杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年9月17日 - 2001年11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などと呼ばれた。挙母高校時代は無名の速球投手だったが、立教大学進学後は同期の長嶋茂雄・本屋敷錦吾と3人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。1年春から登板があり、もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時にサイドスロー(アンダースローと呼ばれることなどもある)に転向した。杉浦自身は、転向の理由を「メガネ」としている(当時のメガネはガラスとセルロイドで重かった)。「上手投げ時代のフォームは上下動が激しかったので、投げるたびにずれて苦労していた」「それで、頭の位置を一定にさせるためにサイドスローがよいのではないかと思い、実際、やってみると見違えるようにコントロールが良くなった」「オーバースローで投げていたときの方が、ボールは速かったね。自分でいうのもおかしいが、滅茶苦茶に速かったと思う」と語っている。2年春閉幕後の「砂押排斥事件」の後、自主練習の期間があり、そのときにフォームを変えたもので、「砂押監督時代なら反対されてできなかったと思う」と述べている。東京六大学リーグ通算36勝(立教OBとして最多)12敗、防御率1.19、233奪三振、ベストナイン2回。勝利の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。春、秋季リーグ連覇に貢献し、秋の早大戦では森徹、木次文夫らの強力打線を抑え、ノーヒットノーランを達成した。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で興津達雄らのいた専大を降し優勝した。卒業後は日本ビールか朝日新聞社への入社も考えていたが、に南海ホークスへ入団。入団に際しては、南海の主力で大学の先輩でもある大沢昌芳(啓二)を通じて少なからぬ額の栄養費を長嶋と共に受け取っており、両者の南海入りは確実視されていた。その後、翻意して巨人入りした長嶋と、義理堅く南海入りした杉浦との対比が未だに語り草になっている(長嶋の翻意は母と兄が懐柔されたためともいわれる。また長嶋はプロ入り後、立教時代に受け取った栄養費と同額の金を返還している)。長嶋の巨人入りが伝えられ、心配になり杉浦のもとに飛んできた南海監督の山本(鶴岡)一人に「心配ですか」「僕がそんな男に見えますか?」とだけ言って笑顔を浮かべたというエピソードについて、鶴岡は「その静かな口調の底に『ぼくは一度決めたことを破るような男じゃありませんよ』という強い鉄石のような心が隠されていた(とあとになって分かった)」と語っている。入団後は新人ながら開幕投手を務め、東映を相手に勝利投手となる。鶴岡が、あとで『スギ、お前でも固くなったのか』と聞くと、『固くなりました』といっていた」というように、立ち上がりは不安定であったが、味方の大量援護に落ち着きを取り戻したものであった。下手から浮き上がる速球と大きく横に曲がるカーブでプロの打者を手玉に取り、1年目は27勝を挙げて新人王を獲得。鶴岡から「これでやっと西鉄を叩くことができる」と喜ばせた。2年目のは38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、シーズンMVPとなる。迎えた日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血マメをおして4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シリーズMVPに輝いた。このとき記者に囲まれた杉浦は「ひとりになったら、嬉しさがこみ上げてくるでしょう」と言ったつもりだったが「ひとりになって泣きたい」という言葉がひとり歩きしたと、自叙伝で明かしている。同年には54回2/3連続無失点を記録(パ・リーグ記録)している。この直前にも、8月26日から9月9日にかけ43回無失点を続けていたが、13日の西鉄戦でのリリーフで失点、15日の近鉄戦で2回に1点を許したあとに3回から作ったのがこの記録である。