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横浜DeNAベイスターズ

横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は同県横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が横浜DeNAベイスターズ総合練習場として同市に設けられている。林兼商店(後の大洋漁業、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に設立され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し一躍名をあげる。1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた。シーズン開幕後に「大洋ホエールズ(たいよう-)」に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンスと対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。「大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)」に改称し、翌には通称名の洋松が入る「洋松ロビンス(ようしょう-)」に改称した。1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営すると言う変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪球場内に置かれた。大阪時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を「大洋ホエールズ」に戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、1年目の、成績は31勝99敗。首位・巨人と61.5ゲーム差も離され、5位・国鉄にも大差をつけられての最下位。以降チームは、ロビンス時代の1954年からまで6年連続最下位。に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。・も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、は、最下位・広島と1ゲーム差の5位。その後は優勝から遠ざかることとなる。三原は1967年に監督を退任。1965年以降チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず関係していた。、開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが7月頃から徐々に低迷、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれて前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。、チームは5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。翌も5位に終わる。、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。、国土計画の主導で横浜市中区に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた「横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)」に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。移転初年度の1978年は4位に終わるが、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している。翌は2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。、土井淳が監督就任。初年度は4位。この年のドラフト会議では地元東海大学の原辰徳を1位指名したが交渉権を獲得できなかった。翌も低迷、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。この年は最下位に終わる。、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。は3位とAクラスになるも、は最下位に転落。同年限りで関根は辞任。、近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず4位。翌も4位に終わり、近藤は2年で監督を退任。には、広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、5位、4位、最下位と3年間で1度もAクラス入り出来ないなど成績は振るわず、にシーズン最下位の責任をとり監督を辞任した。しかしこの間、の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。、須藤豊が監督に就任。この年、チームを3位へ導くも、翌は5位転落。開幕早々に監督を辞任し、チーフコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。この年は5位に終わるも、盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立された。1993年4月1日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することと年度の平成の元号変更に伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を「横浜ベイスターズ(よこはま-)」に改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取った「ベイスターズ」となった。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。、チーム生え抜きの近藤昭仁が監督に就任。球団名変更に伴い、ユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。ベイスターズ初年度は5位に終わる。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。長年チームを支えた高木豊や屋鋪要、山崎賢一、市川和正ら主力選手が大量解雇された。、獲得した駒田の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用してチームの若返りを図るが、混戦のシーズンの中、結果的に最下位に終わる。、結果的に4位に終わるも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。のちに首位打者となる鈴木尚典が3番レフトに定着するなど若手が台頭した。しかし、フロントからの近藤に対する監督としての評価はあまり芳しくなく、この年限りで任期満了により退任となった。、バッテリーコーチの大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速し、5位に終わる。、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず、2位で終わる。大矢は2年契約を終えてオフに監督を辞任。、権藤が監督に昇格。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日に38年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは西武ライオンズと戦い、4勝2敗で日本一。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。シーズンオフにはドラフトで、この年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが獲得できなかった。、ローズが153打点を記録し二冠王に輝く活躍を見せるなどこの年もマシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録を更新する。しかし投手陣は川村丈夫が17勝を挙げる活躍するものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数がそろわず、3位に終わる。オフには、佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。、ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず2年連続の3位。