『羅生門』(らしょうもん)は、1950年(昭和25年)8月26日に公開された日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬。モノクロ、スタンダード、88分。芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある殺人事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限に映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。日本映画初となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』などがある。平安時代。打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も乱れて荒れ果てた京の都。雨が降る中で羅生門に下人がやって来る。雨宿りのためであったが、そこに杣売りと旅法師が放心状態で座り込んでいた。下人は退屈しのぎに、二人が関わりを持つことになった事件の顛末を聞くと、二人は3日前に起こった恐ろしくも奇妙な事件を語り始める。ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、侍・金沢武弘の死体を発見した。そのそばには、「市女笠」、踏みにじられた「侍烏帽子」、切られた「縄」、そして「赤地織の守袋」が落ちており、またそこにあるはずの金沢の「太刀」と妻の「短刀」がなくなっていた。杣売りは検非違使に届け出た。旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された侍が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。やがて、侍を殺した下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は女を奪うため、侍を木に縛りつけ、女を手籠めにしたが、その後に女が「自分の恥を二人に見せたのは死ぬより辛いから、どちらか死んでくれ、生き残った方のものとなる」と言ったため、侍と一対一の決闘をして勝った。しかし、その間に女は逃げてしまったと証言した。短刀の行方は知らないという。しばらくして、生き残っていた武弘の妻・真砂が検非違使に連れて来られた。真砂によると、男に身体を許した後、男は夫を殺さずに逃げたという。だが、眼の前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、思わず我を忘れて自分を殺すよう夫に訴えたが、余りの辛さに意識を失い、やがて気がついた時には、夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。そして、夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。巫女を通じて夫・武弘の霊は、妻・真砂は多襄丸に辱められた後、多襄丸に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように彼に言ったのだという。そして、これを聞いた多襄丸は激昂し、女を生かすか殺すか夫のお前が決めていいと言ってきたのだという。しかし、それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したという。それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えて、杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、浅はかなものであった。伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。1949年(昭和24年)、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であったが、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した。当時黒澤は、東宝争議の影響で成瀬巳喜男、山本嘉次郎、本木荘二郎らと共に映画芸術協会を設立してフリーとなっていたが、同協会は大映と契約を結んでいたこともあり、同社で製作交渉を行った。しかし、大映はこの難解な作品の映画化に首をひねったため、黒澤は社長の永田雅一に「セット一杯で出来る」と説得してようやく企画が了承された。撮影は大映京都撮影所で行われた。その撮影所前の広場に原寸大の「羅生門」のオープンセットを建設した。このセットは間口18間(約33メートル)、奥行12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。さらに門の右側を大きく崩し、荒廃した姿を再現した。完成された門はとても巨大なものになり、黒澤も「私もあんな大きなものを建てる気はなかった」と語っている。大映重役の川口松太郎も「黒さんには一杯食わされたよ」と愚痴っている。門の扁額は縦1メートル20センチ、横2メートル15センチの大きさで、字は書家の宇野正太郎によるもの。この門以外に作られたセットは検非違使の白洲のみで、森のシーンは奈良奥山の原生林と光明寺の森でロケーション撮影された。冒頭の雨のシーンでは、モノクロカメラで迫力のある雨の映像を撮るために、水に墨をまぜてホースで降らせたという。このやり方は『七人の侍』の豪雨の中の合戦シーンでも用いている。出演者は黒澤映画常連の三船敏郎、志村喬、千秋実らに京マチ子、森雅之、上田吉二郎、端役に加東大介、本間文子の8人のみである。