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キューバ

キューバ共和国(キューバきょうわこく、)、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島に位置するラテンアメリカの共和制国家である。島国であり、ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、ケイマン海峡を隔てて南にはケイマン諸島とジャマイカが、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国のフロリダ州が存在する。首都はハバナ。フィリピンのルソン島ほどの面積を持つ島国で地理的には北アメリカに含まれるが、広義の中央アメリカにも含まれる。「アメリカ合衆国の裏庭」と俗に呼ばれるが、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとラテンアメリカを結ぶ要路に位置している。また、アメリカ大陸で初めて成立した社会主義政権にちなみ、「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。正式名称はスペイン語で「」。通称「」。公式の英語表記は「」。通称「」。日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。漢字による当て字は、玖瑪、玖馬、久場、古巴など。スペイン語にちなんで「クーバ」と呼ぶ人もいる。国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカンが由来であるとされている。ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれ、インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第三の都市となったハバナには大学や要塞が建設された。19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどと共にわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると砂糖に加えて、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年余りにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年、1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。バティスタ傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソビエト連邦に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。1962年2月3日にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣してベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリに於けるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えてこのような平和的変革を支持した。1970年代に入り、チリ・クーデターを境にラテンアメリカの平和革命路線も失敗に終わってからは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法が制定され、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には52,000人の兵力を派遣した。1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦は共に膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いの後、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべくイカダ(バルサ)でアメリカ合衆国のフロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加し、亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に微妙な差異が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入った。深刻な経済衰退を受けて政府は私的所有や、国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に採り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。このような政策は功を奏してフィデル・カストロ政権は1990年代の最も困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行なわれた。連邦財務省の試算によれば、2002年に合法的にキューバを訪問したアメリカ人は約16万人で、うち半数はキューバ系アメリカ人、ほかに人権団体、教育関係者、ジャーナリスト、外交官など。それ以外に罰金・禁固刑のリスクをかえりみず、カナダ、メキシコ経由で違法にキューバ渡航する者も多いと財務省当局はみている。ロナルド・レーガン大統領の時代、罰則は罰金25万ドル・10年の懲役刑へと引き上げられている。渡航禁止が解除された場合、初年度の渡航者は100万人に達すると財務省は試算した。11月6日、アメリカ上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないというのがブッシュ政権の説明である。国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国は全て賛成で可決されてきた。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。アメリカが農産物を輸出する国として、2年前、キューバは第208位であったが現在は第35位を占めるまで急上昇している。また、かつては世界で有数の砂糖生産国であったキューバも、現在さとうきび畑の大部分を転作化、先頃開かれていたハバナでの国際貿易フェアで、アメリカからの参加者に砂糖の輸入を打診した。表向きは経済制裁を継続していたはずのビル・クリントン政権時代にハバナのアメリカ利益代表部は大改築を行ない、現在は巨大なビルへと変貌している。2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。2007年5月、テキサス州エル・パソの連邦地裁は、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放。2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)・閣僚評議会議長(首相)・軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では49,000人ほどの現役兵が常備兵として活動しており、その他に民兵組織などもある。最高司令官は、国家評議会議長が兼任。徴兵制度が存在し、17 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45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力38,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器は殆どがソ連製。正規軍の他に、青年労働軍(65,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値は全て2007年のもの)。1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交が無い状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年にアメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、2013年現在もグァンタナモ米軍基地が存在する。アメリカ政府は、カストロ政権を打倒し傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求め、1962年10月にキューバミサイル危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったがソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したと推測されている。1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた。しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダやローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した。以後、と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めている。1999年にベネズエラでウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビア、エクアドル、ニカラグアで左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にもローマ教皇フランシスコと共に両者の仲介を行った。ロシアとはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発にともないアメリカと共に対日宣戦を布告した。1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない、国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である。日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロが親日家であることに加え、日本人もキューバに対してはエキゾチックな好感を抱いており、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 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JAPANドームと札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動 (MRTA) のゲリラの亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある。)。キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。冷戦時代のキューバは1960年代の中ソ対立の中でソ連側に付いたこともあり、中国とは敵対関係にあった。ソ連崩壊以後は中国との関係は良好となった。歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、更に州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。住民はまず、次に、議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行なっている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島で一つの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州及びマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナで、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のはビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。その他の主要都市としては、主要な港湾都市及び工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所及び商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。(出典: 。ただし、マリアナオの数値のみはに依拠。)キューバの国土は長さ1250kmで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、及びに1600余りの小島と多島海から成る広大な群島によって構成されている。キューバは、フロリダ半島の南145km、ユカタン半島の東210kmに位置し、カリブ海及び大西洋とメキシコ湾を結ぶユカタン海峡及びフロリダ海峡を、国土の西部及び北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島と隔てられ、北東部はバハマ水域(ニコラス海峡、及びにオールドバハマ海峡)によってバハマ諸島、南部はケーマン海峡によってジャマイカ島及びケイマン諸島と隔てられている。キューバの国土は南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行う上で恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、バハマ、英領タークス・カイコス諸島、ハイチ共和国、ジャマイカ、イギリス領ケイマン諸島、メキシコが存在している。キューバの本島であるキューバ島は、西インド諸島に属するカリブ海で最大の島である。コロンブスの同島「発見」時にはスペイン王国の王族にちなんでフアナ島と命名されたが、後にキューバの呼び名が一般化し現在に至っている(キューバの由来は国名参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島」が浮かんでいる。キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1225km、南北の距離は最大250kmから最小35kmで平均値は80kmと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊は無い。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914m)、中央部にトリニダー山脈(標高1200m)、南東部にマエストラ山脈という3つの異なる山系がある。東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250kmに及んで連なっている。他の山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高2,005mのトゥルキーノ山は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、 北方海岸に繋がる山地との間にはカウト川流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅・マンガン・ニッケル・クロム・鉄鉱石・タングステンなど、地下資源が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形で、険しい石灰岩の山地・洞窟などが多く、ハバナ付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌で覆われており、肥沃で排水が良く栽植農業地として的合である。東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200m以下のなだらかな起伏の丘陵地や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により、島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流を為す小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240km)であり、マエストラ山脈を水源とし、グァンタナモ湾に流れ込む。この川は、キューバで最も長い川であり、下流の約100kmは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電にも利用されている。島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は、全長3735kmにもなる。海岸には約7万km²の大陸棚があり、海岸線には入江、湾、砂州やマングローブ林、サンゴ礁、湿地、大小の岬、半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は、北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。またグァンタナモ湾は、1903年以降現在にいたるまでアメリカのグァンタナモ米軍基地(南方軍管轄)が存在することで知られている。キューバの気候は亜熱帯性海洋気候で、ケッペンの気候区分では典型的な熱帯性サバナ気候に属する。年間の平均気温は摂氏25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。気温の較差が僅かなため、季節的な気候変化は主に降水量によって左右される。乾期は11月から4月、雨期は5月から10月である。年平均降水量は約1,400mmだが、トリニダー山地から「青年の島」にかけての地域では2,000mmに上り、マエストラ山脈以東の地域では1,000mmを下回り、グアンタナモが一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーンが襲来し、主に北西部地域に風水害を与える。キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている。キューバの国土は鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物はニッケル、クロム、銅、鉄、マンガンである。その他にも、硫黄、コバルト、黄鉄鉱、石膏、石綿、石油、石灰岩などが採掘されている。なお、地下資源は全て政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト鉄鉱石の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。キューバの伝統的な主要産物は、砂糖、ニッケル、海産物である。キューバ革命以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビの単一栽培(モノカルチャー)など、植民地的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産の約25%、総輸出額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の3/4がアメリカに輸出されていた。他にも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。革命以後、フィデル・カストロは農地改革と土地国有化を断行して計画経済を推進した。