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スター誕生!

『スター誕生!』(スターたんじょう!)は、1971年10月3日 - 1983年9月25日の12年間に亘って放送された、日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。619回放送。略称は『スタ誕』(スタたん)。放送日時は、日曜11:00 - 11:55。1982年4月4日以降は、放送時間が『NNN昼のニュース』の時間繰り上げに伴い11:00 - 11:45に短縮された。また、一部地域では放送日時が異なっていた。1982年まで年末年始も通常通り放送されたが、1978年からは『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』放送時には休止となった。番組の企画者は審査員の一人でもある阿久悠で、番組名の名付け親はチーフプロデューサーの池田文雄である。明日のスターを夢見る人のための正統派のオーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。同じネット局のよみうりテレビ『全日本歌謡選手権』(『スタ誕』より先に番組開始)や、兄弟番組である日本テレビ『お笑いスター誕生!!』と共にまさに実力勝負が要求された。初回の視聴率は4.7%。1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした。この番組でデビューしたタレントの活躍は、芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所・渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失ったのは、ホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーが力をつけたためであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの番組だった。ただ、前身番組である『ホイホイ・ミュージック・スクール』、『あなた出番です!』では渡辺プロと蜜月関係にあり、直前の前身番組『スターへばく進!!』の出身タレントであり、渡辺プロ所属のザ・シュークリームがスタ誕最初期のアシスタントを務めた。また、初期のゲストも渡辺プロ所属のタレント達が出演していた。韓国で開催された予選にも当時渡辺プロ所属だった森進一がゲストとして出演した。第6回決戦大会頃までは番組に関わっていたようである。やがて、これに対抗するため渡辺プロは1973年より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送を開始する。ところが『あなたならOK!』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビが渡辺プロの歌手も出演していた『紅白歌のベストテン』を放送していたため、渡辺プロは『紅白歌のベストテン』からの撤退を決定。しかも渡辺プロの渡辺晋社長が日本テレビの井原高忠に「ウチのタレントが欲しいなら『紅白歌のベストテン』の放送日を変えたら?」と発言したことから、テレビの芸能史上に残る日本テレビと渡辺プロの間での戦争が起こった。しかし『あなたならOK』は視聴率に恵まれる事なく、結果は失敗に終わった。前述のホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーなど新興プロダクションへの当番組からのタレントの優先供給も、この時に日本テレビが、渡辺プロ包囲網を敷くために各プロダクションへ協力を要請したその見返りとして実現したものであった。その後、渡辺プロは第38回決戦大会の前後ぐらいから番組には再び関わりはじめ、最終的に『スタ誕』から、松本明子をデビューさせた。番組終了後『スタ誕』復活を望む声があった。しかし、中三トリオを仕掛けた堀威夫(ホリプロ創業者、現・ファウンダー最高顧問)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから、昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。今は高い金を出して、並んででも美味しいものを求める時代だから、もう最大公約数を求めるテレビは、スターを作る番組は作れないだろう。」と語っていた。出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500-1000人に絞り、百貨店・そごうの有楽町店が入っていた読売会館の7階のよみうりホールで予選会を開いていた。このため、日曜日のそごうの階段は、応募者の長蛇の列であふれ返っていた。なお、よみうりホールが他興行やメンテナンスで使用できない場合は、日本テレビ四番町ビルで、地方で公開収録を実施する場合は、放送している系列局から告知を出していた。応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のピアノの伴奏で歌う。レギュラーの審査員は直接出向かず、テレビ予選の歌唱楽曲の編曲者である高見弘や番組のプロデューサーなどが審査をしていた。一次審査は、応募者は楽曲から好きな部分を四小節選び歌う。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったらブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査では30人に絞られていく。どちらも失格者はその場で退場となる。最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビ予選への進出者が決定する。その人数は当初は14人だったが、時期により変動がある。詳しくは次の「テレビ予選と審査方法」の欄を参照。司会者の変遷により異なっていた。テレビ予選に出場できるのは1回7人(組)まで。両代とも末期は5人に削減され(萩本時代は1978年1月8日から降板までの2年3ヶ月、谷&タモリ時代は最後の1クール(1981年1月11日 - 3月15日))、予選会の二次→最終審査は20人→10人だった。