いしかわ じゅん(本名:石川 潤、1951年2月15日 - )は、日本の漫画家、小説家、漫画評論家。漫画家の藤臣柊子は元妻。。他に日本SF作家クラブ会員。愛知県豊田市出身。愛知県立豊田西高等学校、明治大学商学部卒。在学中に漫画研究会に所属し、先輩として三学年上にかわぐちかいじ、二学年上にほんまりうがいた。また、山田詠美も漫研の後輩で、すでにプロになっていたいしかわは、当時は漫画家志望だった彼女を、高取英編集長の『漫画エロジェニカ』に紹介して漫画家デビューさせた。大学卒業後、1975年、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に入社し豊田市へ帰る。生産管理部に配属されるが、翌年2月に退社。再度上京して、吉祥寺に住む。同年8月に漫画家としてデビューする。ギャグ漫画と恋愛漫画、業界物漫画などを得意とする。また、漫画評論、エッセイ、小説なども発表している。NHK-BS2で不定期放送中の『BSマンガ夜話』レギュラーメンバー。近年は、この番組への出演と、パソコン・エッセイ『だってサルなんだもん』で知られる。アシスタント出身の漫画家に原律子、はだみちとし、若林健次、中村光信などがいる。またアシスタントではないものの内田春菊の漫画家デビューを助けており、その経緯は実録漫画「フロムK」に詳しい。宮西計三も一時、いしかわのアシスタントをしていた時がある。学生時代の1972年から吉祥寺に在住し、仕事場も吉祥寺。若い時代は、伝説の飲み屋兼ライブハウス、「ぐゎらん堂」の常連でもあり、高田渡らとも交際があった。また、国分寺の「ほんやら洞」にもしばしば通い、店長の中山ラビと親しくなり、『蘭丸ロック』の主人公のいきつけの店の店主のモデルにしている。。そこで知り合った、マディ上原と原律子は結婚したが後に離婚している。プロレス好きとしても知られる。また、沖縄が好きで、しばしば沖縄を訪れて、趣味のダイビングをしている。那覇に「支店」と称する、仕事場兼の別荘も所有している。歯に衣着せぬ物言いが多いことでも知られ、。月刊誌WiLLにコラム『判決!』を連載しており、。現在の活動は漫画評論を中心とした文筆業が中心となっている。『野性時代』などでの小説執筆、『週刊宝石』での漫画評論など、文筆業は余技として始まっている。その後、漫画批評やコラムの依頼が増えていき、漫画家としての活動は徐々に縮小していった。1995年には、さまざまな雑誌に掲載された漫画評論を再構成した『漫画の時間』(晶文社)を上梓。。1996年放送開始のNHK-BS2『BSマンガ夜話』に、パネラーの一人として出演。2008年には『漫画の時間』の続編にあたる漫画評論集『漫画ノート』を上梓。また、手塚治虫文化賞選考委員を第1回(1997年)から第12回(2008年)までつとめた。基本的にはギャグ漫画であり、ページ数の少ない埋め草的作品が多い。下ネタも好きである。初期の活躍は主として二流ないし三流劇画誌である。三流劇画ムーブメントの際には『劇画エロジェニカ』に「憂国」を連載し、ギャグ漫画のスタイルのままにシリアスな長編を書いた。その流れの延長に『週刊ヤングマガジン』というメジャー誌に連載した「約束の地」がある。三流劇画誌卒業後は漫画雑誌よりも一般週刊誌など活字媒体でのコラムや小説の挿絵描き含む活動が主となった。文筆業へのシフトが始まったのも掲載誌の人脈によるものである。大森望は吉祥寺探偵局の文庫版の解説を書き、小説家としてのいしかわじゅんを、高く評価した。業界物漫画『フロムK』は、本人は「エッセイ漫画の先駆」として自負があり、1980年代の「エッセイ漫画」というジャンル誕生にあたって、夏目房之介、まついなつき、内田春菊、さくらももこ、西原理恵子らと共に大きな役割を果たした。なお『フロムK』を執筆していたころは超能力を信じており、超能力を信じないSF作家の川又千秋と論争になっていた。1970年代は、吾妻ひでおとファン層がかさなっており、作品内で吾妻ひでおと「抗争」があった。吾妻の作品『ななこSOS』には、石川をモデルにした“Dr.石川”というキャラクターが登場している。いしかわは自作の人物は足がごく小さいことから吾妻作品について「足の大きさは醜いと言ってもいいくらいだ」と書き、吾妻は「月並みでない、臭くないギャグ」と評した。この状況を手塚治虫が自作『七色いんこ』でパロディにしており、いしかわ扮するヒゲを生やしたPTA会長の女性が吾妻扮する校長先生とキスを交わし結婚するというエピソードを描いた。