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ポーランドの歴史

ポーランドの歴史(ポーランドのれきし)では、ポーランドの歴史を概略的に述べる。現在のポーランドの領域に農業従事者たちが住みついたのは約7500年前である。スラヴ人と呼ばれる民族集団がこの地域に住むようになったのは1500年前のことであるとされてきたが、近年ではそれよりもはるか前からスラヴ人の祖先(プロトスラヴ人)が定住していたという説が見直されてきている。ポーランドは国としての歴史は約1000年となるが、ヤギェウォ朝やポーランド・リトアニア共和国時代にリトアニアを始めボヘミア王国やハンガリー王国と連合国であった期間は約4世紀となる。ポーランド・リトアニア共和国の時代には、ヨーロッパ大陸で広大な国の1国となり、精力的に領土拡大を繰り広げ(遠方はロシアまで)100万km²の支配領域となった。その後、4度ポーランドは国を分割され消滅するまでに衰退した。10世紀の勃興期に続いてポーランド民族はキリスト教に改宗し、キリスト教の西欧に認められポーランドはヨーロッパ文化圏に仲間入りした。初期国家の構造は13世紀には分裂により崩壊したが、1300年代の統合運動で覇権国としてのポーランド王国の礎を築いた。1918年、ポーランドは近隣諸国による100年以上の支配からの独立を回復したが、第二次世界大戦後に国境は再び変化した。ナチスドイツとソビエト連邦によるポーランド侵攻によって瓦解しソビエト連邦軍が最終的な占領者となり、ポーランド人民共和国を樹立した。1945年5月8日から1989年9月7日までは共産主義体制となった。1989年9月7日に共産党政府は倒され、ポーランドは議院内閣制共和政体を敷く民主国家となった。ポーランドにおける石器時代は50万年の間続き、この時期には3種類の異なる人種が生活していた。石器時代は原始的な道具を使用する初期の人間集団から、優れた石器を使い、住居を要塞化し、銅の加工品を発達させていた農業社会まで続いていた。石器時代は旧石器、中石器、新石器の3期に区別される。旧石器時代は紀元前50万年頃から紀元前8000年頃まで続いた。旧石器時代はさらに紀元前50万年から紀元前30万年までの前期、紀元前30万年から紀元前4万年までの中期、紀元前4万年から紀元前1万年までの後期、紀元前1万年から紀元前8000年までの晩期に細かく分けられている。中石器時代は紀元前8000年から紀元前5500年まで、新石器時代は紀元前5500年から紀元前2300年までとされている。新石器時代は紀元前5500年から紀元前2900年までの狭義の新石器時代と、紀元前2900年から紀元前2300年までの銅器時代に細かく分けられる。ヨーロッパの銅器時代を代表する球状アンフォラ文化はポーランドを中心として栄えた。この文化はインド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々の、ヨーロッパへの最初の大量移住を示していると見られる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族のサルマタイ人やスキタイ人が定住していた。青銅器時代と鉄器時代は主に考古学の研究によって調査されている。ポーランドにおける初期の青銅器文化は紀元前2400年から2300年頃に始まった。この時代のドイツからポーランドにおける鉄器文化はウーニェチツェ文化という。このうちのポーランドにあたる部分は東部群であるトシュチニェツ群を構成したが、ここからトシュチニェツ文化が発生した。これはスラヴ祖語の最初期の時代の文化であると推測されている。鉄器時代はおよそ紀元前750年から700年の間に始まったとされている。しかし当時ヨーロッパ中央部、東部に住んでいた集団の民族的、言語的帰属については、文書記録がないため理論的にならざるを得ず、統一的見解は出ていない。