オフに権藤が監督を勇退し、主力打者のローズ、駒田が退団。この年よりファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。、西武を8度リーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。シーズンオフに森との確執で正捕手の谷繁元信がFA宣言をして中日に移籍し、チーム最多勝投手の小宮山もメジャーリーグに挑戦するために退団した。、1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更される予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送)への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細はマルハからTBSへの筆頭株主交代の節を参照)。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。チームは開幕から記録的な低迷を続け、9月25日に森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。 2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。、チーム生え抜きの山下大輔が監督に就任。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約で、ダイエーから若田部健一をFAで獲得するなど大型補強を試みるが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人のタイロン・ウッズや新人の村田修一、若手の多村仁ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。、佐々木主浩が年俸6億5000万円の2年契約を結び5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続けるが、最終戦に敗れて広島と勝率0.00092(9毛2糸)差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。山下はこの年、監督を退任した。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題の責任をとってオーナーの砂原幸雄が辞任し、TBS副社長の若林貴世志が新オーナーに就任。、牛島和彦が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも不調だった三浦をはじめ投手陣が復活し、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど新しいファンサービスを試みた。、投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や吉村裕基ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの監督退任を発表。4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを、理事長を球団OBの平松政次として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。 12月1日、資本金を6億5000万円から1億円へ減資する。「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍した。、大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。ソフトバンクの若手投手・寺原隼人を主砲・多村仁との大型トレードで獲得し、また巨人の正二塁手だった仁志敏久を1選手プラス金銭のトレードで獲得した。また、FA移籍した門倉の人的保障として工藤公康が入団。移籍組やベテラン勢の活躍で、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。最終戦に敗れシーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年振りに70勝に到達し、村田修一が球団日本人選手としては桑田武以来31年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。1月15日、産業能率大学と業務提携することになり、調印する。ファームの湘南シーレックスの取り組みを、スポーツビジネスの授業に取り入れていくことが決まった。、開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗するとその後も低迷を続ける。この年に飛躍し首位打者を獲得した内川聖一、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村といったリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、12球団ワーストの706失点や168被本塁打、チーム防御率4.74を記録する等投手陣の崩壊により2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録した。選手の打率(内川の.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。シーズンオフにはヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、投手コーチの斉藤明雄など4コーチが解任され、石井琢朗、鈴木尚典ら、チームを長年支えてきたベテランが退団した。また、正捕手の相川亮二がFA権を行使してヤクルトに移籍。はWBCでの村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど序盤から低迷。5月18日に大矢監督の無期限休養(事実上の解任)が発表された。二軍監督の田代富雄が翌日から監督代行を務めたが、チームを浮上させることができず、2年連続の最下位に終わる。前年同様一度も貯金はなく、田代は一軍の監督代行の職が解かれ、シーズン終了後に二軍監督に再任された。投手コーチの杉本正は一年で解任された。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った。、ロッテのエース清水直行を複数人とのトレードで獲得し、同じくFA宣言をしたロッテの橋本将、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジを獲得するなど大規模な補強を行った。当初の構想では、前年途中から抑えを務めた山口俊を先発に転向させ、新外国人投手のクリス・ブーチェックを抑えに起用する予定だったが、ブーチェックはオープン戦で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、三浦大輔が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから急遽二軍落ちとなった。3月31日、対巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 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2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。しかし、開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落。一度も浮上することもなく9月7日の対巨人戦の敗戦で5年連続のBクラスが確定し、9月25日の対中日戦の敗戦で3年連続の最下位が確定。9月28日の対ヤクルト戦で敗れてプロ野球史上初の3年連続90敗、10月6日の対阪神戦の敗戦で130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。ヘッドコーチの島田誠が不振の責任を取り1年で辞任。オフに内川聖一がFAでソフトバンクに移籍した。8月、2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。9月30日、TBSHDが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・LIXILグループ)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し“大筋で合意しており10月中に正式決定”とコメントしていたが、実際の交渉は難航。結局10月下旬、TBSHDは住生活グループとの交渉を打ち切り、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った。