南京事件(ナンキンじけん)は、1927年(昭和2年)3月24日、北伐の途上において、蒋介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)が南京を占領した際に起こした、日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。1927年3月21日、蒋介石の国民革命軍は上海を占領し、南京攻略を目指して3月23日に南京城を包囲した。張宗昌ら直魯連合軍8万は戦わずに退却し、市民も逃げ惑い、南京城内は混乱した。3月22日朝、日本海軍は荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊10人を機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて上陸させた。しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蒋介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した。機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった。荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された。南京在留日本側は、掠奪暴行が予想されたので3月22日に婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、本館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した。1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船()警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。フランス人宣教師が2名殺害された。アメリカ人で金陵大学副校長イーゼーウィリアム博士も殺害された。そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された。また婦人も陵辱された。日本領事館は蒋介石の軍が入城したとき、国民党軍は規律正しいと聞いていたので安心し、防衛のための土嚢や機関銃を撤去し、開門して国民党軍を受け入れた。また、倉庫には小銃30挺が保管されていたが、それらの上に荷物を山積みしており、準備されてはいなかった。当時の記録では、この時入場した国民党軍は、便衣隊であったかもしれないとも書いている。中国軍一個中隊が正門から闖入すると、歩哨に立っていた西原二等兵曹に銃剣を突き付け、殴りつけられた。中国軍は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた。救援にかけつけた数名の海軍陸戦隊員も銃剣を突き付けられ、時計や財布を掠奪された。その後中国軍は、本館を襲撃して電話機や器物を破壊し、金庫を開けろと木村領事館警察署長に命じたが、署長が応じなかったので発砲し、署長は右腕を負傷した。領事館舎の2階にいた根本博陸軍武官(少佐)に対して、中国兵は室内に入るや否や頭をめがけて発砲したが、それた。しかし腹を撃たれ、1階に飛び降りようとしたところ臀部を銃剣で突き刺され、突き落とされた。室内に残っていた領事夫妻らに向かって中国兵は「金を出せ」「金庫を開けろ」「出さねば殺すぞ」と罵りながら、所持品を奪い、領事夫人は服を脱がされた。寝室の領事専用金庫は破壊され、貴重品はすべて持ち去られた。さらに中国兵に後続して、南京の老若男女の住民、苦力らが押し寄せ、電球、電線、装飾器具、炊事道具、風呂桶、便器まで持ち去った。日本人は衣服を脱がされ、それらの衣服も持ち去られた。強奪は朝7時から午後1時づすぎまで打ち通しに行われた。その後、第2軍政治部蒋勁、師長戴岱がやってきて「我が国民軍は外国人に危害は加えない。今日、諸君を苦しめたのは確かに北軍の所為である」と述べた。荒木大尉は反撃すると日本人避難民に危険が及ぶため、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという。領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された。また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった。宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した。中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日)松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた。事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという。3月25日、下関に停泊中のアメリカ軍とイギリス軍の艦艇は午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蒋介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蒋介石の敵を利するものだとして、幣原喜重郎外相は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。日本は、虐殺を誘致するおそれありとして砲撃せず、3月25日朝、警備強化のため荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊90人を上陸させた。領事館の避難民らは、イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため、増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。しかし、日本海軍が南京市内を砲撃しなかったことに対して、日本側の思惑とは反対に中国民衆は日本の軍艦は弾丸がない、案山子、張子の虎として嘲笑した。海軍陸戦隊が中国兵によって武を汚されたことは第一遣外艦隊司令部において問責され、荒木大尉は拳銃自殺を図ったが、一命を取り留めた。事件の反響を恐れた日本政府は「我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名もなし」とうそを発表したため、南京の日本人居留民は憤慨し、中国の横暴を伝える大会を開こうとしたが、日本政府によって禁じられた。まもなく4月3日には漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される漢口事件が引き起こされた。蘇州でも日本人が監禁された。3月29日、蒋介石は、九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告した。いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。この際、共産党指導者90名余りと共産主義者とみなされた人々が処刑された。。また、英国は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した(アルコス事件参照)。武漢政府が容共政策放棄を声明し、南京に国民統一政府が組織されると、1928年4月にアメリカ合衆国、8月にイギリス、10月にフランスとイタリア、1929年4月に日本と、それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。蒋介石によれば、この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す中国共産党の計画的策謀とし、事件のかげにはソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて、第6軍政治部主任林祖涵と、第2軍政治部主任李富春は共産分子であり、軍長の程潜は彼らにあやつられていた。事件前夜の3月23日にソ連の顧問ミハイル・ボロディンが武漢で招集した中央政治委員会で、林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう提案していた。また日本側の記録『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』でも、「共産党の計画的暴挙」であったとされている。南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており、「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である。5月12日、ロンドンのソ連貿易会社アルコスが捜索された(アルコス事件)。4月9日、ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。国民党は日本の無抵抗主義を宣伝したため、この事件は多くの中国人に知られるようになり、中国人は日本を見下すようになった。同年4月には漢口事件が発生した。翌年1928年5月には済南事件が起こり多くの日本人が虐殺された。1924年の加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎は、幣原三原則を基本とした親善政策である「幣原外交」を展開していた。しかし、南京事件や漢口事件などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。金融恐慌の中、事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると、田中義一が首相と外相を兼任、かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた外務政務次官・森恪がその政策の背後にあり、日本の対中外交は一変した。
出典:wikipedia
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