのち、再出撃。29日にカビエンに到着し物資揚陸に成功すると、1944年(昭和19年)1月1日にトラック泊地に帰還した。1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解隊(八戦隊司令官岸福治中将は軍令部出仕)。この再編により第七戦隊(熊野、鈴谷、最上)に利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)が編入される。1月はトラック泊地に滞在。2月1日、トラックを出発し8日にパラオへ移動。17日パラオ発、21日にリンガ泊地着。3月1日、第一機動艦隊の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入される。23日、筑摩に将旗が移り、熊野は第二小隊5番艦となった。3月25日、第七戦隊司令官は西村祥治中将から白石萬隆少将に交代(西村中将は9月10日より第二戦隊司令官)。3月29日附で熊野艦長も藤田俊造大佐から人見錚一郎大佐に替わった。4月6日、熊野は第七戦隊旗艦に復帰した。5月1日、戦艦大和、重巡洋艦摩耶がリンガ泊地に到着。18日以降、熊野はタウイタウイ泊地に停泊した。6月13日、熊野は同泊地を出撃し6月19日のマリアナ沖海戦に参加する。同海戦では熊野の水上偵察機がアメリカ軍機動部隊を発見し、その位置を報告した。第七戦隊(最上のみ機動部隊乙部隊所属)は前衛艦隊(司令長官栗田健男中将、第三航空戦隊・第二艦隊主力)に所属し、さらに第十一群(瑞鳳、大和、熊野、鈴谷、利根、早波、浜波、玉波)を編成して戦闘に臨んだ。6月19日、小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射。6月25日、日本本土に戻った。対空兵器などを増強。7月1日、熊野航海長は浜崎隆中佐から山縣侠一少佐に交代7月8日、陸軍部隊のシンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃。7月16日、シンガポールに到着し、以後はリンガ泊地で訓練に従事した。7月21日、熊野主計長は綿貫三郎主計大尉から鳥越剛太郎主計大尉(当時知床主計長。駆逐艦弥生沈没時の主計長)に交代。9月27日、通信機を特積する。10月中旬、捷一号作戦に於いて第七戦隊(司令官白石万隆中将:熊野《旗艦》、鈴谷、筑摩、利根)は、第一遊撃部隊(第二艦隊/通称栗田艦隊、司令長官栗田健男中将/旗艦愛宕)第二部隊(司令官鈴木義尾中将、旗艦金剛)に所属してアメリカ軍と交戦する。だが激しい戦闘により第七戦隊は2隻(鈴谷、筑摩)を喪失し、熊野も大破した。経過は以下のとおりである。10月15日、第七戦隊司令官白石萬隆少将は海軍中将に昇進。10月23日朝、栗田艦隊はパラワン島沖でアメリカ潜水艦2隻(ダーター、デイス)に襲撃され、重巡2隻(愛宕《第二艦隊旗艦》、摩耶)が沈没、重巡1隻(高雄)が大破して駆逐艦2隻(朝霜、長波)に護衛されて離脱という被害を出した。愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将は第一戦隊司令官宇垣纏中将が座乗する戦艦大和(第一戦隊旗艦)に将旗を掲げた。熊野搭載の水上偵察機2号機・3号機は対潜哨戒の後、サンホセ基地に向かった。10月24日、午前10時25分、熊野水偵1号機は空襲前に退避、サンホセへ向かった。直後、シブヤン海にて栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の空襲を受け、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧、浦風、浜風、磯風、雪風、野分、清霜》)は旗艦金剛(指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官)を中心とする輪形陣を形成、熊野は中心(金剛)の斜め右前方3kmに配置された。一連の戦闘により戦艦武蔵が沈没し、損傷を受けた3隻(妙高、浜風、清霜)が艦隊から離脱した。熊野には7機が襲来、爆弾1発が四番砲塔に命中するも不発であった。この対空戦闘における消費弾数は、主砲対空弾約70発、高角砲弾約200発、機銃弾約1000発と記録されている25日早朝、栗田艦隊はアメリカ軍護衛空母部隊と遭遇、水上戦闘を行った(サマール島沖海戦)。午前7時18分、熊野は米駆逐艦ジョンストン(軽巡と誤認)に対し射撃を開始、距離9700mに迫った。砲撃中にTBFアベンジャー雷撃機(爆装)3機の攻撃を回避したところ、ジョンストンが発射した魚雷10本のうち1本が熊野の艦首に命中した。この海戦で熊野は艦首から約13mを喪失し、最大発揮速力14-15ノットとなって艦隊から落伍した。白石司令官は第七戦隊の指揮を一時的に則満宰次大佐(筑摩艦長)にまかせると、二番艦(鈴谷)への移乗を決定する。第七戦隊司令部は洋上に停止した熊野~鈴谷間をカッターボートで移動し、8時30分以降鈴谷に中将旗を掲げた。熊野は単艦での戦場離脱を命じられた。