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テンポイント

テンポイントは、日本中央競馬会に登録されていた競走馬である。トウショウボーイとグリーングラスを加えた3頭はTTGと総称される。1975年8月に競走馬としてデビュー。関西のクラシック候補として注目を集め、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。クラシックでは無冠に終わったが、5歳時に天皇賞(春)と有馬記念(第22回有馬記念)を優勝した。後者のレースでトウショウボーイと繰り広げたマッチレース(2頭にグリーングラスを加えたTTGの三つ巴の戦いとして取り上げられることもある)は競馬史に残る名勝負のひとつといわれる。1978年1月に国外遠征に向けての壮行レース(第25回日本経済新春杯)中に骨折し、43日間におよぶ治療の末に死亡した。1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。1990年に中央競馬の顕彰馬に選出。主戦騎手は鹿戸明。"※馬齢は旧表記に統一する。"テンポイントは1973年4月に北海道早来町の吉田牧場で生まれた。父のコントライトは吉田牧場が日本へ輸入しシンジケートを組んだ種牡馬で、母のワカクモは桜花賞優勝馬であった。吉田牧場の吉田重雄は、この交配には「当時海のものとも山のものともわからないコントライトという種馬を、僕が中心になりシンジケートをつくって入れたんで、これを成功させなくちゃならない。そのためには、いい肌馬を当てて、いい子馬を生んでもらわなくては」という思惑があったと述べている。吉田牧場の吉田晴雄によると、生まれたばかりのテンポイントはどっしりとして「文句なしの特級」といえる体つきをしていた。テンポイントはまもなく馬主の高田久成によって1500万円で購入され、栗東トレーニングセンターにある小川佐助厩舎で管理されることが決まった。購入前に吉田牧場で見たテンポイントについて小川は、身体全体がバネ仕掛けで動くような動きをしていたと述べている。吉田牧場の関係者によると、幼少期のテンポイントは精神・知能の面では人に逆らわない利口さをもち、常にワカクモに付いて回る甘え性でもあった。身体面では追い運動(馬に騎乗した人が仔馬を追いたてることでさせる運動)をさせた時の走りが非常に速かった反面ひ弱さを抱え、2歳時に前脚の膝の骨を痛めるなどあまり丈夫ではなかった。幼少期のテンポイントには栄養補給のためミルクが与えられた。テンポイントはこれを好んで飲み、後に1978年の闘病中には吉田牧場の勧めで毎日牛乳が与えられた。テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。8月17日、函館競馬場の新馬戦でデビュー。3日前に行われた調教で優れた動きを見せたことが評価され、50%近い単勝支持率を集め1番人気に支持された。レースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった。この時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった。新馬戦の後、調教師の小川は年内の出走予定を2回と決めた。2戦目には当初10月の条件戦りんどう特別が予定されたが発熱したため11月の条件戦もみじ賞に変更となった。もみじ賞でテンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝した。続いて当時の関西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスに出走。テンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持された。レースでは第3コーナーを過ぎたあたりからハミがかからず3番手から6番手まで後退し(この傾向はその後のレースでもみられた。詳しくは#レース中に見せた特徴を参照)、勝利が危ぶまれる場面もあったが、第4コーナーで前方への進出を開始。直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離してゴール。2着馬に7馬身差を付け、同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速い走破タイムを記録して優勝した。テンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬に選出された。阪神3歳ステークスを優勝したことで、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになった。調教師の小川は東京優駿(日本ダービー)に備え早めに東京競馬場のコースを経験させるためにテンポイントを東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走させ、その後中山競馬場に滞在して皐月賞に臨む計画を立てた。テンポイントの管理や調教は主戦騎手の鹿戸明と厩務員の山田に任されることになった。1976年の初戦となった東京4歳ステークスでは直線の坂を登った地点で先頭に立ち優勝したが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となった。続く皐月賞トライアルのスプリングステークスでも優勝したが2着馬とはクビ差の接戦であった。この結果を受けて関東の競馬関係者からは「テンポイントは怪物ではない」という声も上がるようになった。鹿戸によるとスプリングステークスでのテンポイントは体重を十分に絞り切れておらず、鹿戸と山田は調教の様子を見に来た小川から叱責を受けた。