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シド・ヴィシャス

シド・ヴィシャス (Sid Vicious,シド・ビシャスとも 1957年5月10日 - 1979年2月2日)は、イギリスのパンクロッカー。本名はジョン・サイモン・リッチー(John Simon Ritchie)。極度の麻薬中毒者としても知られる。1979年、薬物の過剰摂取により21歳で死亡した。短い生涯であったが、そのカリスマと過激なパフォーマンスに人々は魅了され、彼はパンク・ロックの伝説となった。「シド」という芸名は、ジョニー・ロットンが昔飼っていたハムスターの名前が由来で、ロットンの父親に噛みついたことから「ヴィシャス(凶暴な)」という苗字がつけ加えられた。シドはサウスイースト・ロンドンのルイシャムにて父ジョン・リッチーと母アンのもとに生まれた。アンは学校を中退した後イギリス空軍に入隊し、そこでバッキンガム宮殿の衛兵をしていたジョンの父と知り合い彼の息子と交際するようになった。アンは出産後イビサに引っ越すが、結局ジョンとの結婚は破談となった。1965年にクリストファー・ビヴァリーと再婚し、シドも「ジョン・サイモン・ビヴァリー」と改名した。元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズのライブ中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者をベルト代わりにつけていた自転車のチェーンで殴るなど、目立った存在だった。同時期に「ポゴダンス」(ライブで垂直にぴょんぴょんジャンプする事)を発明している。(シド曰く、発明した理由は「ライブ会場にいる敵をつぶすためにジャンプして上から潰す!」という事らしい。)1976年9月21日、ライブ・イベントでダムドが演奏中に何者かが投げたグラスが柱に当たり、その破片によって観客の女性が片目を失明するという事件が発生した。このときシドはグラスを投げた犯人として逮捕されたものの、証拠不充分により告訴は取り下げられ釈放されている。しかしは彼女の自叙伝の中で「グラスを投げたのは自分だ」と1年後になってシドが告白していたことを明かしている。ヴィシャスとジョニー・ロットンはファッション関係の専門学校時代からの友人でもあった。その縁もあって初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラレンの誘いがあって、後任のベーシストとなった。当時セックス・ピストルズのメンバー間では、スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは非常に仲が良く、常に行動をともにしており、ポール&スティーブ、グレン、ロットンという対立の構図があった。マネージャーのマルコムは仲を取り持つ事をせず、メンバー間をいがみ合わせるように流言した。グレンと折り合いが悪かったロットンは、グレンの脱退後にスティーブ&ポールに対して発言権を強めたい目論みもあって親友であったシドをベーシストにと強力にマクラーレンにプッシュしたのである。その話の直前にダムドのフロントマンとしてオーディションを受けており、最終選考まで残ったのだが、最終選考日に寝坊してすっぽかした為、ダムドのフロントマンになり損ねている。ジョニー・ロットンが脱退後、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したシングルをリリース。シドの死後にリリースされたライブ・アルバム『シド・シングス』には、「マイ・ウェイ」のスタジオ録音バージョンも収録された。セックス・ピストルズにおける音楽活動の最後は「ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル」における収録である。この収録に際してもパリでのMY WAYの撮影時に既にシドは普通に行動するのも困難な状態なまでヘロインによって蝕まれており、体は痩せ細り衰弱しており、歌詞を覚えさせて1曲を収録するのに1週間近くかかった。その後は、セックス・ピストルズの初代ベーシストであるグレン・マトロックや、憧れであったジョニー・サンダースらと一時的に組み、ライブを行っている。ただしジョニー・サンダースとのステージでは、同じジャンキーであるジョニー・サンダースからしても、シドのドラッグの悪影響はステージ上にも及んでおり、そのせいでライブパフォーマンスを保てないシドを途中で降板させている。この事は激しくシドを失意に落とした出来事であると言われている。1978年に、ジョニー・ロットンと和解し、2人で新たなバンド結成の話を持ちかける。 