アシスタントの紹介ナレーションと共に予選通過者が入場、電動昇降のスタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁の電光掲示板があるセットが映される。舞台の下手(左側)に位置し、7人時は下段が1-4番で上段が5-7番、5人時は並列であった。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。得点は会場500点、プロは1人につき100点で計500点の1000点満点で、規定の点数に達すれば合格。その点数は7人時250点、5人時は300点。規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。最初に司会者が「まずは、会場の500点から、どうぞっ!!」と言い、会場から手元のスイッチで“投票”。その際にはファンファーレが鳴る。ボード上の数字は水色(初期は豆電球=ドット式)で回転。まれに会場の審査段階で合格者が出ることもある。石野真子(大阪大会=豊中市民会館:テレビ放送日1977年2月13日)は、会場からの得点だけで合格ラインを超える280点を記録し、阿久悠らプロ審査員を驚かせた。石野は最終得点が530点になり1000点の過半数を独占した。ちなみに番組史上最高得点は桜田淳子の573点(秋田大会=秋田県民会館:テレビ放送日1972年8月6日)。この得点審査中、合格者が出た場合は外周の赤い豆電球が時計回りに回転する。合格者が出なかった場合は(出た場合でも)、緊迫感のあるドラムロールをバックに、司会者が「トップは○番の○点、その次は○番の○点」とアナウンスする。続いて、司会者が「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!どうぞっ!!」と言い、緊迫感のあるドラムロールの音が鳴り続けながら(その際にはクラッシュシンバルを叩いて合図する)プロの点数が加算される。数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球は回転し続けたままである。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字はブラウン管と同じ原理で赤に変わり、目の前のパトライトが回転して合格を知らせる。得点ボードが赤く付き、パトライトが回転して合格した瞬間、生バンドによるファンファーレが鳴り、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格です!!」とど迫力ある張りのある声と大絶叫で言う。さらに「合格!!おめでとう!!○番(画面では○の中に数字) ○○サン(クン)」の字幕スーパーが出る(坂本時代、きよし単独時代も同様)。一度、萩本時代に『全国縦断選手権』というものが行われ、日本国内数箇所で予選を行い、それぞれの合格者が決勝に臨んだ(通常の決戦大会は行われなかった)。優勝者はデビューはしなかった。他の出場者はその次の決戦大会に出場したが、スカウトのプラカードは誰にもあがらなかった。その中の一人に、後に『君こそスターだ!』でグランドチャンピオンになった、古賀栄子がいた。谷&タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた。舞台の中央(バンドボックス)左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示(クロマキー)を出していた。合格者は、日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)の入学案内書と副賞の奨学金が贈られ、紺色のブレザーコートが羽織られる。最後はバンザイをして締めくくり、エンディングとなった。また、挑戦者全員には、スポンサーからの参加賞がプレゼントされる。ただし全スポンサー6社(資生堂・江崎グリコ・アサヒビール〈現・アサヒ飲料〉・浅田飴・ナス・救心製薬・シャンソン化粧品・グロリア魔法瓶・ジャノメミシンほか)の内、その中の3社→残りの3社という風に週毎に参加賞が変わっていた(すなわち全社から出る事はなかった)。番組後年(きよし単独時代後期から)、1分スポンサーが縮小した為、毎週固定スポンサーの賞品となった。全員失格だった場合はエンディングの際、萩本時代は「バンザーイ、無しよ!」とポーズをとって締めくくった。これも萩本のギャグのひとつになった。なお、谷&タモリ時代は「ゴメン!」の一言だけ、坂本時代は「残念!」の一言だけだった。テレビ予選は1回8人まで。予選会の二次→最終審査は30人→16人。二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する。持ち点は各自1点。点数の高い者がパート2へ進む。その人数は当初は5人、途中から4人に削減。パート2はハンドマイクで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける。歌う曲目はパート1と異なる。結果発表の時、舞台に挑戦者が座っている巨大なデジタル式の電光掲示板が登場。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。緊迫感のあるドラムロールが流れながら、坂本が「○○先生、得点(または点数)どうぞーっ!!」と言う。そしてファンファーレが流れる中、審査員の似顔絵が描かれたランプが点灯して点数が表示される。持ち点は審査員1人につき60点が基準で、クリアすれば赤い豆電球が回転。5人の合計が300点に達すれば合格で、豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転し、生バンドによるファンファーレが鳴り、坂本が「○番、○点!!おめでとうー!!」と初代の萩本時代、2代目の谷&タモリ同様、ど迫力ある張りのある声と大絶叫で言う。中森明菜はこの時代、予選3回目の挑戦で合格(関東大会=後楽園ホール。テレビ放送日1981年8月2日)。点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田敏江:63、中村泰士:99の合計392点。この形式での史上最高得点である。