関東では苦戦が続いたものの、5戦5勝という成績でクラシック一冠目の皐月賞に臨むことになった。しかし厩務員の労働組合による春闘の影響でテンポイントの調整に狂いが生じた。この年の春闘はベースアップを巡り労働組合側と日本調教師会とが激しく対立し、厩務員側のストライキによって皐月賞施行予定日である4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出た。テンポイント陣営はストライキは行われないと予想しレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行ったが、予想に反してストライキが行われ、皐月賞の施行は1週間後25日に順延された。その後組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになった。陣営は今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行ったが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催することで合意が形成され、ふたたび予想が裏目に出る結果となった。これらの調整の狂いによってテンポイントには疲労が蓄積し、苛立ちを見せるようになった。その結果レースでは1番人気に支持されたものの、同じく無敗で臨んでいたトウショウボーイに5馬身差をつけられ2着に敗れた。次走は年初から目標としていた東京優駿となった。テンポイントは2番人気に支持されたものの、厩務員の山田によると競走生活においてもっとも体調が悪かった。山田は勝つことを「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と当時を振り返っている。レースでは第3コーナーから思うように加速することができず、7着に敗れた。レース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入った。なお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して骨盤を骨折して騎乗が不可能となったため東京優駿では武邦彦が騎乗した。鹿戸がテンポイントに騎乗しなかったのはこのレースだけである。骨折は程度は軽く7月頃には治り、陣営はクラシック最終戦・菊花賞へ向けて調整を続けた。菊花賞のトライアルレースであった神戸新聞杯と京都新聞杯には間に合わず、復帰初戦には京都大賞典が選ばれた。テンポイントの調整は調教師の小川がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘した。菊花賞では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持された。このレースで鹿戸はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立った。トウショウボーイにはそのまま先着したが内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わった。なお、当時グリーングラスの勝利はフロック視されたが、のちに同馬はTTGの一角を形成する実力馬とみなされるようになった菊花賞の後、陣営は有馬記念への出走を決めた。レースでテンポイントは5、6番手を進んだが第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩め外へ進路をとった後に再度加速したものの直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れた。菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった。陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。テンポイントは京都記念(春)、鳴尾記念をともに着差はクビ差ながら連勝し、天皇賞(春)では1番人気に支持された。レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした。前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと……」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった。天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。同レースには持病の深管骨瘤で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。トウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された。しかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。トウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とそれぞれこのレースを振り返っている。この敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」 という声が上がるようになった。(レースに関する詳細については第18回宝塚記念を参照)宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく、招待を辞退して年末の有馬記念を目標とした。小川と鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった。厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントは腰に筋肉がつき、筋骨隆々の馬体になった。これによりトウショウボーイに劣る部分がなくなり、「これなら勝てる」という感触を得たと山田は振り返っている。夏期休養後の京都大賞典で63kgの斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり、続くオープンも逃げ切って優勝。有馬記念では1番人気に支持された。レースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた。鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまりこんだ。途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた。阿部珠樹は向こう正面に入っても競り合いを続ける2頭を見て、「共倒れになるかもしれない」と感じたという。それでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っている。鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースではの締め方が完全ではなかった。抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。トウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされる。渡辺敬一郎はこのレースを、「昭和52年。……極端なことを言えば、2頭の競走生命のすべてが暮れの有馬記念に収斂されていったと言っても過言ではない」と評している。(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)この年、テンポイントは史上初の満票で年度代表馬に選出された。年が明け、テンポイント陣営は海外遠征を行うと発表。2月に遠征における本拠地であるイギリスへ向けて出発することになった。発表後、関西圏のファンから遠征の前にテンポイントの姿を見たいという要望が馬主の高田や調教師の小川に多数寄せられるようになった。これを受けて小川は壮行レースとして1月22日の日本経済新春杯に出走させることを主張した。高田は重い斤量を課されることへの懸念から内心出走させたくなかったものの判断を小川に委ねた。小川は67kg以上のハンデキャップを課された場合出走を取り消す予定であったが、発表された斤量は66.5kgであったため出走を決定した。一方、馬主の高田、主戦騎手の鹿戸、吉田牧場の吉田重雄は66.5kgの斤量に懸念を抱いた。レースでは向こう正面半ばまで先頭を進み、そこからエリモジョージやビクトリアシチーに競りかけられたものの斤量を苦にしている様子はなく、鹿戸は「楽勝だ」と感じていた。しかし第4コーナーに差し掛かったところで左後肢を骨折し競走を中止した。骨折の瞬間、鹿戸明は「後ろから引っぱられて沈みこむよう」な感覚に襲われたという。(レースの詳細については第25回日本経済新春杯を参照)骨折の程度は折れた骨(第3中足骨)が皮膚から突き出す(開放骨折)という重度のもので、日本中央競馬会の獣医師は安楽死を勧めたが、高田が了承するのを1日保留している間に同会にはテンポイントの助命を嘆願する電話が数千件寄せられ、電話回線がパンクする寸前になった。これを受けて同会は成功の確率を数%と認識しつつテンポイントの手術を行うことを決定した。テンポイントの骨折は大きく報道され、一般紙でも1月23日付の朝日新聞の朝刊が三面トップ6段抜きで扱った。テンポイントの闘病中もスポーツ新聞では症状が詳細に報じられ、連日厩舎にはファンから千羽鶴や人参などが届けられた。日本中央競馬会はテンポイントの手術と治療のために33名の獣医師からなる医師団を結成し、1月23日に手術を行った。手術の内容はテンポイントに麻酔をかけて左後脚を切開し、特殊合金製のボルトを使って折れた骨を繋ぎ合わせた後でジュラルミン製のギプスで固定するという内容のものだった。手術は一応成功したと思われ、2月12日に医師団は「もう命は大丈夫。生きる見通しが強くなった」と発言した。しかし実際にはテンポイントが体重をかけた際にボルトが曲がり、折れた骨がずれたままギプスで固定されてしまっていた。2月13日に患部が腐敗して骨が露出しているのが確認され、同月下旬には右後脚に蹄葉炎を発症して鼻血を出すようになるなど症状は悪化の一途をたどった。3月3日には事実上治療が断念され、医師団はそれまで行われていた馬体を吊り上げて脚に体重がかからないようにする措置を中止し、テンポイントを横たわらせた。3月5日午前8時40分、テンポイントは蹄葉炎により死亡した。安楽死は最後まで行われず、自然死であった。骨折前に500kg近くあった馬体重は死亡時には400kgとも350kgとも300kgを切るとも推測されるまでに減少し、馬主の高田が大きな犬と思うほどに痩せ衰えた。その死はNHKが昼のニュース番組でトップニュースとして扱い、また当日のフジテレビの競馬中継では阪神競馬場のスタジオ(関西テレビ)と結んで、杉本清と志摩直人が画面に登場、テンポイントの死亡について語るコーナーを設けるなど、マスコミでも大きく報じられた。3月7日、栗東トレーニングセンターでテンポイントの葬儀が営まれた。調教師の小川は自らの手でテンポイントを火葬しようと考えたが、滋賀県の条例で競走馬の死体を焼却することが禁止されていたため、テンポイントは冷凍されて北海道へ移送され、吉田牧場に土葬された。吉田重雄の頼みで獣医師が装着されたままになっていた左後脚のギプスを外すと異臭が立ち込め、「飛節から下の部分がグニャグニャに腐っていた」という。