ジョニー・ロットンも話に乗っていたのだが、ナンシー・スパンゲンが間に入り、そのバンドのフロントマンはシドじゃないとと譲らず、ジョニーが「じゃあ、おれは何をやるのさ?」と問いかけるとナンシーは「あなたはドラムでもやったらいいわ」と言い、結果的に夢の実現は、ナンシー&ドラッグを断てないシドの為に崩壊し終わっている。1978年9月にニューヨークに渡ったシド&ナンシーは、ナンシーの働きかけにより、マクシズで3回ライブを行う。連日ライブハウスは超満員であったが、シドはドラッグによって立っているのがやっとで、マイクスタンドにしがみついている状態で、時折、ステージ上で倒れこんでしまう。さらには、歌詞を思い出せずに歌詞カードを手に持ち歌わなければならず、ついには1曲もまともに歌う事も叶わず、観客からも冷やかな反応を受ける。3日目のステージではザ・クラッシュのミック・ジョーンズと共演している。この辺りからシド&ナンシーは死を口にする事が多くなり、ナンシーは自殺をはかったりするようになる。シドはラストライブの後に、ハードドラッグによるオーバードーズ(過剰摂取)により、意識を失い入院する。その為にロックンロール・スウィンドル撮影のリオ行きの飛行機に乗れずに、スティーブ&ポールとは合流せずに不参加と終わる。1978年10月13日には、ニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。真相は明らかでないが、凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したと言われている。しかし、ナイフは指紋が拭きとられている状態であったり、シドの元に入ったばかりのMY WAYの印税2万ドルが全て無くなっていた。シドはナンシー殺害の時刻には、ツイナールの過剰摂取によるオーバードーズによる昏睡状態となっており、後に医師らにより、服用した量から類推するに5時間は昏睡状態であったといわれている。その間に複数人の部屋への出入りも確認されており、その時にシドが昏睡している事を証言している。シドは昏睡状態から意識を取り戻すと血だらけで死んでいるナンシーを見つけ、ホテルのフロントに連絡している。一説には、ナンシーにドラッグを売っていた男が、ナンシーの死の前日には1杯の酒代をせびっていたにも関わらず、ナンシー殺害の翌日に新品のブーツとレザーパンツ姿でバーに現れ、血のついたシャツを見せびらかしていたという話や(後にこの人物はナンシー殺害をほのめかす発言やナンシーを殺害した場面をVTRに収めており、それを販売して一儲けするよな話をしていたというが真相は明らかになる前に病死している。)他にも二人が自殺を図り、昏睡したシドを死んだと思ったナンシーが自殺したという説もあるが、指紋が拭きとられて置いてあったナイフと、消えた2万ドルの謎とは結びつかない。この時期のシド&ナンシーは互いを殴り罵る激しい喧嘩を繰り返していた。またナンシーは腎臓を病んでおり、その苦痛の激しさから逃れる為にもハードドラッグにすがっていたという。*出典:アラン・パーカー著 ノーワン・イズ・イノセントシド&ナンシーの暮らしたチェルシーホテルの部屋は、事件後にパンクのロミオとジュリエット神話の崇拝者達の巡礼地となってしまった事に困惑したホテル側により取り壊され、ランドリー室に作り替えられている。部屋番号も欠番扱いとなり、数字が飛んでいる。警察には逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、1979年2月2日、遂に麻薬の過剰摂取により死亡した。シドが死に至った直接的な理由は、収監され完全にヘロインが抜けきった体に、高純度のヘロインを収監以前に打っていたのと同じ感覚で大量に摂取した事によるもの。そのヘロインは、その夜、シドに哀願された、彼の母親が渡した物。死後、シドの革ジャンのポケットから直筆の遺書らしきメモが発見される。『俺達は死の取り決めがあったから、一緒に死ぬ約束をしてたんだ。こっちも約束を守らなきゃいけない。 今からいけば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。お願いだ。死んだらあいつの隣に埋めてくれ。 レザー・ジャケットとレザー・ジーンズとバイク・ブーツを死装束にして、さいなら。』と記されていたという。シドの母親は、ナンシーの墓の隣に埋葬して欲しいという息子の遺言を果たそうとするが、ナンシーの両親に拒絶されたためにシドの墓を掘り起こし、彼の遺灰をナンシーの墓に撒いてシドの思いを果たした。身長 6フィート1インチ(約185cm) 体重 7ストーン(約45kg)*ライカーズ刑務所収監時過激な伝説とは裏腹に、本来は非常に気弱で礼儀正しい青年であったとも言われている。