いしかわ曰く、「吾妻との仲は全然悪くなかった」いしかわと吾妻は高信太郎によって、「リトル・メジャー」(いしかわ)、「ビッグ・マイナー」(吾妻)と評された。『漫画ノート』に収録されている、『失踪日記』発表後の吾妻ひでおへのインタビューで、自身も「デビュー10年目ごろに、ギャグ漫画を描き続けることに行き詰まり」、仕事を整理して、香港やロンドンを数カ月訪問、その後、1年半ほど仕事をしなかったと、語っている。また、漫画原作者の関川夏央や狩撫麻礼とも、1970年代から1980年代にかけて交流があり、関川は「セキカワ教授」「山道山」など多数のキャラで、狩撫は坂口安吾の作品のキャラクターを元ネタとする「風博士」として、いしかわの漫画に登場していた。だが、エッセイ漫画「フロムK」で、狩撫を「漫画業界のパーティでは(自分の漫画の)風博士の真似をする」「パーティでは、かならず途中で機嫌を悪くして帰ってしまう。パーティが嫌いなら最初から来なければいいのに」と描写したのが狩撫の意に沿わず、その返答として狩撫が原作を担当する同じ雑誌掲載の「ボーダー」に、いしかわと関川を揶揄したエピソードが90話で描かれた。これに関川が激高し、正式に漫画アクション編集部に抗議したため、いしかわも態度を鮮明にせざるを得なくなり、関川を支持することとなる。結局、この件に関しては、漫画アクション編集部と狩撫、さらには作画担当であったたなか亜希夫までが同誌に謝罪文を掲載することとなり、こうした事情により単行本には収録されていない。後年、この件に関していしかわは、「狩撫はよくある楽屋落ちの冗談のつもりだったのだろうが、もともとあまりギャグのセンスがなかったこともあって、下劣で醜悪な物になってしまった」、「誰か(編集部、あるいは作画担当だったたなか亜希夫)が止めるべきだったのに誰も止めなかった」「関川が激高したことは理解出来るし、どちらを支持するかと言えば関川を支持することになる」、「とにかく悲しい出来事であり、あまり思い返したくない」と語り、暗に関川を巻き込まなければ、適当なところで手打になったであろうという意味のことも書いている。このことによりいしかわと狩撫との関係は悪化し、予定されていたコンビによる連載が中止になったという。さらに、関川と狩撫は完全に絶縁状態になった。関川との関係はその後も良好であり、後に撤回されているが『BSマンガ夜話』が局側の意向により一旦終了が決まった際、、関川が原作を担当した『事件屋稼業』を取り上げている。また、この放送回は、批評される当事者の関川自身がゲスト出演した。いしかわが友人とスキー旅行に出かけたところ、乗っていった車が動かなくなってしまった。そこで、ビッグホリデー社のスキーバスで帰ることにしたところ、途中でトイレ休憩に降りた際、バスが彼等を置き去りにして出発していた。吹雪の中必死で、自力でそのバスに追いついたが、スキーバス側からは謝罪の言葉もなかった。その体験を、会社名を明示の上、当時連載していた「フロムK」に「オレは2度とビッグホリデーなんか利用しねーからなっ!! バカヤロー!!」というセリフを入れて描いたところ、内容証明郵便がビッグホリデーから届き、「バカヤロー」というセリフに対して謝罪するよう求められ、応じなかったため名誉毀損で民事提訴された。結果は和解となったが、いしかわ側に得はなく、弁護士料200万円を費やしたのみであった。この裁判の経緯は、いくつかの雑誌で連載したが、連載する雑誌がことごとく廃刊になるなどした後、ようやく刊行された著書『鉄槌!』に、まとめられている。1990年にメガネスーパーが設立したプロレス団体SWSに対し、週刊プロレスは「金権プロレス」と揶揄し批判記事を展開していた。それに対しいしかわは「記事が偏向ぎみで、正しいジャーナリズムやマスコミの姿勢とは思えない」と自身の作品で批判した。この批判に対し、週プロの編集者であった鈴木健が誌面で反論すると、会場内でいしかわに顎を掴んで凄まれるという事件が起きた。これにより、同誌面での論争に発展していくこととなる。いしかわは週プロ誌面に「卑怯者の君たちへ答える」と題した文章を寄稿するも、当時の編集長であったターザン山本はこれに対し論理的な回答を示せず一方的に議論を終結、いしかわもそれ以上に深追いすることもなく、そのまま論争はフェードアウトしていく形となった。この論争については、エンターブレインより刊行された『生前追悼ターザン山本!』にて、いしかわの口から詳しく語られている。
出典:wikipedia
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