3月10日に吉田牧場でもテンポイントの葬儀が営まれ、競馬関係者やファンなど約400人が参列した。2つの葬儀は競走馬として日本初、人間以外では1935年の忠犬ハチ公以来2例目のものとされる。吉田牧場の敷地内には馬主の高田が建立したテンポイントの墓があり、多くのファンが献花に訪れている。その周りには父のコントライトや近親馬の墓がある。競馬に造詣の深かった作家寺山修司は『さらば、テンポイント』という詩を記してその死を悼んだ。テンポイントの死によって趣旨が変更されて発表された作品もある。テンポイントが日本経済新春杯に出走する2日前、詩人の志摩直人は自らの詩を添えたテンポイントの写真集を出版する企画を立てていた。テンポイントの死を受けて企画は追悼写真集に変更され、『テンポイント 栄光の記録』というタイトルで発売された。また、関西テレビはテンポイントの海外遠征が決定を受けて、遠征の様子を追いかけるドキュメンタリー番組の制作を決定していた。しかし日本経済新春杯の事故で番組の内容は闘病生活の様子を伝えるものに変更された。制作されたドキュメンタリー(『風花に散った流星 - テンポイント物語』)は1978年5月に放送され、後にビデオ化(『もし朝が来たら - テンポイント物語』)された。テンポイントの骨折、闘病、死は日本の競馬界に多くの問題を提起した。具体的には安楽死の是非、厳冬期に競馬を施行することの是非、重い斤量を課すことの是非などである。テンポイントを安楽死させなかったことは馬主の高田夫妻が「生あるものを安楽死させることは忍びない」と考えたからであったが、「結果はテンポイントを苦しくさせただけではなかったか」という批判も起こった。テンポイントの骨折事故を受けて、日本中央競馬会ではハンデキャップ競走等の負担重量について再検討がなされ、過度に重い斤量を課す風潮が改められた。テンポイントは1990年に顕彰馬に選定された。選出の理由は、数字には出てこない部分で日本の競馬に大きな貢献があったというものである。1984年に初めて顕彰馬が選定された際には種牡馬実績がなく、競走実績だけをみれば他にも選ばれる馬がいるという理由で選に漏れたが、発表後テンポイントが含まれていないことについて多くの抗議が寄せられた。顕彰馬選考委員会のメンバーだった石川喬司によると、「なぜあの馬が入っていないんだ」という趣旨の抗議の中で最も多かったのはテンポイントについてのものであった。テンポイントはトウショウボーイと6回にわたって対戦し、両馬は競馬ファンおよび競馬関係者によって互いの好敵手であると見なされた(TTGの中でもとりわけトウショウボーイとテンポイントのライバル関係をTTと呼ぶ)。テンポイントの関係者はトウショウボーイのデビュー戦を見てすでにその能力の高さを認識していた。テンポイントはトウショウボーイとの対戦成績が悪く(通算6回の対戦で2勝4敗)、最後の対戦となった第22回有馬記念までトウショウボーイが出走したレースで1着になったことがなかった。小川と主戦騎手の鹿戸はトウショウボーイを負かすことを強く意識し、前述のように第18回宝塚記念で敗れた後は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行い、テンポイントを筋骨隆々の馬体に仕上げた。一方、トウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳も、引退が決まったトウショウボーイにテンポイントを負かして花道を飾らせたいと第22回有馬記念出走を決定した。保田は、菊花賞でテンポイントに風格が備わったのを感じて以来テンポイントに対し「敵はこれだな」という「本当のライバル意識」を持つようになり、2回目の有馬記念では相手にテンポイントしか浮かばなくなっていたと振り返っている。騎手の起用について2頭の陣営は対照的であった。トウショウボーイ陣営が4歳時に東京優駿・札幌記念と連敗した後、それまで同馬に騎乗していた池上昌弘を降板させ福永洋一や武邦彦といったトップジョッキーを起用したのに対し、テンポイント陣営はテンポイントが敗戦を繰り返した時期にも鹿戸明を降板させることはなく、鹿戸は骨折で騎乗できなかった東京優駿以外のすべてのレースで騎乗した。鹿戸はテンポイントの主戦騎手を勤めたおかげで名前が売れてジョッキーとして一人前になったとし、「僕をずっと乗せてくれた小川先生と高田オーナーには頭が上がりませんね」と述べている。トウショウボーイは第22回有馬記念を最後に競走馬を引退して種牡馬となり、1992年に死亡した。死因はテンポイントと同じ蹄葉炎であった。小川は1976年にテンポイントを関東に遠征させた際、日本中央競馬会に獣医から「関東のコースにはゴール前に坂がある。関西にはない坂(当時、阪神競馬場の直線コースには坂がなかった)を走って馬が腰を悪くすることがあるから気をつけるように」と忠告を受けた。実際にテンポイントは東京4歳ステークスで腰を痛めた。小川は東京優駿で7着に敗れた後、新聞記者を集めて「関西馬が関東馬に負けるのは競馬場にも栗東トレーニングセンターにも坂がないからだ 」とコメントし、栗東トレーニングセンターに上り勾配をつけるよう働きかけてくれと涙ながらに訴えた。この発言を受けて同年秋に栗東トレーニングセンター内の調教コースの一つ(Eコース)に勾配がつけられたほか、坂路コースを建設する気運が高まり、1985年に完成した。1990年代になると中央競馬では1970年代とは逆に「西高東低」の構図が定着し、その原因のひとつに美浦トレーニングセンターに坂路コースがないことが挙げられるようになった。このことについて競馬評論家の大川慶次郎は、「関西の時代を作る源となったのは、小川調教師とテンポイントだった」と評した。関西テレビのアナウンサー(当時)で競馬実況を主に担当していた杉本清は、阪神3歳ステークスにおいて「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」という実況を行った。