山下 洋輔(やました ようすけ、1942年2月26日 - )は、日本のジャズピアニスト、作曲家、エッセイスト、作家である。ひじで鍵盤を鳴らすを交えながら演奏する。他分野への進出、コラボレーションにも積極的であり、『ジャズ大名』『ファザーファッカー』『カンゾー先生』などの映画音楽を手がけている。またクラシックピアニスト、オーケストラ、和楽器楽隊とのフリーな競演や山下洋輔パンジャスイングオーケストラを組織するなどもしている。独自の視点を生かした軽妙なエッセイや小説も執筆している。筒井康隆とは互いの作品のファンであり、長年の交友関係をもつ。筒井関係のイベントでは必ずといっていいほどメインのメンバーで参加しており、筒井の短編小説集『ジャズ小説』文春文庫版解説も執筆した。また筒井経由で河野典生、かんべむさし、堀晃らのSF作家とも交友した。タモリを発掘し、『ピアノ弾き乱入元年』等いくつかの著書で出会いの経緯や友誼が語られている。落語好きでも知られ、「じゅげむじゅげむ五劫のすり切れ……」のリズムを使ったジャズ曲『寿限無』を作曲。また、春風亭小朝や柳家小三治らと、演奏と落語のかけ合いをしたこともある。東京府生まれ。国立音楽大学作曲科卒業。1942年(昭和17年)、東京・渋谷の金王町に生まれた。父・啓輔は三井鉱山勤務、母・菊代は司法大臣を務めた小山松吉の娘。母親は音楽好きであり、自宅には洋輔が生まれたときからピアノがあった。洋輔の名前も母菊代の発案で、「洋」は「太平洋」から、「輔」は父の名の一字からとられたものである。世田谷の代田橋に転居し、1945年(昭和20年)3月にはアメリカ軍による東京大空襲を経験した。疎開先の長野県下伊那郡山吹村で終戦を迎え、代田橋に戻って東大原小学校に入学した。その後、都下三鷹市に移り、三鷹第四小学校に通学した。小学校3年生時、父親が福岡県の三井鉱山田川鉱業所に技師長として転勤になり、一家は同県田川市に引越し、山下は田川市立後藤寺小学校に転入した。この頃ピアノを覚えるとともに、伊藤光にヴァイオリンを習う。中学1年生の途中で東京に戻り、杉並の高円寺中学校に通った。NHK交響楽団の高辻威長にヴァイオリンを習っていたが、中学生時代には太陽族だった兄・啓義の影響でジャズに傾倒した。中学2年生のとき麻布中学校に編入、兄も卒業生だったためか書類審査だけで簡単に入学が認められ、学業成績は振るわず、在学中の成績は「後ろから三番目の口だった」「幾何の点数は零点だった」「平均点が75点以上なかったので学級委員選挙の被選挙権がなかった」「化学の授業では黒板に書かれる文字が何一つ理解できなかった」などと語っている。中学校3年生で兄のジャズバンドに参加、麻布高校1年生のときには同級生を誘ってジャズバンドを結成した。同級生に「勉強でかなわないから、自分はジャズをやる、という感じでした」と回想している。活動およびライブ演奏は多岐に渡っている。また公式ホームページ(外部リンクを参照)に詳細なディスコグラフィが掲載されているので、ここでは代表作のタイトル及び特記すべき事項のみを列記する。【 】は出演作の役薩摩藩士を祖とし、祖父は建築家の山下啓次郎、父・山下啓輔は東京帝国大学を卒業後に、三井鉱山を経て三井セメント会長となった実業家である。母方の祖父に司法大臣などを歴任した小山松吉、父方の祖母の妹に日本のミスコンテスト優勝者第1号といわれ侯爵野津鎮之助の妻である末弘ヒロ子がいる。実兄の山下啓義はヒゲタ醤油株式会社の元代表取締役専務、妹の山下眞理子はジャズ・ヴォーカリストである。息子は「父親にはまともな家に住んでもらいたい」と住宅展示場の営業マンとなる。
出典:wikipedia
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