人見(熊野)艦長は11時23分に「0724魚雷1、10番フレーム附近ニ命中、25番フレームヨリ大破浸水、35番フレーム隔壁ニ補強防水確実。出シ得ル最大速力15ノット」と打電、熊野の退避航海が始まった。なお同日の戦闘で第七戦隊は2隻(鈴谷、筑摩)を喪失、七戦隊旗艦は利根(艦長黛治夫大佐)に移った。損傷した熊野は単艦でコロンへの航海を行うが、その途上でも度重なるアメリカ軍機の空襲を受けた。25日正午前、日本海軍の水上機瑞雲3機と遭遇し2機から爆撃され、続いて天山艦上攻撃機1機から誤爆される。日没前、今度はアメリカ軍機約30機の空襲を受ける。零式艦上戦闘機の上空掩護もあり、大きな被害なく航行を続けた。26日朝、単独航行中にミンドロ島南端冲で再びアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受けた。この部隊は空母ハンコックから発進した戦闘機12、急降下爆撃機4、雷撃機7であった。艦中央部(煙突付近)に爆弾1発が命中した他、至近弾により船体に亀裂が走り機関部に浸水、速力2ノットに低下。アメリカ軍は1000ポンド爆弾1発命中、魚雷2本命中、写真判定により沈没確実と報告した。しかし、応急処置により9ノット発揮が可能となった。13時30分頃、第二遊撃部隊(志摩艦隊)所属の2隻(駆逐艦霞《第一水雷戦隊司令官木村昌福少将座乗》、重巡《足柄》)が合流した。夕刻、3隻(熊野、霞、足柄)はコロン湾に到着、タンカーの日栄丸に横付けして燃料を搭載した。栗田長官は熊野に対し応急修理の上、マニラを経て日本本土への修理を命じた。第七戦隊戦闘詳報は、レイテ沖海戦における本艦の損傷について『熊野は二十五日の水上戦斗に於ける被雷後出し得る速力十五節となり旗艦変更後 単独回航中数次の爆撃を受け一時航行不能に陥りしも応急処置により辛うじて十節航行可能となり 「コロン」を経て「マニラ」に回航せり。人員船体兵器機関共損傷甚だしく大修理を必要とし 当分戦斗参加の見込なし。』と報告している。また熊野水上偵察機も10月28日の時点で1機のみ健在であった。29日の報告によれば、レイテ沖海戦における熊野の戦死者は56名、重軽傷者約100名。燃料補給を終えた熊野は駆逐艦2隻(浜風、藤波《もしくは清霜》)の到着を待っていたが、昼間空襲の懸念や速力の観点から合同を待たず、10月27日午前0時30分、単艦でコロンを出港した。その後、午前5時頃に夕雲型駆逐艦14番艦沖波(第31駆逐隊)と合流し、沖波に護衛されてマニラに向かった。28日午前7時30分、マニラ着。29日、マニラはアメリカ軍機約290機の空襲を受ける。重巡3隻(那智、青葉、熊野)は共に対空戦闘を行い、熊野に損害はなく、僚艦も那智が火災という被害に留まった。熊野側は高雄市(台湾)への回航を希望して司令部と折衝したが護衛艦の手配が付かず、高雄回航を断念し、時機を待つことにした。その後連合艦隊司令部より、青葉型重巡洋艦1番艦青葉と共に本土回航を命じられた。当時の青葉(第十六戦隊所属《司令官左近允尚正中将》)は10月23日にアメリカの潜水艦ブリーム ("USS Bream, SS/SSK/AGSS-243")の雷撃で大破しており、最大発揮速力5-8ノット程で本土での修理が必要であった。11月5日、重巡2隻(熊野、青葉)は駆逐艦島風(島風砲術長は左近允尚章大尉)等を残してマニラを出港し、マタ31船団(2000トン級タンカー3隻、小型貨物船3隻、海防艦2隻、駆潜艇5隻)と合流する。速力8-9ノットでルソン西岸間際を航行、台湾の高雄まで一週間かかる予定であった。熊野達はマニラ上空にアメリカ軍機大編隊を視認したが、アメリカ軍機が船団に襲来する事はなかった。同日のマニラ空襲により重巡那智(第五艦隊旗艦)が沈没、駆逐艦曙等が大破した。マタ31船団は九六式陸上攻撃機や練習機の対潜警戒下のもと、夕刻にサンタクルーズ入港、青葉に対し清水の補給を行う。11月6日、サンタクルーズを出港。熊野は青葉の0.8km前方を航行していた。熊野は最後の1ヶ月間に魚雷6本(もしくは8本)、爆弾7発(もしくは10発)命中という被害を受けた。また乗員は本土帰還を目指して対空戦闘に、応急修理にと奮闘したが帰還は果たせなかった。そこで最後の1ヶ月の被害とその応急修理を中心に詳細を記す。1944年(昭和19年)12月5日附で白石信秋中佐(熊野砲術長)は横須賀鎮守府附となる。1945年(昭和20年)1月20日附で、金剛型戦艦1番艦金剛と重巡洋艦2隻(熊野、那智)は除籍された。生還した左近允尚敏中尉(熊野航海士)は3月15日附で松型駆逐艦「梨」航海長に任命。7月28日に梨が撃沈されると、8月8日附で姉妹艦初桜航海長に補職。8月15日の終戦を迎えた。1968年(昭和43年)12月2日、観光中のダイバーがサンタクルーズに眠る熊野の船体を発見した。なお、熊野の艦内にあった約60柱の遺骨を持ち帰ったという。1978年(昭和53年)11月19日 - 遺族など関係者の手により、呉市長迫公園(旧海軍墓地)に慰霊碑が建立された。
出典:wikipedia
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