ヒロインの真砂役は当初、原節子でいくつもりだったが、京がこの役を熱望して眉毛を剃ってオーディションに臨んだため、京の熱意を黒澤が買い、京に決まったという。完成間際の1950年(昭和25年)8月21日、アフレコ収録中に撮影所が出火し、オリジナルネガは無事だったが、一部の音ネガが消失。さらにその翌日には映写機でのテスト中に再び炎が上がり、フィルムから放出された毒ガスにより30人ほどのスタッフが病床につくというアクシデントが起きてしまう。試写会は8月25日の予定だが、黒澤は残り2日間で録音作業を行い、なんとか試写会に間に合わせている。8月25日、大映本社4階で試写会が行われた。しかし、試写を見ていた永田社長は「こんな映画、訳分からん」と憤慨し、途中で席を立ってしまった。さらに永田は総務部長を北海道に左遷し、企画者の本木荘二郎をクビにさせている。この翌日8月26日に本作は公開されたが、難解な作品だということもあり、国内での評価はまさに不評で、この年のキネマ旬報ベストテンでも第5位にランクインされる程度だった。興行収入も黒澤作品にしては少ない数字であった。同年末、ヴェネツィア国際映画祭とカンヌ国際映画祭から日本に出品招請状が送られた。先に行われるカンヌ国際映画祭の候補作を選ぶため、各映画会社からお勧めの作品を選ぶこととなり、大映からは吉村公三郎の『偽れる盛装』と『羅生門』を選出した。その中から関係者による投票を行い、上位2作品『また逢う日まで』と『羅生門』が候補作として選ばれた。しかし、『また逢う日まで』は製作会社の東宝が争議の影響で出品費用が捻出できないため辞退、『羅生門』が残るも、こちらも辞退してしまっている。そんな中、イタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリは、ヴェネツィア国際映画祭の依頼で日本の出品作を探すこととなったが、何本と候補作を見ているとその一本である『羅生門』を観て感激し出品作に決めたが、大映側がこれに反対。そこでストラミジョリは自費で英語字幕をつけて映画祭に送った。当時、大映の重役をはじめほとんどの人々が作品の受賞を期待していなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で上映されるや否や大絶賛され、1951年(昭和26年)9月10日に金獅子賞を獲得したのである。しかし、日本人の製作関係者は誰一人も映画祭に参加していなかったため、急きょ町を歩いていたベトナム人の男性が代わりにトロフィーを受け取ることになった。この姿は写真報道され、この無関係のベトナム人が黒澤本人であるとの誤解を招いたこともあった。永田は受賞の報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返し、「訳分からん」と批判していたにもかかわらず、手のひらを返したように大絶賛し始め、自分の手柄のように語った。人はそんな永田の態度を「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄した。黒澤も後年このことを回想し、「まるで『羅生門』の映画そのものだ」と評している。その後の大映は娯楽映画路線から芸術的大作映画路線へと転じ、吉村公三郎の『源氏物語』、溝口健二の『雨月物語』『山椒大夫』、衣笠貞之助の『地獄門』といった同社作品が次々と海外映画祭で受賞している。黒澤明は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、受賞のことは妻の報告で初めて知ったという。後に開かれた受賞祝賀会で黒澤は次の発言をしている。1951年度の第24回アカデミー賞では日本映画初の名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞。翌1952年(昭和27年)度の第25回アカデミー賞では、美術監督賞(白黒部門)にノミネートされ、この授賞式には淀川長治が出席した。『羅生門』のグランプリ受賞は、当時まだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた日本人に、古橋廣之進が競泳で世界最高記録を樹立したことと、湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したことと共に、現代では想像も出来ぬ程の希望と光明を与えた。この受賞により黒澤明監督と日本映画は世界で評価されていき、日本映画も黄金期へと入っていった。本映画は現在に至っても国内外で高く評価され、映画批評家を対象にした過去作品のランキング等に載っている。以下は海外でのランキング受賞ノミネート下人役の上田吉二郎は、本作のグランプリ受賞後、葉書半分大の大きな名刺を作り、「グランプリ受賞の羅生門出演、上田吉二郎」と印刷して話題をまいた。『暴行』"The Outrage" アメリカ映画 1964年、オリジナル版『羅生門』の権利を正式に買い、この脚本を元に、舞台をメキシコに置き換えて再映画化された。『ウモーン・パー・ムアン-羅生門』(U Mong Pa Meung、、英題:"The Outrage") タイ映画 2011年、オリジナル版『羅生門』の脚本をククリット・プラーモートが演劇用にタイ語に翻案した脚本を原作に、舞台を今から約500年前のタイに置き換えて映画化。また、1971年(昭和46年)に松竹で、当時俳優として売り出し中の三船史郎(三船敏郎の長男)の主演で、リメイク版『羅生門』の制作が発表されたが、準備中のまま完成には至らなかった。配役は次の予定であった。
出典:wikipedia
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