この時代のポーランドにおける最も有名な出土物はビスクピンにある要塞化された集落(グラド)で、初期鉄器文化であるラウジッツ文化(ルサティア文化)を代表する遺跡である。ポーランドの青銅器時代は、紀元前2300年から紀元前1600年までが第1期、紀元前1600年から紀元前1350年までが第2期、紀元前1350年から紀元前1100年までが第3期、紀元前1100年から紀元前900年までが第4期、紀元前900年から紀元前700年までが第5期と細かく分けられている。ハルシュタット文化に相当する初期鉄器時代は、紀元前700年から紀元前600年までをC期と呼び、紀元前600年から紀元前450年までをD期と呼ぶ。現在のポーランドに相当する領域で文化を形成していた大半の人々は、元から居住していたあるいは様々な地域から移住してきたバルト人、トルコ人、サルマタイ人、スキタイ人、ゲルマン人、そしてスラヴ民族の祖先であるプロトスラヴ人の諸部族であったと考えられる。ゲルマン人は原住地であるスカンディナヴィアと北ドイツから拡大・移住し、数世紀をかけてポーランド地域に住みつき、ないし移住への通り道として利用した。多くのゲルマン人部族が現在のポーランド地域を通過して南方、東方へ移り、一部が同地域に残った。この頃ローマ帝国は崩壊の危機にさらされ、東方から現れた遊牧民の侵入によってついに国家は崩壊した。遊牧民の侵入は帝国内に住んでいたゲルマン人の文化と社会にも衝撃を加えて不安定化させ、大陸の東部、中央部に残っていたゲルマン部族の方が、大陸の西部、南部のローマ帝国圏内に住むゲルマン人たちよりも安全で裕福になる事態が生まれた。現在のポーランド地域の北東の端にはバルト人部族が残っていた。このラ・テーヌ文化の時期は紀元前450年から紀元前400年までのラ・テーヌA期、紀元前400年から紀元前250年までのラ・テーヌB期、紀元前250年から紀元前150年までのラ・テーヌC期、紀元前200年から紀元前0年までのラ・テーヌD期に分けられる。続く古代ローマの影響を受けた時期は、その前期を0年から150年までとし、150年から375年までを後期とする。375年から500年までは民族移動期(前スラヴ時代)で、スラヴ祖語の諸言語の他にもいくつかの語派の言語が混在する時代であった。過去に支配的だった学術的見解では、スラヴ人は中世初期まで中央ヨーロッパには存在しなかったというものであるが、近年はスラヴ人の祖先であるプロトスラヴ人の一部(ポーランド人の血統的な基幹、中世初期に新たに東方からやってきたスラヴ人とは多少異なる文化集団)が古代より現在のポーランド全域に定住して、この地域の古代文化(「プシェヴォルスク文化」)の一部を形成していたという見解が有力になっている。これは古い地名・当時の部族名・村落跡などの状況証拠をもとに19世紀後半よりしばらくの間は盛んに唱えられていた説であるが、当時はまだ学術的にそれを支持する火葬墓などの決定的証拠がほとんど見つかっていなかったため、スラヴ民族至上主義による根拠のない政治的俗説と扱われ、6世紀ごろまでスラヴ人が存在しなかったという説に圧されて立ち消えになっていたというのが実情であった。ポーランドでは、この西方文化集団と別に中世初期に東方から中央ヨーロッパにやってきた新たな文化集団がまずヴィスワ川上流域およびポーランド地域南部のいくつかの地域、およびマゾフシェ南部に定住した。この東方文化集団はドニエプル川上流・中流域を原住地としており(「チェルニァコフ文化」)、5世紀後半に移住を始めたが、その半世紀後、彼らの一部はゲルマン人部族によって居留地を追い出された。この最初の定住地域から、東方文化集団は6世紀を通じて北部、西部に拡がり、7世紀までに西方文化集団と急速に同化して発展、「スラヴ人」として歴史に登場することになる(「プラハ・コルチャク文化」)。