サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(Sir Alfred Joseph Hitchcock, KBE, 1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリスの映画監督、映画プロデューサー。1939年からはおもにアメリカで活躍した。スリラー映画で成功し、製作・脚本・編集・美術も手がけた。サスペンス映画の神様とも称される。1899年8月13日ロンドンのレイトンストーン生まれ。鶏肉店を経営するかたわら果物の卸売商も営んでいたウィリアム・ヒッチコックと妻のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓ウェーラン)の三人の子供の二番目であった。一家はアイルランドのカトリック教徒であった(イギリスでは少数派)。ヒッチコックはロンドンでカトリックの寄宿学校に入学し、後にヒッチコックは幼年期は孤独であったと語っている(幼年期に父親に「ちょっとのあいだ」だけ留置場に入れられたという話はヒッチコック自身の証言でしか確認できない)。ヒッチコックが14歳の時に父親が死去し、ヒッチコックは工学を学ぶためセント・イグナチウス・カレッジを去った。学校を卒業した後はケーブル会社(W.T.ヘンリー電信会社)の技術部門(海底電線の電力測定)で働きながらロンドン大学の美術学科で絵の勉強をし、同社の広告宣伝部に異動する。その後ヒッチコックはアメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社に映画のタイトル用イラストを売り込み、採用される。1920年にはイズリントン・スタジオで、サイレント映画のタイトルデザイン(セリフや解説を書いた字幕)を担当した。その後、グレアム・カッツ監督の下で脚本・助監督などを手がけた。2011年には彼がアシスタントを務めた『ザ・ホワイト・シャドー』(1923年)の一部のリールがニュージーランドで発見され、ヒッチコックの携わった現存最古のフィルムとして貴重な資料となった。1925年にはゲインズボロー・ピクチャーのマイケル・バルコンが、ヒッチコックに処女作の『快楽の園』を監督するチャンスを与えた。ヒッチコックは急速に台頭した。ヒッチコックの三作目『下宿人』は1927年に公開された。同作は「切り裂きジャック」をモデルにした作品で、アパートにやってきた新しい下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が殺人犯の嫌疑をかけられる。これが最初の「間違われる男」をテーマとした「ヒッチカニアン」フィルムであった。1926年にヒッチコックは、アシスタント・ディレクターのアルマ・レヴィルと結婚した。二人の間には1928年に娘のパトリシアが生まれる。アルマはヒッチコックの最も親密な協力者であった。アルマは何本かの脚本を執筆し、ヒッチコックの全ての作品の擁護者であった。1929年にヒッチコックは十作目の『ゆすり』の制作を始める。撮影中に製作会社は同作を、イギリス最初のトーキー映画にすることを決定した。1933年には再び、ゴーモン=ブリティッシュ・ピクチャーに移籍していたマイケル・バルコンと共に働く。同社でのバルコンの初の作品は『暗殺者の家』であり、続いて『三十九夜』を制作する。同作は初期の代表作と見なされた。ヒッチコックの次の成功作は1938年の『バルカン超特急』である。軽快なテンポで展開する同作は、ナチス・ドイツを模した架空の国家ヴァンドリカでのスパイ騒動に巻き込まれた人々を描き、列車内で姿を消した老婦人の行方を捜すという内容のサスペンスでもあった。ヒッチコックの活躍はハリウッドから注目され、デヴィッド・O・セルズニックの依頼でヒッチコックはアメリカ合衆国で映画製作を行うこととなる。1940年にヒッチコックはアメリカでの初作品『レベッカ』を制作する。同作の企画はイギリスで行われ、原作もイギリスの作家ダフネ・デュ・モーリアによるものであった。作品はジョーン・フォンテイン演じるヒロインが後妻として入ったイギリスの屋敷での出来事を描くサスペンスで、1940年のアカデミー最優秀作品賞を受賞した。ヒッチコックのユーモアはアメリカでの作品群でも発揮され、作風はサスペンスをトレードマークとしていた。セルズニックは長年金銭問題に悩まされており、より大きな映画会社にしばしばヒッチコックを貸し出した。ヒッチコックの1940年代の作品は非常に多様であった。それはロマンティック・コメディの『スミス夫妻』(1941年)から暗いサスペンス(フィルム・ノワール)の『疑惑の影』(1943年)まで多種に及んだ。