交渉決裂の理由としてはTBSHDおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としているものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした。また同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた。、FAで日本ハムの森本稀哲を獲得。3月11日の東日本大震災発生時は横浜は横浜スタジアムで対ヤクルトオープン戦の試合中だったが、球場全体が揺れて試合は打ち切り、選手や観客がグラウンドに避難している。当初3月25日の公式戦開幕予定が、この震災の影響により4月12日に延期された。4年ぶりに本拠地での開幕となり、中日と対戦し3連戦を勝ち越し、2000年以来11年ぶりに開幕カードを勝ち越したが、5月以降低迷状態に陥り、交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わり、7月は一度も連勝できないまま、オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す。後半戦も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)に敗れたことでBクラスが確定し、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れたことで4年連続の最下位が決定している。最終的に47勝86敗11分で首位から27.5、5位広島と11.5ゲーム差がついた。チーム防御率は6年ぶりに3点台だったが2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した。10月19日、TBSHDが保有している横浜ベイスターズ株の大半をディー・エヌ・エー(DeNA)へ譲渡することで大筋において合意。10月22日、最終戦終了後に監督の尾花と一軍コーチ陣の休養が発表された。11月4日、TBSHDが所有する株式の一部(TBSHDの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)、BS-TBSの保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で、日本プロフェッショナル野球機構の実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として、DeNAへ譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)。また、球団名は「横浜DeNAベイスターズ」として申請される。11月22日、監督の尾花をはじめ6人のコーチの解任が発表された。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された。翌2日球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航した。当初は新庄剛志や工藤公康らの名が候補に挙がったが、最終的に横浜OBでもある工藤公康が候補とされた。だが、投手コーチ編成を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べている。翌6日には当初からの候補であった中畑清の名前が挙がり、12月9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表されている。TBS傘下時代は11年間で8回最下位という戦績を残して幕をおろした。これは、プロ野球市場で一定期間以上参入した親会社としては他に類例のない惨憺たるものである。、親会社変更に伴いユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行う。3月18日には、これまでの球団マスコット、ホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。3月30日、開幕戦でDeNAとしての初陣となった対阪神戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし、4月1日の同カードにおいて6対2で球団名称変更後初勝利を挙げるが、続く4月4日から10日、同月22日から5月1日にかけて2度に渡り6連敗するなどした。交流戦は9勝14敗の10位に終わり、7月7日の対中日戦に敗れ借金20として、自力優勝が消滅している。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初の同一カード3連勝するものの、前半戦を最下位で終える。後9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、Bクラスが決定。9月29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)するものの、136試合目の9月30日の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続の最下位が決定した。10月7日、対巨人戦(東京ドーム)で敗れたことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり、東京ドームにおいてはセ・リーグ初の記録となった。最終的に首位巨人とは40ゲーム、5位阪神に9.5ゲーム差、46勝85敗13分、セ5球団に全て負け越している。、中日を自由契約になったトニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサの3人を獲得した。またかつてのチームの主力打者であったソフトバンクの多村仁志を含む3選手が、吉村裕基、山本省吾ら3選手とのトレードで入団。多村は7年ぶりの古巣復帰となった。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、8年連続のBクラスが確定したが、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、6年ぶりの最下位脱出が決定。最終成績は5位に終わったものの、ヤクルト・阪神・中日の3球団に勝ち越し。セ3球団に勝ち越したのは実に12年ぶりのことであった。オフに阪神の久保康友をFAで獲得。、シーズン途中に、大砲のユリエスキ・グリエルをキューバから獲得。5月に井納翔一、6月に山口俊、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度の月間MVPを獲得し(9月にも山口が獲得し最終的に1シーズン4度)、9月までクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、9月27日に進出の可能性がなくなり、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ5位が確定した。結果は2年連続で5位。オフに巨人からホセ・ロペス、グリエルの弟、ルルデス・グリエル・ジュニアを獲得した。また、ドラフトでは、後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる、山崎康晃(亜細亜大学)を1位指名した。、1月16日に球団オーナーが春田真から親会社・DeNAの創業者でもある南場智子に交代したことを発表、NPB初の女性球団オーナーが誕生した。また、ユニフォームも濃紺から、青色(通称:横浜ブルー)に変わった。4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は、横浜ベイスターズ時代の2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、DeNAが親会社となってからは初の単独首位につくなど、序盤好調な滑り出しを見せた。しかし、交流戦では、全6カードをすべて負け越し、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう。しかし、6月23日の巨人戦で2-7で勝利し、連敗を12で止めた。7月に、元メジャーリーガーのデュアン・ビロウを獲得した。交流戦後の混戦の中6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。前回優勝の1998年以来となる、前半戦首位ターンとなった。しかし、後半戦に入るとじわりじわりと順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落(ちなみに、前半戦首位チーム(2期制時のパは除く)が後半戦に入って最下位に転落するのはプロ野球史上初)。直後に最下位を脱出するも、終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅。10月3日、シーズン最終戦(巨人戦)で敗れ3年ぶりの最下位が決定した。