阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、神奈川県横浜市旭区出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。2016年からは読売ジャイアンツの三軍投手コーチを務める。横浜市立鶴ヶ峯中学校時代、東海大学付属相模高等学校からの誘いを受けていたにもかかわらず、敢えて公立の桜丘高校を志望し、塾通いして文武両道を目指した。桜丘高校では3年夏の神奈川大会は4回戦で敗退。高校卒業後は亜細亜大学に進学(同期にパンチ佐藤、1年後輩に与田剛がいる)。東都大学リーグで通算62試合登板32勝17敗、防御率1.83、282奪三振。最高殊勲選手に1度、最優秀投手に3度、ベストナインに3度選ばれた。4年生秋の9勝はリーグタイ記録。1986年のドラフト会議で、読売ジャイアンツ、横浜大洋ホエールズ、近鉄バファローズの3球団が1位指名で競合。阿波野の意中球団は巨人か大洋と言われていたが、抽選の結果、交渉権確定のくじを引き当てたのは近鉄だった。当時の近鉄監督岡本伊三美は、亜細亜大の監督から聞いた話としてなどと、また阿波野の入団前に接した際に、阿波野が関西のことはわからず、「近鉄という会社はどこにあるのですか」ときいてきた、と振り返っている。阿波野を外した巨人は木田優夫、横浜は友利結を再指名で獲得。ルーキーイヤーのに、15勝、両リーグ最多の201奪三振・249.2イニングを記録。同い年で、同じ1986年ドラフト1位でプロ入りの西崎幸広(日本ハム)と熾烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗・防御率2.88、西崎は30試合登板で15勝7敗・防御率2.89と甲乙つけがたい成績を残したが、結果は大差がついて阿波野が新人王に選出された。両者は共に「トレンディエース」と呼ばれ(「トレンディエース」については西崎幸広参照)、特に女性に高い人気を誇った。は、前年同様、エースとして14勝を挙げる。ナゴヤ球場でのオールスターゲーム第2戦先発し3回を被安打0自責点0奪三振3を記録。レギュラーシーズン優勝のかかったロッテとの川崎球場でのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」に、両試合とも当時の抑え吉井理人の後を受け連投。この試合の2日前、阿波野は対阪急戦で完投しており疲労が残っていた。第1試合では9回、1点リードで二死満塁のピンチを迎えたが、森田芳彦を三振にしとめ、逃げ切った。このとき阿波野は帽子を鷲掴みにしてガッツポーズした。しかし、第2試合に1点リードの8回、高沢秀昭に痛恨の同点本塁打を打たれた。この後、ショックで記憶が飛び、なぜ捕手山下和彦のサインで指示された自分のストレートを信頼できなかったかと悔いが残ったという。その後9回、無死一・二塁で古川慎一を牽制球で刺した記憶もはっきりしていなかったというが、ここでロッテ監督の有藤道世が判定を巡り9分間にわたって抗議を続け試合は中断したことも影響して、第2試合は引き分けに終わり、近鉄は優勝を逃した。10.19では苦い思いを味わったが、本来はロッテを得意としていた。この1988年4勝1敗、翌1989年4勝0敗の成績を残しており、通算でも近鉄時代の通算67勝のうち21勝をロッテから挙げている。は、前年の雪辱を特に意識して迎えたという。終盤、10月12日ダブルヘッダーの第2戦や優勝決定の場面などに登板した。10月12日について、阿波野は10.19でも負けていないことからダブルヘッダーと決まった時点で「よーし」となったと振り返っている。優勝決定の場面では、前年「10.19」での思いからストレートを続けたという。最多勝(19勝)、最多奪三振(183個)のタイトルを獲得し、近鉄の優勝に貢献。同年の日本シリーズでは第1戦・第5戦に先発し同い年の斎藤雅樹と2度も投げ合い、第1戦の完投勝利を含む15イニングを投げ、1勝1敗5失点。