小麦の耕作地にすみついた彼らは農耕と牧畜を始めたが、一方で広大な森林を利用した狩猟や採集をも生活の手段とした。東方からの新たなスラヴ人たちの移住は平野土壌を求めるた。フン人、アヴァール人、マジャール人らのアジア東方の人々が東欧、中欧への侵略を始めたため、彼らの影響を避けるために西へ移動したという事情があった。西スラヴ人の一派であるポーランド諸部族は、8世紀の初めに小規模な部族領を形成し、これらの諸部族は後に連合してさらに大規模になった。9世紀のバイエルンの地理学者の記録にリストアップされた部族の中には、ポーランド南部にいたヴィシラン族(Wiślanie、ヴィスワ族)がいる。彼らポーランドのスラヴ人の中心地域はクラクフとヴィシリツァといった、ヴィスワ川上流地域だった。主な要塞集落の建設とその発展は、9世紀に起こった。『聖メトディオスの生涯』の記述によれば、9世紀後半の間に、ヴィシラン族は大モラヴィアに従属し、モラヴィア崩壊後の10世紀にはチェコ人国家の一部をなした。部族連合は7世紀以来、グラドと呼ばれる、土と木の板と堤防で作った要塞に囲われた集落を数多く築いた。これらのグラドの一部は発展して人口が多くなり、それ以外のグラドは空の区域となって、緊急時の避難場所として使われるようになった。10世紀初頭までに、後にポーランド国家を建設することになるポラン族(Polanie)とゴプラン族(Goplanie、ゴプワン族)は、現在のヴィエルコポルスカを居住地としていた。「ポラン」の名は「平野の人」を意味している。両部族はギェチュ、ポズナン、グニェズノ、オストルフ・レドニツキの周辺の平野部を拠点としており、いつごろこの地方にやってきたのかは不明であるが、その数世紀前よりシレジア地方から勢力を拡大してきたとみられる。彼らが拠点としていたこのヴィエルコポルスカが初期ポーランドの中心地域となった(また、同地方の地名はポラン族に由来する)。彼らは早期に要塞化された居留地を建設して10世紀前半には支配領域の拡張を始め、同世紀後半には彼らの部族体がポーランド国家の原型へと発展した。同時期、年代記作者ガルス・アノニムスによれば、ポラン族は「車大工のピャスト」という人物の家族を支配者としていた。この支配者のうち、初めて名前が歴史に現れるのはミェシュコ1世で、その名は『ザクセン年代記』の作者コルヴェイのヴィドキントによって言及されている。彼によれば、ミェシュコの軍隊は963年、ザクセンから亡命してきた貴族ヴィヒマン2世と同盟したヴェレト族に、2度敗北を喫している。このミェシュコの治世(960年頃 - 992年)の間に、彼の率いる部族国家はキリスト教を受容してポーランド国家を形成した。この時期の初め、ポーランド民族は一連の強力な統治者に統率された。この統治者たちはポーランドをキリスト教に改宗させ、中央ヨーロッパの強国にのし上げ、そしてヨーロッパ文化圏の仲間入りをさせた。13世紀、恐ろしい外敵の侵略と内部分裂によって、この初期国家の構造的安定は崩壊したが、1300年代の地域統合は強力なポーランド王国の基盤を築くことになった。ポラン族(ポラン族とゴプラン族の連合部族、別称はレフ族)たちは、10世紀にアラビアのユダヤ商人イブラヒム・イブン・ヤクブの年代記の中で、歴史上初めて言及されている。966年、神聖ローマ皇帝オットー1世は、ポラン族の首長ミェシュコ1世に公の称号を与えた。ミェシュコはその数年前、スラヴ人に対する遠征を行っていた辺境伯ゲロ1世を打ち破った際、皇帝との同盟締結を約束されていた。ミェシュコ1世(930年頃生まれ)と、その息子ボレスワフ1世は、同盟締結によって皇帝から自分たちポラン族の土地の一部を保証された。ポラン族の西隣にソルブ族(ラウジッツ人)やポラブ族やオボトリド族といったスラヴ部族が居たが、神聖ローマ帝国とその諸公国は彼らの土地を辺境統治地域として支配していた。北隣のポメラニアにはポモージェ族(ポメラン族、「ポモージェ」とはスラヴ語で「海の手前」の意味)やリューグ族(リューゲン族)というスラヴ部族が暮らしていた。