計画では、特に行政・サービス部門の増大が図られ、併せて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業の脆弱性を克服し、工業化を進めるために経済開発計画を推進した。そして、1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連依存度の増大などにより、経済成長は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万tに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バトン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨所持と使用の解禁、独立採算制の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4ヶ所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海沿岸国と自由貿易協定を締結した。他にも、観光・資源部門での外資誘致を積極化し、農業分野においてはモノカルチャーの砂糖生産依存から脱皮を図るべく、有機農業へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。だが、2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、更には2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断等により、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト)が発生したことが明らかとなった。現在でもキューバ経済の中心は砂糖で、基本的には砂糖のモノカルチャー経済から脱却することができていない。ただし、有機農業の増大によって、最近では日本の生協などとの農産物取り引きも行なわれるようになっている。タイマイを食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケルがあり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている。また医薬品系(B型肝炎ワクチンなど)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドルに達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。2011年4月において危機的状態が続く経済を再建する為、市場経済が部分的に導入される事が決まった。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認める等、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂は全て閉鎖された。同年9月にはタバコの配給が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され、住宅の売買も11月に解禁された。人件費支払いが困難な為、2012年3月迄に公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行する事が決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)、自営業14万人である。アメリカ政府の発表によればキューバ人一人あたりの月収は15ドルほどである。通貨は、国民用と外国人用の2種類あって、国民用は、ペソ・クバーノ、外国人用は、兌換ペソと呼ばれる。兌換ペソはCUCと呼ばれており、25ペソ・クバーノに対して1CUCとなる。キューバでは、鉄道が砂糖輸送の重要な交通手段として使われている他、国土の中央を東西に貫通する高速道路が建設されている。また、ハバナからフラッグ・キャリアのクバーナ航空がメキシコ、スペイン、ロシア等へと繋がる定期国際航空路を運航している他、諸外国の多くの航空会社も乗り入れている。キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオが絶滅したために、現在は白人系市民と黒人系市民、及び少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種構成は、ムラートが37%、欧州系白人が51%(主にスペイン系)、黒人が11%、中国系が1%であると推定され、他にもメスティーソ、レバノン人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島の植民者のコミュニティがある。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。キューバの白人は19世紀から20世紀の間に移民としてやって来たスペイン人の他に、フランス人、アイルランド人、ドイツ人(ドイツ系キューバ人)などを根に持つ。また、アジア系の市民として中国系キューバ人や戦前移民した日系キューバ人も少数存在する。1903年から1933年までの間に72万人のスペイン人、19万人のハイチ人、12万人のジャマイカ人、その他少数の中国人、アメリカ合衆国人移民があった。1959年のキューバ革命によって成立した現政府の政策により、ラテンアメリカ地域特有の、スペイン植民地時代から続いてきた人種に基く伝統的階級社会は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカのフロリダ州や西ヨーロッパに亡命した。公用語はスペイン語(キューバ・スペイン語)である。だが、観光業に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、ホテル、レストラン、及びに都市部などでは英語が通じることもある。宗教の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者が人口の55%にまで達している。キューバで最も重要な宗教はカトリックであり、キューバ革命以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないと見なされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。その他の宗教には、プロテスタント、エホバの証人、ユダヤ教、イスラム教、そして民族固有の宗教であるサンテリアなどがあげられる。東部ではハイチからの移民によってヴードゥー教も信仰されている。日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しくSGIが存在している。キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を挙げた。キューバでは、フィデル・カストロの「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力をいれている。初等教育は義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は、全体で99.8%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、チリと並んでラテンアメリカ内では最高水準である。また、国民の大半は高等学校を卒業している。主な高等教育機関としてはハバナ大学(1728年創立)などが挙げられる。高等教育は、19万1262人(2001-2002年度)の学生が受けている。また、キューバの学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバでは最もポピュラーなスポーツとなっている。キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である。人口10,000人中の医師数が67.2人と世界で最も多いグループに属する。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。これらは、マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると 、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い。ディエゴ・マラドーナ、モハメド・アリが治療しにきた。キューバの国民は、全員が配給手帳を所持していて、毎日配給を受ける。ただし配給と言っても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、(1)外国人からの推薦の発行、(2)外国人との結婚、(3)海外に住む家族による招待状の発行、(4)国家による(留学目的などでの)海外派遣である。尚、(2)以降は取得が困難である為、キューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。キューバ国民の大半がスペインかアフリカからの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ(現在のナイジェリア)の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画鑑賞が盛んな国でもある。キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、米、豆、豚肉を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒とコーヒーが広く飲まれている。19世紀においては前期にホセ・マリア・エレディアが活躍し、ロマン主義の文学運動においてヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダとシリロ・ビリャベルデが活躍した。