前半戦を首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった。また本塁打数こそリーグ最多の112だったものの、リーグワーストのチーム防御率3.80、総失点598、ワイルドピッチに至っては1990年のロッテオリオンズの日本プロ野球タイに並ぶ68個を記録するほどだった。また、黒羽根、嶺井、高城を起用するなど捕手も固定されず、11個のパスボールも記録。観客動員数は好調で球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑監督は低迷の責任を取る形で退任。これにより4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた。後任監督には球団史上初の外国人監督となるアレックス・ラミレスが就任することが発表された。2015年10月21日、ラミレス新監督の就任が正式に発表された。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表。ドラフトでは、今永昇太(駒澤大学)を1位指名し、課題であった捕手の固定は戸柱恭孝(背番号10)(NTT西日本)を指名することで対処した。11月球団は本拠地である横浜スタジアムの運営会社株式会社横浜スタジアムの友好的TOBを開始した。1月20日横浜スタジアムの運営会社株式会社横浜スタジアムの株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を、総額74億2,500万円で取得した。このため、運営会社は同月28日付で、横浜DeNAベイスターズの子会社(ディー・エヌ・エーの孫会社)に名義を変更。キャンプ前に新外国人としてジェイミー・ロマック、ザック・ペトリックを獲得するも、キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発。山崎憲晴が左膝靱帯断裂で今季絶望となったほか、梶谷隆幸、関根大気、山口俊、高崎健太郎、ヨスラン・エレラといった主力選手が故障により開幕に間に合わなかった。3月30日に日本ハムから金銭トレードで中継ぎ右腕の藤岡好明を獲得し、4月3日には元広島東洋カープの左腕マイク・ザガースキーを獲得した。また、4月26日にはマット・マクブライド捕手兼外野手と大筋合意したと見えたが、本人のメジャー昇格で一転白紙となった。5月14日にようやくエリアン・エレラを獲得。この頃には怪我で離脱していた主力選手の大半も戻っており、チームも復調。5月28日に勝ち負けを同数とした。7月11日、中日ドラゴンズ第12回戦にて三浦大輔投手がプロ野球史上最長となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成した(ギネス世界記録に認定され、8月22日、横浜スタジアムで認定証が授与)。7月14日、サンフランシスコ・ジャイアンツなどに所属したマイク・ブロードウェイを獲得した。9月19日、広島東洋カープ25回戦にて勝利、11年ぶりにAクラスが確定し初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。これまでDeNAは前身の横浜ベイスターズ時代も含め、現行の12球団で唯一CSに進出していない球団であった。最終結果は69勝71敗3分。尚、CS進出を決めた翌日に三浦大輔が現役引退を表明。これにより横浜大洋時代並びに1998年のリーグ優勝・日本一を経験した選手が姿を消すこととなった。クライマックスシリーズでは公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗で球団初のファイナルステージ進出を決めて公式戦1位の広島東洋カープと対戦、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの1勝4敗で敗退し、球団初のポストシーズン(プレーオフ、日本シリーズ)敗退となり、これで2004年に消滅した大阪近鉄バファローズと、1950年の日本シリーズで日本一を逃した松竹ロビンズを含むポストシーズンの参加経験のある14球団が全て敗退をしたこととなった。1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した大洋軍は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」を使用することが承認されたが、NPBの公式サイトでは「横」でなく「ディ」或いは「デ」との表記も使用されている。また、共同通信社、日刊スポーツでは「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元tvkが「横」、サンテレビが「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のTigers-aiが「デ」、J SPORTSの自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としていた。なお2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更された。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。球団マスコットは、「DB.スターマン」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくりとしたユニホーム姿のゆるキャラ。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「DB.キララ」が登場した。球団のマスコットではないが、TBSが親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。また、カネシゲタカシがスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている。トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声よる応援が中心となっている。また、一部ファンにおいてゲートフラッグの掲揚が行われている。また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「シャボン玉」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時ジェット風船の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものである。球場でシャボン液とストローのセットが販売されている。DeNA球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。1998年の日本シリーズで横浜スタジアムでの胴上げ(1960年の日本シリーズは毎日大映オリオンズの本拠地・後楽園球場)を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年・1998年ともに阪神甲子園球場)である。日本シリーズ出場は2回で現存するセ・リーグ6球団の中では最少だが、その2回とも日本一を達成(日本シリーズ出場球団のうち、シリーズ敗退がないのはDeNAと東北楽天ゴールデンイーグルスの2球団)。また、試合勝率.800は出場全球団のうち最高。現存する12球団の中で唯一、屋根のあるドーム球場で日本シリーズを戦ったことがない。現存するセ・リーグ6球団の中で唯一、球団OB(選手としての在籍経験者)監督の下でのリーグ優勝・日本シリーズ出場・日本シリーズ制覇を一度も達成していない。優勝監督である三原脩と権藤博は、いずれも本球団に選手として在籍した経験はない。現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。現存するセ・リーグ6球団の中ではAクラス入り回数が最少(2015年終了時点で15回)。3シーズン連続90敗を唯一記録している球団であり(2008年 - 2010年)、他に2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。2シーズン連続90敗は現存する12球団では唯一の記録である(解散球団では過去にトンボユニオンズ・高橋ユニオンズや近鉄パールス・近鉄バファローが記録)。3シーズン連続90敗はこれまで延べ5チームが喫した2シーズン連続を上回るプロ野球ワースト記録。また、この球団のシーズン90敗以上は6回。2008年から2012年まで5年連続で勝率.399以下を記録し、これは1957年から1961年までの近鉄パールス以来50年ぶりの記録である。シーズン最下位23回は、消滅した球団も含めて日本プロ野球全球団で最多。2007年シーズンから導入されたクライマックスシリーズに2016年に初出場を果たしたが、これは12球団で最も遅いCS初出場であり「悲願」とする見方もあった。