菊花賞ではテンポイントが直線で先頭に立つと「それいけテンポイント、ムチなどいらぬ!押せ〜!」とテンポイントへの個人的な肩入れを実況するスタイル(自らの主観を実況に反映させていたことは杉本自身も認めている)は競馬ファンに強い印象を残した。杉本はテンポイントについて「テンポイントがいたから今の杉本清がある」と述べている。ポリドール・レコードは杉本に注目し、杉本を歌手としてテンポイントの音楽レコード制作を企画した。しかし杉本の歌唱力が低かったために歌い手は新人歌手の菖蒲正則に変更された(杉本はB面『テンポイント物語』のナレーションをすることになった)。このレコードは 1976年に『君よ走れ-テンポイント賛歌-』というタイトルで発売された。テンポイントは額から真っ直ぐに伸びた流星と美しい栗毛の馬体を持つことで知られる。テンポイントの栗毛は日光を浴びるととくに美しさを増し、「日の光に煌めいて黄金色に見える」といわれた。競馬関係者の中にもテンポイントの馬体の美しさを評価する声は多い。厩務員の山田はテンポイントの流星が常に見えるように決してメンコを装着させなかった。体力面では若い頃は華奢で脆弱な面があり、デビュー前はしばしば腹痛や発熱を発症し、デビュー後もレースに出走すると1週間ほど食欲が落ちてなかなか疲労が取れなかった。しかしデビュー後徐々にたくましさを増し、デビュー戦で456kgだった馬体重は第22回有馬記念出走時には498kgに増加した。テンポイントの一番の長所について、吉田牧場の吉田晴雄は心肺機能の高さであるとしている(一般的な競走馬の一分間の心拍数は27だが、テンポイントは18だった)。主戦騎手の鹿戸は背中が柔らかかったことと皮膚が非常に薄かったことを挙げている。吉田牧場の関係者と調教師の小川、厩務員の山田は、同馬の利口さを指摘している。気性面ではレースで強い闘争心を発揮した半面、普段はおとなしい気性の持ち主だった。テンポイントはレース終盤に苦しくなるとよれてまっすぐに走れなくなる癖があった。鹿戸によると、これはテンポイントが脚に慢性的な骨膜炎を抱えていたことが原因だった。テンポイントはスタートが得意で、出遅れたことが一度もなかった。主戦騎手の鹿戸によるとテンポイントは反射神経が抜群によく、たとえ発馬機内で横を向いていてもゲートが開くとすぐに反応してスタートすることができた。一方で前述のようにレース中第3コーナーから第4コーナーにかけて後退する癖があったが、厩務員の山田によるとこれはテンポイントの走る時の完歩が大きかった(一般的な競走馬が200m走るのに30完歩以上かかるのに対し25完歩で走ることができた)ため、レース終盤にペースが速くなると追走しにくくなるからだとしている。テンポイントの主戦騎手であった鹿戸とトウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳はともに、テンポイントの競走馬としての最大の特徴はレースで見せる勝負強さ、闘争心にあったと指摘している。テンポイントの人気は高く、天皇賞(春)を優勝し初めて八大競走に勝った時には観客席から手拍子と口笛が鳴った。これはそれまでの中央競馬にはなかった現象であった。また、前述のように第22回有馬記念優勝後や日本経済新春杯で骨折した際にはそれぞれ関西のレースでテンポイントの姿を見たいという要望と助命嘆願が関係者のもとに数多く寄せられた。闘病中のテンポイントに届けられた千羽鶴は5万羽にのぼった。レースにおける人気をみると、テンポイントは出走した18レースのうち14レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。1977年の天皇賞(春)では単枠指定制度の適用を受けている。競馬ファンからは、1980年に日本中央競馬会がカレンダーを製作するにあたり実施した“アイドルホース”の投票で第1位に選ばれた。また、2000年に実施された「20世紀の名馬大投票」では第14位に支持されている(第1位はナリタブライアン)。競馬関係者からは、雑誌「Number」(1999年10月号)が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」で第7位に(第1位はシンザン)、競馬関係者に著名人を含めたアンケートでは雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行ったアンケートの「最強馬部門」で第8位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第1位に選出されている。馬名の由来は、当時新聞の本文活字が 8ポイントであったことから、10ポイントの活字で報道されるような馬になって欲しいという願いを込めてと名付けられたものである。当初はボクシングのテンカウントが由来だと誤解されていた。テンポイントは前述の額の流星と美しい栗毛の馬体から「流星の貴公子」の愛称で呼ばれた。また祖母のクモワカが馬伝染性貧血と診断され殺処分されかけたことから「亡霊の孫」と呼ばれることもあった。父のコントライト、母のワカクモについてはそれぞれの項目を参照。ファミリーラインは下総御料牧場の基礎輸入牝馬の一頭である星若 (Ima Baby) を起点とする由緒あるもので、3代母・月丘(エレギヤラトマス)は帝室御賞典など13勝を挙げた。祖母・クモワカと母ワカクモはともに競走馬として11勝を挙げた。テンポイントの勝利数も11であった事実から、11勝はクモワカの一族にまつわる特異な数字として語られることがある。

出典:wikipedia

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