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宮古市

宮古市(みやこし)は、岩手県の三陸海岸に面する市。本州最東端の地である魹ヶ崎を擁する。三陸海岸を代表する都市の一つであり、「本州最東端のまち」を掲げ、三陸沖の豊かな漁業資源と、三陸復興国立公園・浄土ヶ浜や早池峰国定公園を代表とする森・川・海の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。1941年に市制を敷き、2005年に田老町と新里村を編入し、2010年の川井村の編入によって県内一の面積を有する自治体となった。市域は山間部の川井・新里地区と、北部の田老地区、旧・宮古市部に大きく分けられる。人口は岩手県沿岸部の市町村の中では最も多い。県庁所在地である盛岡市からは北上山地を隔てて約100km離れている為、盛岡を初めとする北上盆地とは独立した地域圏を形成している。2011年3月11日に発生した東日本大震災では大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、田老地区を始め沿岸の集落は壊滅的被害となった。宮古市は三陸海岸におけるリアス式海岸の北端に位置しており、宮古を境にして南がリアス式海岸、北が海岸段丘になっている。又、内陸や対岸との位置関係では、盛岡市(北上盆地)と秋田市(日本海沿岸)から真東に位置している。2010年1月の川井村の編入により、市の面積は696.82km²から1,259.89km²に拡大し、一関市を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった。これは東北では鶴岡市に次いで2番目、全国でも11番目の大きさである。(2011年現在)しかしその8割は山林であるため、可住地面積は約117km²と、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は小さいものの、可住地面積当たりの人口密度は約490(人/km²)と県内平均を上回る。市域中央部を西から東に閉伊川が貫流し、市街地のある宮古湾へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんど無く、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には早池峰山と青松葉山がある。北部の新里地区には刈屋川が南へ流れ、茂市(もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、国道106号(旧・閉伊街道)と国道340号が並走する。市の南東部から北に向かって津軽石川が流れ、宮古湾に注いでいる。市街地を覆うように重茂半島が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、月山(標高455.9m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。山道口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎は本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する山田町との境に位置する十二神山には、自衛隊の通信施設があるため、入山に制限が設けられている。鼻曲がり鮭が新巻鮭として正月に食される。以下の諸説がある。また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする、和泉式部や源義経に関連する伝説が存在する。いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。鎌倉時代においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、元和四(1618)年に、盛岡藩の船員の名前を記した『浜田家文書』(岩手大学所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。少なくとも宮古の地名が公的な領地名として広まったのは、領内統一した南部氏が新たに町を制定し、宮古村及び宮古代官所を置いた慶長年間以後の事である。ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候だが最暖月が22.2度と日本ではかなり涼しく、西岸海洋性気候に近いような気候である。江戸時代初期に盛岡藩主・南部利直により藩港として開かれると、宮古街道を通じて盛岡城下と結ばれる藩の拠点となるとともに、三陸海岸の漁獲物などを江戸や上方へ移出し、また東廻り海運の要所として発展した。明治時代になると三陸汽船により仙台・塩釜方面や北海道、東京とも結ばれ、山間部では製糸業が勃興し、生産された生糸は宮古港から横浜港へと出荷され海外へ輸出された。昭和時代に入ると国鉄山田線の開通とラサ工業の進出により近代港湾都市として発展。山間部では閉伊川筋の電力資源の開発に伴い、窯業・鉱業・木材工業関連の企業が相次いで設立された。戦後高度経済成長期には北洋漁業やサンマ漁船の基地として賑わった。また木材港の整備により合板企業の集積が進んだ。1970年代には国道45号・国道106号線の全線開通と、宮古港の公共埠頭の整備により三陸海岸の拠点都市としての地位を高め、1980年代にかけてゴルフ場や国民休暇村・グリーンピアの設置などレジャーや観光業の発展がみられた。また1974年のヒロセ電機の進出により、コネクタ関連の日本有数の産業集積地となった。1984年には第三セクター鉄道の三陸鉄道が開業した。1992年にはJAPAN EXPO(地方博覧会)として三陸・海の博覧会が開催され、藤原地区にパビリオンが設置された。2011年には東日本大震災津波により甚大な被害を受け、被災した市街地の再開発と、復興道路として三陸自動車道や宮古盛岡横断道路の高速交通インフラの整備が進められている。現在の宮古市の発祥は、盛岡藩主・南部利直によって盛岡藩(盛岡城下町)の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する代官所(北閉伊代官所、寛文年間からは宮古代官所。小本~豊間根に管轄区域も変更)が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に東北と江戸とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸部で産出される俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの三陸の水産物を取り扱う豪商や、廻船問屋の活動が活発となった。また宮古は東廻り航路の要港であり、東北諸藩が江戸へ米や材木などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊郭が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。