また、2016年は広島がCSを初突破したため、セ・リーグでは唯一CSを突破したことがないチームとなり、そしてCSにおいて主催ゲームで開催したことのないチームとなり、さらに2004年に消滅した近鉄を含む13球団で唯一屋根付きのドームの日本シリーズに参戦をしていない球団になった。2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(東京放送)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円の支払いは不要とされた。それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ→TBSのケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社東京放送ホールディングス(以下TBSHD)に移行したことから楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSHDに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。TBSHDが筆頭株主(事実上のオーナーと目される)であった時代も、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオでは、週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継は、大洋漁業からマルハ保有時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。巨人戦以外は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独で放送し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビもニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために使っていた。CS放送については、2002年にマルハからTBSグループに譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系中継実施時のみTBSニュースバードで放送するも、当時フジテレビ系のCSであったJ SPORTS(のちにスポーツ・アイ ESPNとの合併の際、TBSも資本参加)で中継していたが、2008年以後TBSニュースバードに放送チャンネルが移行している。2014年シーズンよりTBSチャンネル2に移行された。ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がないときに放送された。親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、テレビもしくはラジオの放送を従前通り継続している。2015年からネット中継を開始し、DeNAのライブ配信サイト兼ライブ配信アプリ「SHOWROOM(ショールーム)」にて独占配信(2015年4月から5月までは無料配信だが2015年6月以降は有料配信)される。2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている。親会社がDeNAに変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、その期間中限定でスペシャルユニホームが用意され、選手および監督・コーチはスペシャルユニホームを着用。この他、2006年のファン感謝デーには、大洋・横浜大洋時代の復刻ユニフォームを着用してアトラクションをこなしている。※"太字"'は優勝達成監督球団の永久欠番は次の通り。DeNAでは、日本プロ野球名球会の入会条件である通算2000本安打、通算200勝、通算250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。2012年よりリボンビジョンを設置したため、右翼外野席最上段の手すりに移動した。現在の対象者は以下の通り。1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチの秋山登が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。2001年のみセ・リーグの順位決定方法が通常と異なっていた。勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。その2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で決めていたため、勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすいという結果となり、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率順」に戻した。2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。横浜時代の2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した沖縄セルラースタジアム那覇で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦としては史上初のナイター(19時開始)となった。以降も同球場ではセ・リーグ公式戦が毎年2試合行われている。2013年は沖縄遠征を行わず、2014年に巨人を帯同して、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)の開催を予定していたが、7月8日の試合については平成26年台風第8号が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日・7月7日午後の段階で開催取りやめを発表した。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だったユリエスキ・グリエルは、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したこともわかった。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている。2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。初日に敗れた時は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝った試合でも半数以上の人間が返金を求め、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となった。この結果に中畑監督はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」として二度とやらないように求めている。2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)の追加負担をすれば、2016年度までにクライマックスシリーズ(CS)で横浜DeNAが主管権(レギュラーシーズン2位以上)を確保して初進出した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、およびCSが廃止となって権利失効となった場合は追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるとしており、実際には2016年の3位が期間内の最高順位でCSを主催できなかったため、観戦権は成立しなかった。オーナーが新潟出身という事もあり、ハードオフ・エコスタジアム新潟では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催、集客の見込める土日や巨人戦を開催するなど、新潟への配慮は大きい。他にも新潟に関連するイベントを開催し、関係を継続している。1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。他球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある。1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いものの、実際には球団と同行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。2012年に「横浜DeNAベイスターズ」に名前が変わってからは監督の中畑清の名前から「中畑銀行」と呼ばれたこともある。

出典:wikipedia

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