また、同年は日本プロ野球史上5人目(2リーグ分立後2人目)の投手五冠王(勝利/防御率/奪三振/勝率/完封勝)を達成しているが、これは現在までに、沢村栄治(巨人/1937年春)、ヴィクトル・スタルヒン(巨人/1938年秋)、藤本英雄(巨人/1943年)、杉下茂(中日/1954年)、杉浦、江川卓(巨人/1981年)、斉藤和巳(ソフトバンク/2006年)の7人しか達成していない大記録である。しかも、杉浦の五冠は、各部門で2位以下を大きく引き離すものであり、スケールの大きさでは史上最高ともいえるものであった。1960年にも31勝をマーク。シーズン30勝を2度以上マークしているのは、杉浦以外には、ヴィクトル・スタルヒン、野口二郎、別所毅彦、杉下茂、稲尾和久、金田正一、権藤博だけである。1961年5月には通算100勝を達成。プロ入り3年1か月での達成はNPB史上最速である。しかし、1961年、連投による右腕の血行障害(動脈閉塞) により、20勝を挙げた後戦列を離脱。太ももの血管の移植手術を受け、リハビリの後、翌年には戦列に復帰したものの、右腕は元には戻ることはなかった。1962年、1963年はいずれも14勝に終わり、1964年は20勝したが、以後二桁勝利を挙げることはなくなった。故障から復帰後は、握力が大きく落ち、50球も投げると腕がカチカチに強張ってしまったという。長いイニングが投げられなくなった選手生活の後半は、主に抑えの切り札として活躍した。本人は「僕がパの元祖ですかね。リリーフ成功率は高かったですよ。前の投手が出したランナーをかえしたことはなかったと思います。セーブ制度があればかなりいったでしょうね」と語っている。からは一軍投手コーチ兼任となり、まで務めた。シーズン限りで現役引退。3月に大阪球場での巨人とのオープン戦が引退試合として行われ、親友・長嶋茂雄の打席で登板。長嶋は記者の質問に「思い切り振って三振するよ」と答えたが、結果は引退試合の「お約束」である三振ではなく、痛烈なセンター前ヒットであった。これが長嶋の餞であり、友情の象徴ともいわれる。杉浦はこのことを振り返り、「彼(長嶋)が、マジで向かってきてくれたことに、自分は凄く嬉しかったし、誇りを感じる。トンボが止まるようなヘナヘナボールだったら、彼は空振りして、三振したんじゃないかな」と語っている。プロ入り後は完全試合、ノーヒットノーランには縁がなかったが、1964年の阪急戦では、準完全試合(許した走者が三塁打1本だけの完封勝利)をしている。通算187勝で、200勝が基準の名球会には入っていないが、落合博満が、「あの杉浦さんが入れない名球会に意味があるの?」と疑問を呈したように、NPB史上屈指の名投手であることに疑問の余地はない。現役引退後は毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家( - )を経て、立教の大先輩・西本幸雄に請われてからまで近鉄バファローズの一軍投手コーチを務めた。鈴木啓示らを指導した。その後は再び毎日放送の解説者を務めた。オフに古巣・南海の監督に就任。オフに獲得した加藤英司(巨人を自由契約となり、西本が仲介して移籍してきた)の現役生活の最後を飾る奮闘も有り、は9月初めまで久々の優勝争いを演じた。にチームはダイエーに売却され、福岡に移転する。南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで「長嶋君ではありませんが、ホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」とのスピーチを残した。引き続き、福岡ダイエーホークスの初代監督となったが、限りで退任。その後はにフロント入りし、1994年に退職した。ホークス退団後は、九州朝日放送(KBC)の解説者を務め、「仏の杉浦、鬼の河村」で人気を博した。柔らかい、穏やかな語り口から人気を得たが、柔らかいながらも時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーは「マイクの前のジェントルマン」。また後年は「球界の紳士」とも紹介されていた。1999年に南海の後身であるダイエーが優勝を決めた試合でのラジオ放送では、「ひとりで中洲で酒を飲みたい」と中継内でコメントした。2001年よりプロ野球マスターズリーグ、大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。3試合のみ代理監督を務めた。同年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた札幌市内のホテルで、急性心筋梗塞により急逝した。