ピストルズ加入以前にシドはそのファッションセンスとスタイルの良さからヴィヴィアン・ウエストウッドに寵愛され、目立つ存在であった。またシド・ヴィシャスという芸名を非常に気に入っていて、自分が大好きであったマーベルコミックのヒーローになぞらえてふるまっていた。ただし彼の独特の考え方において行動しており、既存の社会通念やルールといった括りを一切無視していた為に、回りからは困惑されうる人物であった。シドは、自身がロットンや観客に求められているイメージのままに行動する事に喜びを感じており、やがてサイモンではなく、シド・ヴィシャスそのものへと変わってしまったと母親は語っている。セックス・ピストルズ時代は専らライブではステージ上から客を挑発し、エキサイトして向かってきた客と殴りあう事が多かった。アメリカツアー当初は当局への配慮から厳しく「ハード・ドラッグ禁止」されており、監視下でシドのヘロインの渇望と禁断症状は激しいものだった。ペパーミント・シュナップスを2本空けても喉の渇きは止まず、終始、汗びっしょりで汗と冷や汗を交互にかき、立ったと思ったらまた座り、今度は横になったままといったような事を繰り返していたが、我慢が限界に達したシドは、テキサス州ダラスのライブで、胸に剃刀で「Gimme a Fix(一発くれ!)」と刻み、客から投げ込まれた物で鼻血まみれになりながらベースプレイをしている姿は有名である。そのパンクを地で行く生き方は多くの若者の支持を集め、後期ピストルズにおいては、ステージ上ではシドの悪ふざけの過ぎるパフォーマンスの方に注目が集まるようになっていく。特にアメリカツアーにおいてはロットンがインフルエンザで冴えなかった事もあり、ライブでの群集はステージの左側(シドの立ち位置)に詰めかけるようになっていく。セックス・ピストルズ=ロットンの図式から序々にバンド内の人気を二分していった。シドがヘロインなどの強い麻薬に溺れたのも元はナンシーがハートブレイカーズとともに英国シーンにもたらした言われている。しかしながら彼の母親が重度の麻薬依存者であり、彼女と出会う以前からスピードやツイナールといった軽度の薬物は使用していた。アメリカツアー中のダラスのパーキングエリアで、カウボーイが食事をしているシドに「お前がシド・ヴィシャスか? へっ 笑えるぜ! そんなにタフだっていうならこれは出来るか?」と、自分の手の平でタバコの火を消して見せた。それを受けたシドは、ステーキののる皿の上に腕を出し、そいつを睨みながら平然と自分の腕にナイフを突き刺して見せ、腕から滴る血がステーキに垂れているのもものともせずに、ステーキを食い続け、カウボーイを逃げ出させている。またシドの大ファンだという女性ファンがバックステージで何か思い出になる記念が欲しいというと、彼女を寝かせてフェラチオをさせた後に彼女の上に大便をしてみせた。。ピストルズに加入前はフラワーズ・オブ・ロマンスとスージー・アンド・ザ・バンシーズにてドラムを担当。スージー・アンド・ザ・バンシーズのデビューライブではシドがドラムを叩いている。ピストルズに加入した当初は全くベースを弾いたことがなかったが、加入してからベースプレイに精を出し、初期のライブではベースの位置は高いながらも曲に合わせて弾いているのが確認が出来る。しかし、その後ナンシー・スパンゲンと知り合ってからは、ベースプレイの練習も投げ出し2人で麻薬に溺れるようになっていってしまったため、結果として上達はしなかった。その反面、残されている数少ないシド在籍時のライブビデオ(特にスウェーデンにおけるライブは最良である)では、彼のベースプレイが確認できる。またエリザベス女王25周年祭の船上ライブ映像でも、シッカリとしたベースプレイをしている事が確認できる。もっとも音源がポピュラーであるラストライブとなったサンフランシスコ・ウィンターランドでのライブ音源、映像を確認しても、噂に反して彼がキチンと演奏をしているのが確認できる。「ベースが弾けない」というのは、PISTOLS特有の流言、デマの一種のフェイクプロモーションの意味もあったのではないか?とさえ思われる。「一切ベースを弾けなかった」という噂の反面、作曲における才能はピストルズの「Bodies」という曲などで発揮するなど、天性の才能を持ち合わせていた一面もあった。この曲の作曲経緯については後日談としてスティーブ・ジョーンズが1990年にMTVのインタビューにて語っている。また「Belsen was a gas」もシドによる曲の一つであり、死後に彼がいくつかの曲の構想を書き記した物も見つかっている。グルーピーからヘビードラッグの提供を受けるようになった彼は急激に麻薬への依存度が高くなり、ライブ中も立っているのがやっとだったという。