中村は本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした。合格者には中規模のトロフィーが授与された。初代の萩本時代から、決戦大会の最優秀賞獲得者にゴールデントロフィーを授与していたが、通常でもトロフィーが登場するようになったのはこの頃が初めてである。同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。司会者のマイクもマイクキャップ付きのマイクになり、坂本は灰色、石野は赤色のマイクキャップだった(坂本は前期の番組前半はネクタイピンマイクを装着して進行していた)。その後、4代目のきよしは灰色、やすしは茶色のマイクキャップだった(場合によっては変則的にマイクキャップの色も異なった回もある)。なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロのタレントであり、彼を司会に起用したことについて日テレが渡辺プロとの和解を模索したと評されている。EDは、合格者・不合格者が前向きに頑張って貰いたいという願いから、「上を向いて歩こう」が使用され、坂本本人が歌っていた。また、石野は同番組の第20回決戦大会でスカウトされ、歌手デビューから3年後の司会起用であった。テレビ予選は1回6人(予選会の二次→最終審査は20人→12人)、放送時間短縮後は5人が登場。一人1曲歌う(スタンドマイクの前に立って。決戦大会ではハンドマイク)。審査時には坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場、挑戦者も座っている。緊迫感のあるティンパニロールが鳴り、星の形の10個の電光ランプが8個以上点灯すると合格となり、決戦大会に進出となる。決戦大会の選考方法が違うので、決戦大会の項目を参照。テレビ予選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進出となった。しかし、やすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。詳しくは決戦大会の項目を参照。また、このやすきよの代から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。「全国選抜歌の選手権」のサブタイトルがついた。ルールも大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。一人1曲歌い、即座に審査結果が発表される。5人の審査員の合計が350点(持ち点は1人につき70点が基準)をクリアすると次の週に進んだ。そして7週連続勝ち抜くとグランドチャンピオンとなり、天井から大量の紙吹雪が降り(紙テープと風船は入っていなかった)、審査員から賞状とゴールデントロフィーが授与された。この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出て来た。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた。グランドチャンピオン達成の瞬間、「おめでとう!!グランドチャンピオン!!」の字幕スーパーが大きく出た。表彰の際には「1週目『○○(曲目)』×××点…」というように全ての歌った曲目と獲得点数の字幕ロールが出る。この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなくなり、プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も出場していた。1クール(3ヶ月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のスカウトマンを集めて行われた。通常通り1人1曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問した。なお萩本時代のみ、萩本が所属している浅井企画が参加し、毎回珍妙な質問を行っていた。坂本時代までは、全ての出場者が歌い終わった後、バンドの左側に決戦大会専用の「お立ち台」が設けられ、結果発表となった。出場者が一人ずつお立ち台に出て、それぞれがスカウトマンに対しスカウトしてくれるようにアピールした。「○番、○○です。一生懸命歌いました。よろしくお願いいたします!!」というフレーズは、多くの挑戦者が口にした。スカウトマンの中には、元ザ・タイガースのタローや元ヴィレッジシンガーズのヴォーカルの清水道夫、ビクターレコードでの飯田久彦などがいた。司会者の「どうぞー!!」の合図と、緊迫感のあるドラムロールが鳴り、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを揚げた。特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよー!」という台詞もよく出た。プラカードが揚がった瞬間、ファンファーレが鳴り、司会者が「揚がりましたーっ!!おめでとうございまーすっ!!」と張りのある声と、ど迫力ある大絶叫で言っていた。規則では、1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留、あるいは失格となった(事務所のみ、あるいはレコード会社のみ等は組み合わせに時間がかかり調整した)。もちろん1社からも指名されずに涙を呑んだ挑戦者もいた。そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表された。この方法は“人買い”との批判もあったが、チーフプロデューサーの池田文雄はこれについて、「あれは素人に芸能界の厳しさを教えたかったから」とインタビューで語っている。その他、最優秀賞の次に優秀だった合格者に「審査員特別賞」が、まれに失格者の中から1人、審査員の裁量で次の決戦大会への挑戦権が優先的に与えられる「審査員奨励賞」が発表された。12年間の最高指名社数は、桜田淳子の25社。その他では山口百恵、新沼謙治に対して20社、黒木真由美-18社、渋谷哲平-18社、伊藤咲子-17社、石野真子-16社、清水由貴子-14社、森昌子-13社、中森明菜-11社、岩崎宏美-8社、ピンク・レディー-8社、岡田有希子-4社、柏原芳恵-3社、小泉今日子-3社、等。