享年66。浄土真宗本願寺派堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークス球団旗と球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。杉浦の功績を称え、マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」に名を冠している。地面ギリギリから浮かび上がるようなストレートと大きな横のカーブが武器であった。カーブは変化が大きく、ストライクと思って空振りした左打者の体にあたることもしばしばだった。野村克也は、その著書で、「榎本(喜八)は外角からの切れ味鋭いカーブに空振りしたのに、球が腹に食い込むように当たった」とのエピソードに触れている。杉浦のフォームは、「手首を立てたアンダースロー」といわれる独特の手首の使い方に特徴があった。オーバースローをそのまま上体を横に倒しただけで、腕は肩より下がることはなく、ボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がサイドスロー投法にはまり、流れるようなフォームから威力抜群の速球を生む要因となった。このフォームは、巨人の大友工の連続写真を新聞記者からもらい研究した結果、辿り着いたものだという。全盛時、杉浦が投げるとき、バックベット裏やベンチにいる者にまで、手首を返す「ピシッ」という音が聞こえたという。野村は自著の中で、杉浦が類まれなる下半身の強靱さと、筋肉の質の良さについて語っている。野村によると、1960年オフに、サンフランシスコ・ジャイアンツが来日した際に、触れさせてもらったウイリー・メイズの腕の筋肉と、杉浦の腕を触ったときの感触がまるで同じで「おまえの体はメイズ並みだな」と、ため息が出たという。杉浦の下半身の強さについては、広瀬叔功も「私(広瀬)は南海に入ってから、競争して負けたことはほとんど皆無だった。しかし、スギやん(杉浦)には負かされたことがある」「スギやんは足も速くて、何より体が柔軟だった」と、同様の証言をしている。しかし、後年、シンカーを覚えたことで持ち味を殺してしまったともいう。酷使され、少しでも投球数を減らしたかった杉浦は同い年の技巧派アンダースロー、皆川睦男が、大きく沈むシンカーを武器に、1球で内野ゴロを打たせ、1アウトを取るのを見て羨ましがったのだという。「皆川のようなシンカーを覚えたい」と相談された野村は、サイドスローでシンカーを投げようとすると、ボールを放すときに手の捻りを逆回転させなければならず、杉浦の持ち味であるストレートに悪影響を及ぼすとして大反対し、スライダーを勧めたが、杉浦は反対を押し切ったのだという。野村は、「もし杉浦があのとき、沈む球にこだわらなければ、勝ち星は確実に増えていただろう」と説得に折れたことへの後悔の念を綴っている。野村克也は、「対戦した中で一番凄かったのは稲尾だけど、おれが受けた中では杉浦が最高のピッチャーだ。右打者の背後からカーブが曲がってくるんやで。背中を通る軌道の球がストライクになってくる。しかも真っすぐは明らかに浮き上がってきた」「内角への速いスライダーを右打者に投げさせてみたら、面白いようにバットが折れてさ。本当に楽しかったよ」「日本プロ野球界で数少ない本格派のエース」「捕手としてバッテリーを組んでいると、実に退屈だった。杉浦の投げたいように投げさせていれば、まともな打球は飛ばない。捕手の出る幕はなかった」と語っている。1955年、1956年に2年連続で最多勝を獲得した、ホークスの同僚、宅和本司は「杉やんの投球を見た時に『上には上がいた』と愕然とした。ピッチングの哲学にしても、ボール一つ無駄にしない。だから私の知る限り、杉やんが敬遠したのを見たことがない。四球を嫌って、いかに最少投球数でアウトを重ねるかを考えた。阪急の山田久志も素晴らしいアンダースローだったがタイプが違った。杉やんは下から投げるんだが、手首が立って上から投げる軌道を描く。西鉄戦は杉浦と稲尾和久のエース対決になるわけだが、私がブルペンに行こうと思ったら、親分(鶴岡)に『お前はベンチでジッとしとけ』と止められた。今日はリリーフはいらんということだろう。それほど信頼されていた。38勝した2年目なんていつ負けるんだろうと思って見ていた。もうあんなピッチャーは出てこない」と語っている。1959年の日本シリーズでの杉浦について、長嶋茂雄は、「地面に沈み込むようなアンダースローの右腕から投げ込まれる速球が、右打者の背中から外角へと走っていく。