19世紀後半に汎イスパノアメリカ的な規模での文学運動となるモデルニスモ文学が隆盛を迎えると、キューバからは独立運動家であり、詩人でもあったホセ・マルティによって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な詩や、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。20世紀に入ると、ムラートの詩人ニコラス・ギジェンによって1930年代にソンの形式を取り入れた詩が作られ、アフロ・キューバ文学が確立された。その後アレホ・カルペンティエルによってハイチ革命を描いた『この世の王国』(1949年)などが発表された。革命後は、1971年のパディーリャ事件のような革命政権による文学者への弾圧のため、カルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反フィデル・カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られるギリェルモ・カブレラ=インファンテや、ホセ・レサマ・リマ、レイナルド・アレナス、ビリヒリオ・ピニェーラ、セネル・パスなどが挙げられる。特にアレナスは亡命先のニューヨークで魔術的リアリズムの傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。また外国出身者でありながらキューバの文学運動に多大な影響を与えた人物として、キューバをこよなく愛したアメリカ合衆国のアーネスト・ヘミングウェイが挙げられる。その他にも、アルゼンチン出身でキューバ革命の指導者の一人であり、紀行文の『モーターサイクル・ダイアリーズ』や革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961年)、『ゲバラ日記』で知られ、閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラも名高い。キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースに、いろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズなどとともに20世紀の大衆音楽に大きな影響を与えた。代表的なキューバ音楽は、スペインのギターとアフリカの太鼓を組み合わせたヨルバ系文化の影響が強いルンバやソンがある。その他、大衆音楽の中には、トローバやダンソンのようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。19世紀にフランスのジョルジュ・ビゼーがハバネラのリズムを取り入れた時からキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。1950年代には、マンボやチャチャチャが世界的に流行したが、1959年のキューバ革命後は、アメリカとの国交が途絶え、また、経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては、影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバが、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連との繋がりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ、チューチョ・バルデース(イラケレのリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。冷戦後、1990年代になると、ロス・バン・バン、アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソンなど、ニューヨーク・サルサのセンスも取り入れたソンのグループが次々に現れ、大きな人気を獲得。また、ヨーロッパなどで公演する演奏家も増加した。1990年代末には古老ミュージシャン達を扱った映画(1998年のヴィム・ヴェンダース監督作品『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』)が世界的なヒットとなったこともあり、経済封鎖自体はまだ続いているものの、アメリカ系大手レコード会社が、次々にキューバの音楽家と契約し、来日公演なども増加するなど、キューバ・ブームといってよいほどの活況を呈している。さらに21世紀にはいって、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなったレゲトン(Reggaeton)がキューバにも本格的に到来、レゲエとヒップホップ、そしてキューバ音楽が融合したクバトン()が誕生し、いまキューバの若い世代に強く支持されている。代表的な画家としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見したウィフレド・ラムが挙げられる。革命後はラウル・マルティネスらによってキューバの人民革命を鼓舞するプロパガンダ・ポスターが製作された。現在はホセ・ベディア・バルデスの『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。キューバはラテンアメリカの映画大国であるブラジル、アルゼンチン、メキシコには及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国の一つである。革命前のキューバの映画産業は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校(EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケスを筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。著名な映画人としては、イタリアのネオレアリズモに影響を受け、ブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、アルゼンチンのフェルナンド・ビッリと共に新ラテンアメリカ映画運動の火付け役ともなった『エル・メガノ』(1955年)のフリオ・ガルシア・エスピノーサや、『ルシア』(1968年)のウンベルト・ソラス、『低開発の記憶』(1970年)、『苺とチョコレート』(1993年)のトマス・グティエレス・アレア、『永遠のハバナ』(2003年)のフェルナンド・ペレスが挙げられる。植民地時代からカトリックの暦に合わせてカーニバルが行われており、特にサンティアーゴ・デ・クーバとハバナのカーニバルは規模が大きい。コンパルサやコンガと呼ばれるチームが楽器と歌と踊りを交えて道路を練り歩くのである。キューバ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件存在する。詳細は、キューバの世界遺産を参照。キューバでは社会主義国の利点を生かして、国家による選手育成が幼年期から一貫して行われている。また、高い医療水準にも支えられて、キューバ選手は夏季オリンピックを中心に輝かしい成績を収めてきた。人口比での金メダル数は世界トップクラスであり、2004年のアテネオリンピックでは9個を獲得した。キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは各オリンピックで金メダルを量産しているボクシング、それに女子のバレーボールである。また、柔道、レスリング、陸上競技の跳躍系種目でも好成績を収めている。一方、競泳や陸上の長距離種目、サッカーなどは振るわず(サッカーについては、かつては強豪だったが、国際サッカー連盟 (FIFA) の国際試合無期限出場停止処分を受けたのをきっかけに弱体化した)、冬季オリンピックには参加経験そのものがない。またキューバではオリンピックスポーツ選手がスポーツ選手のステータスであり、野球は若干下になる。なお、全てのスポーツ選手はアマチュアの国家公務員(ステート・アマ)であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また亡命に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。さらに社会主義国のためにイデオロギーがスポーツに優先する国情があり、かつてはオリンピックのボイコットも行った。現在でも、特にアメリカとの関係で国際大会への参加に支障が出る場合がある。通信社は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内で最も読まれている新聞は、キューバ共産党機関紙のグランマで、スペイン語と英語のウェブサイトを運営している(外部リンク参照)。キューバは、今でも「キューバ共産党の一党独裁下にあり言論の自由に制限がある」とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。フランスに本部を置くジャーナリストの国際的非政府組織、「国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167か国・地域中161位にとどまり、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」が発表した検閲国家ワースト10のリスト」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するためにネット検閲が導入され、インターネットの使用を許可制にしている。

出典:wikipedia

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