宮古は海岸の西にすぐ山地が峙えているため、平野部が狭く、また、周囲を山と海に囲まれているために「陸の孤島」になりやすく、古来、内陸からの物資輸送がとどこおることの多い土地柄であった。飢饉ともなると、この地理的制約がゆえに被害は周辺地域と比べてもひときわ大きなものとなった(江戸四大飢饉等)。僧・牧庵鞭牛に代表されるような、陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力する人材が現れた江戸時代中期には、盛岡などとの往路の大規模整備を推し進められ、これらの功績は今もって賛えられている("cf." 閉伊街道など)。宮古はまた、V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている(「三陸沖地震」、「三陸海岸」の「津波」の項を参照のこと)。また、戦後もカスリーン台風やアイオン台風、三陸フェーン大火、平成28年台風第10号などの自然災害に悩まされた。市内の遺跡からは、8世紀のものと見られる蕨手刀や和同開珎が出土しており、それまでは須賀君古麻比留のような蝦夷の有力者が地域を治めていたと考えられている。9世紀初めの征夷大将軍坂上田村麻呂や、文屋綿麻呂による蝦夷征伐は閉伊地方にも及んだ。しかしながら、鎮守府の置かれた胆沢城の勢力下にあったのは奥六郡と呼ばれた北上盆地周辺の地域が主であり、北上山地を隔てた辺境の地である閉伊地方への影響力は少なかった。そのため11世紀後半になると、蝦夷の完全制圧を目指した後三条天皇により源頼俊、清原貞衡が派遣され延久蝦夷合戦が開始される事となる。そして「閉伊七村山徒」は制圧されたと伝わる。これにより力を付けた出羽清原氏であったが内紛による後三年の役で滅亡。以後の統治は清原氏の養子で戦いに勝ち残った藤原清衡に任せられることとなる。平泉に本拠地を移した清衡は中尊寺金色堂などを建立し、四代に渡る奥州藤原氏による統治が始まる。江戸期の盛岡藩の文書『奥南落穂集』には、奥州藤原氏の配下に「閉伊右衛門太郎武国」という武将の一族が居たと記している。源頼朝による平泉侵攻(奥州合戦)で藤原泰衡が倒されると、閉伊地方は鎌倉幕府の御家人である閉伊氏の領地となる。閉伊氏は地頭として鎌倉時代を通して地域を支配し、建武の新政後は鎮守府将軍北畠顕家から所領を安堵されている。閉伊氏は南北朝時代には、北畠顕家に従い奥州武士団の一人として足利尊氏らの軍勢と戦ったが、石津の戦いに敗れ敗走した。その後は北朝側に転じ、奥州総大将石塔義房に従った。室町時代から戦国時代になると南部氏の勢力が進出し、南部家の武将櫻庭光康らの攻撃を受けて閉伊氏系の一族は衰退していく。豊臣秀吉から領地を安堵された南部信直は反乱分子であった九戸政実を倒して領内統治を進めていった。当地の有力豪族だった田鎖氏や一戸千徳氏らもこれに従い、文禄の役に従軍した。その後閉伊地方の領地の一部は櫻庭、野田、楢山氏などの南部家の武将やその家臣に与えられ支配された。慶長年間には南部利直に任命された最初の宮古代官である小本正吉が派遣され、以後約260年の間、盛岡藩の統治下となる。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わった盛岡藩が敗れると、南部氏は仙台白石に転封(白石藩)となり、閉伊郡は松代藩の取締地となる。半年後、盛岡に復帰した南部利恭は1870年(明治3年)、廃藩置県に先立ち廃藩を願い出て盛岡藩知事を辞任した。その後閉伊郡は江刺県の管轄となり、江刺県廃止後は盛岡県に編入される。盛岡県はその後岩手県と改称し、磐井県の一部を編入して現在の形となる。江戸時代末期には、東北地方最大の一揆である三閉伊一揆が勃発した。これは、盛岡藩の失政のツケを宮古を始めとする閉伊郡に対して重税を課して住民から搾取しようとしたことが直接の原因であり、話の流れ自体は平凡だが、非常に大規模な一揆であった。弘化4年(1847年)、圧制に耐えかねた一揆団は1万数千人という他に例を見ないほどの人数で、遠野城下に押しかけ、藩側に要求を呑ませた。ただし、藩側はのちにこの要求も破り、さらなる人数での一揆へと発展する。幕末から明治にかけての戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚・土方歳三らの旧幕府軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall (ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)」を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行する、いわゆる、宮古湾海戦が勃発した。太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、10日、宮古は米第3艦隊の空母エセックス及びランドルフの艦載機(F6F、TBF等)による空襲を受けた。ラサ工業宮古製錬所、同田老鉱山、岩手窯業宮古工場、三井造船の木造船造船所、鉄道関連施設、湾内停泊中の輸送船、湾岸の倉庫群などが標的となった。特に藤原地区は倉庫内の燃料に引火し燃え広がったため焼け野原となった。古来、水産業で栄え、特産品としては、サケ、イクラ、ウニ、アワビ、毛ガニ、ワカメなどが挙げられる。平成22年の水揚高は48,897tと、全国主要港中15位である。特にサケやサンマ、マダラは全国屈指の水揚げを誇る。工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場によるガリウムの生成、製造と同NCRI事業部による石油精製触媒の再生事業、片倉コープアグリ宮古工場による化学肥料製造やホクヨープライウッド(株)による合板加工などが主産業である。宮古税関管内の平成22年の輸出入貿易額は13億66百万円で、そのほとんどがこれら工業に関わる木材とリン鉱石の輸入が占める。輸出では対ロシア向けの水産加工物の輸出と、対中国向けの県産りんごの輸出が若干あるのみである。平成22年の製造品出荷額は7,788(千万円)で、岩手県内で8位である。平成24年度の一人当たり市町村民所得は230万円(県調査統計課)で、県内では平均レベルであるが、全国的に見ればかなり低い水準である。宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。また市内では1078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。公共の宿ホテルビジネス旅館ペンション民宿ラブホテル漁港:田老漁港と重茂漁港は第2種漁港、他は全て第1種漁港である。復興庁警察消防海上保安庁防衛省法務省地方検察庁厚生労働省財務省国税庁国土交通省農林水産省林野庁環境省特殊法人独立行政法人岩手県テレビ・ラジオ等郵便局簡易郵便局※岩手県立杜陵高等学校の宮古分室が宮古高校内に設置されている。宮古は三陸沿岸の交通の一大拠点であり、陸路では南の仙台・水戸方面、北の八戸・青森方面、西の盛岡・秋田方面を結ぶ要衝になっている。高規格幹線道路(一般国道自動車専用道路)

出典:wikipedia

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