まったく打てませんでした」と述懐している。張本勲は、アンダスローの投手では「1.杉浦忠、2.秋山登、3.山田久志」の順で球の威力がある投手と評している。1958年の秋、セントルイス・カージナルスが来日しての日米親善野球では、カージナルスの14勝2敗という成績であったが、日本の2勝のうちの1勝は、杉浦が完投勝利(9対2)したものであった。三振したカージナルスの4番、スタン・ミュージアルは、帰国の際に「あの21番を付けたピッチャーが、もっとも印象に残った」とコメントしている。なお、杉浦自身が、打者として対戦してみたい投手は「自分自身」であるという。理由は「自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいから」と語っている。現役時代、同世代の大投手・稲尾和久とは対戦も多くライバルであったが、同時にマウンドマナーなど学ぶところも多く、稲尾の仕草を自分のものとするように努めたという。稲尾との投げ合いになったある試合で、稲尾が投げた後の1回裏に杉浦がマウンドに行くと、1回表に稲尾が投げたのだから投球の際に踏み込んだ部分はそれなりに掘られているはずなのに、マウンドはきれいにならされていた。杉浦は「初回だからかな?」程度に思っていたという。しかし2回裏、3回裏、それ以降も同様にきれいにならされていて、ロージンバッグもすぐ手の届く位置に置かれていた。「もしや稲尾がならしているのでは?」と感じ、実際にその通りであったため、杉浦は稲尾を「すごいピッチャーだと思った」という。杉浦は「それからはすぐ稲尾の真似をしました」「(しかし)ぼくはピンチの後ではマウンドが荒れていることなどつい忘れてしまうのですが、彼はたったの一度も、マウンドが荒れた状態でぼくに(マウンドを)渡したことはなかった」と語っている。1958年の秋、セントルイス・カージナルスを迎えての日米親善野球で、中西太、稲尾和久と杯を傾ける機会があった。杯を重ねるごとに、杉浦の語気が鋭くなり、やがて二人をつかまえて「太さん、稲尾、ここに座れ」「来年は絶対に勝つからな!」と息巻いたという。中西は「大逆転で優勝を逃がした悔しさが胸の中にたぎっているような声だった」と述懐している。なお、杉浦は「途中からプッツンと記憶が切れてしまった」「あとから聞いた」と述べている。野村克也が著書の中で頻繁に取り上げているエピソードの一つに、ある年のオールスター戦でベンチが一緒になった際、野村が稲尾の癖を熱心に研究していることを杉浦が喋ってしまい(杉浦は野村の研究熱心さを稲尾に誇るつもりで発言した)、稲尾が癖を直して対戦して来たため、新たに研究し直さなければならなくなったというものがある。野村は、「(三人で)セ・リーグの打撃練習を見てたら、杉浦が『サイちゃん(稲尾)、野村はよう研究しとるで』っていうわけだよ。そうしたら、稲尾の顔色がパッと変わった。それだけのことなんだけど、オールスターが終わって稲尾との初対決のとき、1球様子を見たれと思って見逃したら、インコースに来るはずの球が外角に。ありゃと思って稲尾の顔を見たらにたぁっと」と語っている。なお、杉浦の自著によると、稲尾と杉浦が投げ合って勝敗に関わった試合は、24勝24敗の五分である。稲尾が持っていて自分にはない長所は、手本として素直に受け入れようという態度で稲尾に接した杉浦であるが、その一方で、セ・リーグの華やかな存在に対しては、徹頭徹尾逆をいってやるという反抗精神に燃えていた。杉浦の落ち着いたマウンドさばきや静かな語り口は、そのような対抗心から生まれたものだといい、金田正一、村山実、藤田元司など華やかに脚光を浴びるセ・リーグの投手が派手なアクションをすれば、杉浦は静かに顔をうつむき加減にしてマウンドを降り、彼らが大きな声でしゃべれば、杉浦は小さな声で静かに語ったという。例えば、杉浦の最大の特徴である、ゆっくりしたバックスイング、大きな腕の振り、スローモーションのようなフォームは、「金田、村山、藤田の切れのいい、素早いモーションに対抗して考え出したことなのです。彼らが喜怒哀楽をオーバーに表現すればするほど、ぼくは無表情で、より紳士ぶってやったものです」というものだという。1948年オフ、別所毅彦が南海から巨人に移籍(別所引き抜き事件)。その経緯を「なんと汚いんだ」と思うようになって以来、アンチ巨人になったという。鶴岡と杉浦の関係を、南海の控え捕手であった鈴木孝雄は「だれも入り込めない仲。でもベタベタしたところは一切ない。周囲には見えない絆だった。