1950年代は、ヒッチコックの黄金時代と言える。さまざまな円熟期の作品が量産された。ヒッチコックは1956年にアメリカの市民権を取得した。『鳥』(1963年)までは精彩を放っていたが、『マーニー』(1964年)以降は凡庸な作品が目立つようになった。これは『マーニー』の撮影中にティッピ・ヘドレンに関係を迫ったものの断られたことが原因ではないかという説もある。あるいは、『ハリーの災難』以来バーナード・ハーマンが音楽を担当してきたが、『引き裂かれたカーテン』の音楽を巡って対立し、結果ハーマンをこの作品から降板させ、以後は袂を分かっていたことも影響しているのではないかともいわれる。高齢による衰えとの説もあるが、イギリスを舞台に撮影した最後から2番目の作品『フレンジー』(1972年)ではキレのあるサスペンス演出を見せ、ヒッチコック復活を印象付けた。1976年の『ファミリー・プロット』がヒッチコックの遺作となった。バーバラ・ハリス演じるインチキ霊媒師と、ブルース・ダーン演じる彼女の恋人であるタクシードライバーが、犯罪に巻き込まれるという内容であった。監督業への意欲は一向に衰えず、記者会見で「引退はいつですか?」と聞かれると「上映終了後」と答えたと言う。逆にそうした創作意欲の強さが、弱って行く一方の自分の肉体に対して自暴自棄な気持ちを持たせ、付き添いの看護師の目を盗んでコニャックをガブ飲みしたこともあったという。ヒッチコックは1980年1月3日にエリザベス2世よりナイトの称号を授けられたものの、ちょうどその4カ月後に腎不全を起こし、ロサンゼルスで息を引き取った。満80歳。遺体は火葬に付された。ヒッチコックは特にフランスの若い映画監督達から支持された。ヒッチコックは「ヌーヴェルヴァーグの神様」と呼ばれ、クロード・シャブロルやジャン=リュック・ゴダールらに崇拝され、なかでもフランソワ・トリュフォーはヒッチコックを意識したという『黒衣の花嫁』を撮ったり、ロングインタビューを敢行し『映画術』のタイトルで出版した。ヒッチコックの作品は非常に高度な映画技法を駆使して作られており、際立った演出手腕を持った映画監督と言える。その映像テクニックは技術本位ではなくあくまで演出上必要であるからこそ使われ、結果的に絶大な効果を上げている。特にスティーヴン・スピルバーグはヒッチコックの演出テクニックを生かした演出を行っているのが有名である(キネマ旬報にシーンの比較の記事が出た)。自分の作品のどこかにほんの一瞬だけ必ず姿を出すことで知られる(後姿やシルエットだけのこともある)。もともとこれは、初期の頃予算不足のためエキストラを満足に雇えず、やむなく出演していたという単純な理由だった。しかし恰幅の良い容貌で目立つためファンが探すようになってしまい、いつの間にか恒例になったものだという。理由はともかく、そのおかげでファンは作品がどんなにスリリングで手に汗握るものであれ、監督がいつ画面に登場するかを心待ちにするという稀有な楽しみを与えられた。しかし後年はこの「お遊び」があまりに有名になってしまったため、観客が映画に集中できるよう、ヒッチコックはなるべく映画の冒頭に近いところで顔を見せるように心がけていた。なお、監督の作品のうち、イギリス時代の作品は保護期間終了により、また、アメリカ時代の作品は著作権標記欠落や、入っていても更新されなかったこと、などによりパブリックドメインとなったものが多い。1955年(昭和30年)12月12日に来日している。妻の手記によると、ヒッチコック自身の私生活は非常に規則正しい物で作風からは想像できないが、予期せぬ出来事といった物は大嫌いだったらしい。そのために大好物であったスフレも作っている間に我慢ができなくなって途中でオーブンの扉を開けてしまうので、中が見える窓のついたオーブンを購入するまでスフレを作るのを禁止している。また鶏肉が好物だったことから、妻は「だから『鳥』を作ったのではないか」と推理していた。大物監督には珍しく、生涯で一度も離婚歴がなく、妻・アルマと過ごした。※:製作国に於いてパブリックドメイン(保護期間は公開から70年、ただし英国政府製作の映画は公開後50年)アカデミーに再三ノミネートされたが、当時のハリウッドではサスペンス物は格下に見られ、また、自身がアメリカ人でなかったことや、ハリウッドに住まずサンフランシスコに居を構え、ハリウッドの映画人との交流が少なかったことなどの理由から、監督賞を逃し続けたという説がある。
出典:wikipedia
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