1978 FIFAワールドカップ()は、1978年6月1日から6月25日にかけて、アルゼンチンで開催された第11回目のFIFAワールドカップである。決勝はアルゼンチン対オランダで、延長戦の末3対1でアルゼンチンが勝利し、史上6ヶ国目の優勝国として名を残すこととなった。出場選手は1978 FIFAワールドカップ参加チームを参照。前回の西ドイツ大会と同じ大会方式が採用された。16チームが地区予選を通じて選ばれ、4つごとに4グループに分けられた。各グループの1位と2位が通過し、8チームは4つごとに2グループに分けられた。各組の1位が決勝戦を争い、2位は3位決定戦を戦う。第1回大会での準優勝以来、出場はするものの今一つ芳しい成績を挙げていなかったアルゼンチンにとって初の地元開催は優勝を狙う絶好の機会であっただけに、アルゼンチンサッカー協会は代表監督にセサル・ルイス・メノッティを招聘。発足したばかりの軍事政権からも諸外国への宣伝のために優勝を厳命された彼は、ダーティなラフプレーで悪名高かったアルゼンチン・サッカーを攻撃サッカーへと変貌させるべく、首都ブエノスアイレスのビッグクラブに所属する選手や海外でプレーする有力選手ばかりを大会直前に慌しくかき集めていた従来の選抜方式をやめ、地方の小さなクラブも丹念に回り人材発掘に傾注。そしてリカルド・ビジャ、ノルベルト・アロンソ、レネ・ハウスマンといった当時のスター選手を招集はしたが重用せず、レオポルド・ルケ、ダニエル・パサレラ、オズワルド・アルディレス、ホルヘ・マリオ・オルギン、ダニエル・ベルトーニ、アルベルト・タランティーニ、ルイス・ガルバン、アメリコ・ガジェゴら代表経験のない無名の若手選手に代表の運命を託すという賭けに出た。軍事政権の全面協力を取り付けたメノッティは選手の海外移籍を禁じ、国内での入念な合宿を敢行して代表メンバーの結束を図った。前回大会の経験者としてはGKウバルド・フィジョールに唯一の海外プレーヤーであるFWマリオ・ケンペス(と控えのハウスマン)を加えただけの若い代表チームだったが、優勝への道程は険しいものとなった。1次リーグでは、ハンガリー、フランス、イタリアと強豪ひしめくグループ1に組み込まれた上に、ケンペスが不発だったこともあって、予想以上の苦戦を強いられた。ルケらの活躍によりハンガリー戦、フランス戦には連勝したものの、ルケが負傷欠場した最終のイタリア戦に敗れグループ2位での2次リーグ進出となった。これにより首都ブエノスアイレスを離れロサリオへの転戦を余儀なくされたが、結果的に見ればこの1次リーグにおける苦戦とロサリオ転戦が若手主体の代表チームを急成長させることになった。さらにこの2次リーグで“エル・マタドール(闘牛士)”の異名を取るケンペスが復調した。彼にとってロサリオのスタジアム「ヒガンテ・デ・アロジート」はかつての古巣CAロサリオ・セントラルの本拠地であり、首都以上に馴染み深い場所だったのが大きかった。かくしてケンペスはポーランド戦2得点、ペルー戦2得点を挙げる大活躍を見せる。特に2次リーグ最終戦のペルー戦では4点差以上で勝たなければ決勝進出の夢を断たれるという絶体絶命のピンチに追い込まれたが、6対0と圧勝したこと(軍事政権がペルーを買収した八百長の疑いもあるという)が大きくモノを言って同組ライバルのブラジルを得失点差で上回り、決勝進出を決めた。決勝のオランダ戦でもケンペスの勢いは止まらず、2得点を決め延長の末に3対1で勝利し、念願の初優勝を果たした。通算で6得点を挙げたケンペスは優勝国から出た初の単独得点王となった。メノッティは軍事政権から与えられた使命を果たし、攻撃的なサッカーで優勝するという賭けに勝った。名将エルンスト・ハッペルが率いたオランダはニースケンス、クロル、レンセンブリンク、レップ、ハーン、ヤンセンら前回メンバーの大半が健在であり、トータルフットボールが影を潜めた1次リーグではスコットランドに敗れるなど少々もたついたものの2次リーグに入って調子を上げ、粘り強く決勝まで勝ち残った。しかし、1974年西ドイツ大会に続き2大会連続で開催国相手に決勝戦で敗れる結果となった。トータルフットボールの中心的存在だったヨハン・クライフがアルゼンチン軍事政権の弾圧政策に反対する立場から出場しなかった(後に子どもの誘拐未遂事件に遭ったためだったことを明らかにした)ことが結果的に大きく響いた。前回優勝国の西ドイツはフランツ・ベッケンバウアーが大会直前に代表を引退し、ベルティ・フォクツが主将を引き継いでチームを牽引した。しかし、2次リーグ最終戦、オーストリア戦で、フォクツ自ら痛恨のオウンゴールを献上し、ハンス・クランクルに2得点を許したことが響いて2対3の逆転負け、ベスト4進出目前で敗退した。ブラジルは70年大会優勝時の攻撃力には及ばないものの、ジルセウやロベルト・ディナミッチ、トニーニョ・セレーゾ、オスカル、レオンらを中心とし、無敗のまま2次リーグを終える強さで歴代最多優勝国の意地を見せた。ホスト国をあと1歩まで追い詰めたが、最後は得失点差により3位に終わった。監督のエンツォ・ベアルツォットに率いられ、ヨーロッパ地区予選でイングランドに競り勝って出場を決めたイタリアは、ベッテガ、アントニョーニらアタッカー陣とGKゾフ、DFカブリーニ、シレアらディフェンス陣との攻守バランスが程よく取れており、今大会で地元アルゼンチンを破った唯一のチームとなった。2次リーグ最終戦でオランダに逆転負け、3位決定戦でもブラジルに敗れて4位に終わったが、メンバーの大半はそのまま残り、次回スペイン大会では優勝を果たした。1次リーグの対オランダ戦で、スコットランドのアーチー・ゲミルが決めた得点シーンは映画『トレインスポッティング』の中で演出として使われた。2次リーグに進むためにはスコットランドは3点差が必要であり、ゲミルの得点が試合を3対1にした。しかし、その後オランダが1点を返し、3対2となり、スコットランドは1次リーグで姿を消した。なお、今大会でブラジルからジーコ、西ドイツからカール=ハインツ・ルンメニゲ、イタリアからパオロ・ロッシ、フランスからミシェル・プラティニが期待の若手として本大会デビューを果たし、各々ゴールも決めている。直前に勃発した政情不安、軍事政権による介入など暗い影を落とす中、アルゼンチン国民の熱狂的な盛り上がりもあり、地元アルゼンチンが初優勝を獲得したことで、形の上では成功した大会となった。※オランダが得失点差でスコットランドを上回り第2ラウンドへ※アルゼンチンが得失点差でブラジルを上回り決勝へ進出
出典:wikipedia
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