でも、あの二人には見えていたのかもしれない」という。杉浦夫人(志摩子)は、「ある時、お風呂に入っていて右腕が真っ白になった。もう血が通わなくなっていた。私が主人に野球のことで口を出したのはその時が初めてです。『どうして監督さんに、もう投げられないかもしれませんって言わないの?』と聞いたら怒鳴られた。『バカヤロー!こういう体になっても投げるのがエースなんだ!』って」「付き合っている当時から『おれはサムライの時代に生まれたかった』という人。世のため、人のためというような人。それくらい鶴岡さんにほれ込んでいました」「勝ち試合は当たり前で、負けてるゲームに投げるのもエースの仕事だと。絶対に自分からマウンドを降りるような人じゃなかった。だから毎日投げていたような気がします」と語っている。野村克也によると、「悪いが、スギ行ってくれんか」と連投やピンチの際に鶴岡から頼まれ、杉浦が打たれると、キャッチャーだった野村が代わりに叱られることがしばしばだったという。広瀬叔功は、「以前、スギやん(杉浦)と話していて『親分に褒め言葉、言われたことあるか?』と尋ねたことがある。彼(杉浦)はしばらく考え込んで『そう言えば、全然ないなあ』と微笑んだ。むろん、私(広瀬)もない」「多分、それでいいのだ。言葉にしなくても分かり合えるものはある。人生最大の感激を運んでくれた愛弟子であってさえも、直接には何も語りかけない。それが親分だったし、親分とスギやんの絆には、言葉など不要だったのかもしれない」と述べている。また、次のエピソードもよく知られている。1965年の日本シリーズ終了後に、蔭山和夫新監督が就任直後に急死した。鶴岡一人に再度監督として戻ってきてもらうため、杉山光平、広瀬叔功、野村克也、杉浦らが鶴岡の自宅に説得に行ったが、酒に酔って気持ちの高ぶった鶴岡は、「何が三冠王や。何が本塁打王や。ちゃんちゃらおかしいわい。本当に貢献したのは杉浦だけや」と言ったという。若いころは、野村克也、広瀬叔功と三人で夜の街を徘徊し、門限破りなど、いろいろ悪さをしたことから、鶴岡一人からは、黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」をもじって、「南海の三悪人」と呼ばれたという。南海は当初14を用意していたが、六大学選抜チームでフィリピン遠征をした際に着けていた21に替えてもらったという。カウント2ストライク1ボールと追い込み、そこから勝負するのが投手と思っていたことによる。1960年の秋、優勝争いをするシカゴ・ホワイトソックスから、南海に「杉浦を貸してほしい」との申し入れがあった。残り十数試合のみのレンタルであったが、実現すれば、日本人大リーガー第一号になるところであった。鶴岡監督も、「日本野球のためになる。チャンスだから、やってこい」と賛成し、パスポートも取り、渡米寸前までいった。しかし、直前になって、大毎と優勝争いをしており、優勝の望みが一縷でもある以上出すわけにはいかない、との理由で球団からストップがかかり、実現しなかった。当時の六大学では、立教大学と明治大学の野球部のしごきの激しさは群を抜いていた。砂押邦信監督のスパルタ訓練に悲鳴をあげ、合宿所では上級生の鉄の規律に震え上がり、合宿所を抜け出したことがあるという。野村克也は、「お山の大将然とし、自己中心的な人間の多い投手の中にあって、杉浦忠は全く珍しいタイプの選手だった。一言でいえば彼は常に紳士的だった」「いつももの静かで謙虚であり、控えめにしていた」「電話で珍しく杉浦がつっけんどんな応対をしている時は、相手は決まって奥さんだった」と語っている。ホークス福岡移転後初優勝翌日のテレビ中継では、杉浦は副音声での解説を担当。和田安生アナウンサー(当時)と「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかええもんやな」と話している。カラオケの十八番は、志賀勝の「女」であった。冒頭の「志賀勝や!」の台詞部分を「杉浦や!」に変えて歌っていたという。自宅が老朽化し、家族が家の建て替えを提言した時、杉浦は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。後年、KBC解説者として福岡で解説を行っていた時期も、大阪府堺市の自宅から通っていた。なお、この自宅は杉浦の死後の2010年12月25日に全焼している。
出典:wikipedia
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