優秀選手に選ばれた。からボーク判定が厳格化され、その影響で当時近鉄と毎年激しい優勝争いを繰り広げていた西武監督の森祇晶、そして当時の三塁ベースコーチの伊原春樹は阿波野の牽制がボークではないかと執拗に抗議し、その結果として阿波野は本来のフォームを崩し、この年以降成績が下降線を辿るようになったとされる。西崎幸広と比べると、1987年から1990年までの合計勝利数はぴったり同じ58勝で、まさにライバルと呼ぶにふさわしい数字が残っている。この年の5月20日の対ロッテ戦で阿波野は勝利投手となり通算50勝に到達しているが、同日、西崎も対ダイエー戦において勝利投手となり同じく通算50勝となった。監督の仰木彬は阿波野を信頼し続け、には野茂英雄を抑えて阿波野を3年連続の開幕投手に抜擢している。92年にはリリーフも兼務。また、仰木が近鉄の指揮を取った最後の試合の先発投手は阿波野であった。仰木によれば「一番投げさせてやりたい投手を使った」という。しかし、成績が上向くことはなかった。オフ、仰木の後任監督の、シーズンオフに香田勲男との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍(鈴木との確執は野茂英雄や吉井理人などにも同様のエピソードがある)。からは中継ぎ投手として再起を目指した。はシーズン終盤に1軍で好投。河野博文、川口和久、宮本和知達とレフティーズを結成し恩師仰木が監督を務めるオリックスとの日本シリーズでも登板する。巨人での3年間は未勝利に終わった。シーズンオフに永池恭男との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍。近鉄時代に投手コーチを努め阿波野の絶頂期を知る横浜監督権藤博が阿波野を積極的に起用。阿波野もその期待に答え移籍1年目のは主に中継ぎとして50試合に登板するなど復活を果たし、「権藤再生工場」第1号と呼ばれた。1998年の日本シリーズ第6戦では8回途中に2番手で登板して第1戦以来の勝利投手となりチームも日本一を決め、後に「すべてが10.19からつながってるんですよ」と振り返っている。8月3日の広島東洋カープ戦で6年ぶりの先発勝利を記録している。10月に戦力外通告受け、現役を引退。ドラフトで競合1位指名を受けた3球団全てに在籍。また、現役時代に在籍した3球団全て優勝を経験し、日本シリーズに出場を果たした。3球団からの日本シリーズ出場は最多タイ記録であるが、ドラフト指名された全球団で出場したのは阿波野だけである。からまで巨人の二軍投手コーチ、からまで巨人の一軍投手コーチ(はブルペン、はベンチ)、は横浜の一軍投手コーチを歴任。巨人の一軍投手コーチ時代にチーム防御率4.50、4.80と2年連続して球団のチーム防御率のワースト記録であったり、2005年はチーム防御率リーグ最下位でもあった。その投手陣の低迷が要因で2005年は8年ぶりのBクラスに低迷したり、横浜コーチ時代は前年横浜はチーム防御率2位だったが阿波野がコーチを務めた2006年はセ・リーグ唯一のチーム防御率4点台の4.25(チーム防御率リーグ最下位)と低迷しチームの最下位の要因の一つになった。はテレビ東京野球解説者に就任(札幌テレビ、スカイ・A sports+、JSPORTS、フジテレビONE「プロ野球ニュース」にも本数契約で出演)。同年2月1日より住友金属鹿島硬式野球部の投手コーチに就任した。同部で、後に楽天に入団する井坂亮平、横浜に入団する加賀繁らを指導した。山田久志とは、阿波野の両親がともに山田と同郷の能代市出身者だったこともあり、新人時代から親交が深かった。11月4日、二軍コーチとして巨人に復帰することが発表され、11月19日に就任会見。2015年10月29日、2016年から巨人に新設される三軍の投手コーチに就任することが発表された。
出典:wikipedia
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