国民協同党(こくみんきょうどうとう)は、戦後に結成された中間・中道派を代表する政党の一つ。昭和22年(1947年)3月8日、協同民主党42名、国民党32名、無所属クラブ4名の計78名によって結成された。常任委員会議長に岡田勢一、書記長に三木武夫、政務調査会長に船田享二(船田中の弟でローマ法研究の権威)を選び、資本主義、社会主義に対する第三の道としての協同組合主義を綱領に掲げた。その他、綱領には議会主義・人道主義、政策大綱として中央集権の排除、農山漁村の近代化などを掲げたが、党の総体は保守的な傾向が強かった。同年4月の総選挙で衆議院31議席、参議院10議席を獲得し、結成時よりは議席を減らしたもの中間勢力として、政局のキャスティング・ボートを握る形となり、片山内閣では逓信大臣に三木武夫、国務大臣に笹森順造代議士会長を、芦田均内閣に運輸大臣に岡田勢一、国務大臣に船田享二をそれぞれ閣僚に送り、与党として連立政権を組んだ。参議院では、国協党籍を持ったまま緑風会に入る形で事実上の統一会派を組んだ(ただし会派名は単に「緑風会」)。しかし、緑風会入会の条件として、不偏不党を謳った緑風会にふさわしい行動をするとした約束に反し、会内に独自のクラブを作っただけでなく、絶えず党と連絡を取り続けた。その結果、緑風会側から国協党離党か緑風会退会かの二者択一を迫られた。結局、2名は正式に緑風会に移籍し、残りの8名は国協党に留まって統一会派を解消し、会派名を「新政クラブ」とした。1948年7月「中央連盟」を提唱し中道政治勢力の結集を目指したが、1949年1月の総選挙で衆議院14議席を確保するに留まり、以後勢力は衰え院内交渉団体・新政治協議会に加わり活動したが、1950年4月28日、民主党野党派と合同して、国民民主党を結成した。
出典:wikipedia
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