最少指名社数1社の合格者には、日本フォノグラムのみにスカウトされた神保美喜、渡辺プロダクションのみにスカウトされた松本明子などがいる。現存する番組の一番古い映像は、桜田淳子の秋田県テレビ予選出場者の選考会フィルム。森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会の映像は残されていない。音声のみのテープと写真が存在するだけである。決戦大会で山口百恵は、東宝レコードスカウトマンの「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答した。きよし単独時代の決戦大会は、スカウトマンが2名までスカウトして投票する形式で、投票後に即集計された。結果発表では挑戦者が「おめでとう!(会社名)以上○(数字)社が貴方をスカウトしました。」と書かれた紙が入った封筒を持って待っていた。その後挑戦者が一人ずつ最前列に立って開封、獲得意思のある会社名が書かれていたら合格となり、「ありました」または「受かりました」などと言った。ファンファーレが鳴り、「おめでとう!○○××さん」というテロップが出る中、天井から大量の紙吹雪が降り(この時期から紙吹雪の演出を始める)、トロフィーが授与された。逆に書かれていなかったら失格となり、「ありませんでした」または「受かりませんでした」と言って退場した。この方式でスカウトされたのは、吹田明日香、松尾久美子、松本明子である。やすきよ時代の決戦大会は、1982年12月19日・26日の2週に亘って行われた。事実上準決勝となるパート1は全合格者が一人1曲歌い、事実上決勝となるパート2に進める10人が選ばれた。パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問。そして萩本・谷&タモリ・坂本時代と同様に、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかけた。スカウトされたらきよし単独時代同様、「おめでとう!○○××さん」というテロップが出る中、天井から大量の紙吹雪が降り、トロフィーが授与された。この方式でスカウトされたのは、岡田有希子(この回のみTVのOAはなし)、太田貴子、高橋美枝である。この番組は歌手デビューがメインのオーディション番組だったが、決戦大会でプラカードが挙がってもデビュー出来なかった合格者、歌手以外の芸能人でデビューして有名になった挑戦者は数多くいる。10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、15回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。逆に決戦大会では失格になったものの、別口でスカウトされてデビュー、有名になったケースもある。例えば、全日本女子プロレスから女子プロレスラーとしてデビューしたマッハ文朱、決戦大会当日は指名しなかったボンドより翌年原宿でスカウトされデビューした本田美奈子、後にヤマハPOPCONでグランプリを獲得しデビューした本田美緒など。挑戦者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全挑戦者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた。特に萩本司会時代が知られ、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーと呼ばれており、「こっちむいてホイ!」「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」「フルーツバスケット」「古今東西」「あなたにお名前差し上げます」等の数多くのゲームが生まれた。またリンリン・ランランが加入後は、「振りまねコーナー」といって、リンリン・ランランやピンク・レディーのヒットソングの振りまねをやる事が有った。このコーナーから、黒部幸英(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、西山浩司らがブレイクし、いずれも萩本にスカウトされた。コーナー冒頭でアシスタントの井上れい子が「審査の集計が出るまで、欽ちゃんと一緒に遊びましょうね!」と言っていた。さらに萩本はこのコーナーの企画を手掛けていた。また、谷&タモリ時代にも、タモリのみ出演だが同様のコーナーが行われていた。さらにきよし単独時代にも「仲よしきよし」のコーナーがあった。決戦大会の合格者が出演し、萩本ら司会者やアシスタントの井上れい子の問いかけに答える形で報告する「スタ誕情報局」コーナーも設けられた。合格者の大半は、芸名とデビューの予定月日を告知する。その芸名は時によっては一般公募する事もあったが、せっかく公募しても採用されずに、本名が芸名になる事もしばしばあった(桜田淳子、山口百恵、伊藤咲子など)。また、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。デビュー曲発売一週目前から四週にわたりタイトルと歌手名のオブジェを客席に設けステージセットとして使い、新人歌手を大々的にアピールした。最終週はメインステージに移り、生バンドの前で歌を披露した。後年は歌手サイドの意向により様々な演出があった。原則として毎月2回、東京都内にある後楽園ホールで2週分収録して、一般観覧客を招いて行なわれた。後楽園ホールがプロレスやプロボクシングなどの他興行や、メンテナンスで使用できない場合は、調布グリーンホールなど、郊外の公会堂を使用していた。また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。現地の日系人が出場してハワイ大会も行われた。1975年の沖縄海洋博会場からも公録が行われた。また、きよし単独時代はキャンプ形式で1度だけ山中湖のキャンプ場でロケを行い放送した。(合格した時期が早い順番から)(1980年時点のもの。萩本が降板する頃)なお、地方収録の場合は各ネット局が制作・技術協力として参加した。

出典:wikipedia

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