ある時は4本あるベース・ギターの弦のうち3本の弦が切れているのにも気がつかずに掻き鳴らす状態で、怒ったスティーブがアンプを切ったという逸話も語られている。白ボディに黒ピックガードのプレシジョンベースを使用していた(プレシジョンベースを使用した理由は彼が熱狂的なラモーンズファンだった為。ベーシストのディー・ディー・ラモーンと同系統のものを使用している)。アメリカツアー初公演のサンアントニオのライブでは集まった2200人強のメキシコ人が、セックス・ピストルズに対する敵意をむき出しにし、ステージに詰め掛けた為、シドはライブの途中でベースを斧のように構えて客席を威圧し、何度もベースを振り回し、時には掴みかかる客に殴りかかっていきステージ防衛をしなければならなかった。またテキサス州ダラスにおけるライブでは、ピストルズのライブにエキサイトし、ステージに上がってきた客の肩口を愛用のベースで殴るという事件も起こした。ロットンはシド・ヴィシャスにおけるセックス・ピストルズへの音楽的な貢献はなかったと語っている。売り上げで言えば、シドのシングル「Something else」は、発売後2週間で38万2000枚のリリースを記録している。この記録はセックス・ピストルズの楽曲のうち最大のヒット・ソングであった「God save the queen」を10万枚以上も上回り、事実上のセックス・ピストルズ関連楽曲ではNO.1セールスとなっている。ちなみにロットン脱退後にセックス・ピストルズ名義でリリースされた「MY WAY」は、指名手配犯のロナルド・ビッグズとの「No one was innocent」とカップリングでのリリースであったが、フロントマンが指名手配犯だったこともあって公共の放送は見合わされた。最高位7位のチャートを記録し、セックス・ピストルズの「Pretty vacant」と同等の成績を残した。これにより「C'mon everybody」の製作が決まった。なお、「MY WAY」の一節には脱退したロットンを馬鹿にする内容の歌詞がシドにより盛り込まれている。「R」が刻印されている香港・ラビット社の南京錠のネックレスとリング・ベルトをトレードマークとして身につけていた。上記の映画『シド・アンド・ナンシー』ではスパンゲンからのプレゼントとして演出されているが、実際には後にプリテンダーズを結成するクリッシー・ハインドからのプレゼントであった。鎖のチョーカーのそのネックレスは、日本においては「シド・チェーン」と呼ばれ、2012年現在でも通用する単語となっている。リングベルトは日本においては「シド・ベルト」と呼ばれ、ジョーン・ジェットからのプレゼントであった。元々はSMグッズの中の一つであった。アメリカツアー時に愛用したロングブーツは チペワ製の17インチ(筒長)のエンジニアブーツ(型番27909)であった。これは、シド憧れの人物であるジョニー・サンダースが愛用するブーツと同様であった為、ツアー移動中のバスの中において持ち主であったボブ・グル―エンが居眠りしている隙に拝借し、その履き心地が気に入り、手放したくなくなったシドがグルーエンの喉元にナイフを突き付け強引に自分の物にしている。同様に愛用していたレザージャケットは50年代後期~60年代初期頃に販売された、PENNEY'Sのツースターモデルのビンテージジャケットで、スティーブ・ジョーンズから譲り受けたといわれており、左胸にスタッズにてSteveと書かれている。右胸にはアメリカ陸軍の帽章が飾られている。右足の太ももを飾っていたのは女性用のキャットガーターでアメリカツアー時は外周が黒のレースに赤いレースでセンター帯が入り、赤いリボンが付き、リボンの外周には黒いレースついていた。映画ロックンロールスウィンドルでは、白のレース帯の外周に黒いレースがつき、白いリボンを解けた状態で長く垂らしていた。シドの母アンはマクラーレンとの調停により1986年には25万ポンド、以後毎年10万ポンドをシド・ヴィシャス関連グッズの印税として受け取っていた。しかしその後は病苦に悩まされ、1997年9月3日に64歳で服毒自殺した。自殺に際しあてた遺書には、ピストルズ再結成の記者会見の席でロットンが発した「シドが生きていたってクソの役にも立たないぜ! あいつは(革ジャンをかける為の)ハンガーさ!ただの役立たずだった。」という発言に対する怒りと「シドが可哀相…草葉の陰であの子は泣いて居るわ。」と、記している。現在シド・ヴィシャスに関する権利はシドの甥に引き継がれている。またシド愛用の遺品は時折、サザビーズに出品され高額で取引されている。

出典:wikipedia

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