ポーランド人の公(君主)たちは、帝国の敵対者、臣下、同盟者と抜け目なく立場を変えながら、ドイツ人やデーン人と同様、これらの部族が住む地域に支配地を拡張していた。ミェシュコの時代に支配下にあった地域は正確には分からないが、ヴィエルコポルスカ、マウォポルスカ、マゾフシェ、シロンスクそしてポモジェ(ポメラニア)の一部を包含していたと思われる。ミェシュコはおよそ25万km²の土地を支配下におさめ、そこには少なくとも100万人が住んでいた。ミェシュコはチェコ公ボレスラフ1世の娘ドブラヴァと結婚し、966年にローマ教会の主導でキリスト教に改宗した。君主の改宗はミェシュコの公国における大規模なキリスト教改宗を引き起こし、このことは政治的に重要な事件となった。これによってポーランドはキリスト教西方世界の一員となったからである。またチェコとの同盟によって、ミェシュコはドイツ人の拡張に共同して戦うことになった。彼は慎重にドイツ人の政治的影響を避け、ローマと直接つながっていたチェコ人の聖職者から洗礼を受けている。967年、ミェシュコ1世はヴィヒマン2世伯とその同盟者を倒した。972年にはツェディニャの戦いで、皇帝の辺境伯としてポモジェを支配していた辺境伯オード1世に勝利した。ミェシュコが992年に死ぬと、息子のボレスワフ1世が強大に成長した公国を受けついだ。ボレスワフは父の偉業を引きついだ。彼は継母オデと彼女が生んだ異母弟たちを追放して国家の統一を維持した。西暦1000年のグニェズノ会議の決定により、ボレスワフと神聖ローマ皇帝オットー3世は、ポーランド最初の大司教区(グニェズノ大司教区)を創設した。オットー3世が1002年に死ぬと、次の皇帝になったハインリヒ2世と敵対したボレスワフは、マイセン辺境伯領とラウジッツ(ルサティア)を占領した。このことは1033年まで続く帝国との紛争を引き起こした。ボレスワフは1003年にボヘミアを占領したが、翌年にはこれを喪失した。また彼は東隣のルーシを攻撃し、1018年にはキエフにまで攻めのぼった。その後、ボレスワフは皇帝ハインリヒ2世と同盟することを余儀なくされ、領地を帝国の封土として保証された。1024年、ハインリヒ2世は崩御した。翌1025年、死を目前にしたボレスワフは王として戴冠した。彼の戴冠はポーランド国家の政治的、領土的な独立の画期となった。ミェシュコ1世はピャスト朝(一族の始祖とされる伝説的な農夫の名前に由来)最初の君主とされており、この王朝は4世紀にわたって存続した。965年から992年の間、ミェシュコは北はバルト海に接する地域から、南はマウォポルスカまでという広大な地域を領していた。990年にローマの聖座の権威に公的に服したことで、ミェシュコの公国は東ヨーロッパにおけるもっとも強大な国家の一つとなった。ミェシュコの息子で後継者の勇敢王ことボレスワフ1世(在位992年–1025年)は、父の遺産をさらに大きくし、中世前期における最も偉大なポーランド君主となった。ボレスワフは神聖ローマ帝国に従属する姿勢を続けたが、その一方で領土獲得レースではどの地域でも優位に立っていた。帝国と対等な関係を築こうとする努力は無駄に終わったが、ボレスワフは1003年と1004年の帝国との戦争でいくつかの領土を獲得した。その後ポーランドは東に転じ、公国の国境を現在のウクライナにまで拡げた。死の直前の1025年、ボレスワフは最初の国王となり、ポーランドの完全な主権を国際的に認めさせることが出来た。その息子ミェシュコ2世は1025年、父の死後に戴冠した。しかし多くの地方領主たちは、国王による単独統治を恐れていた。この事態は国内において紛争を引き起こし、ミェシュコの兄弟は彼に反抗し、皇帝コンラート2世の軍隊が国内に侵攻してラウジッツを包囲した。混乱と紛争の時代が幕を開け、ミェシュコ2世は廃位と短い復位の後で、不可解な状況下に死去(1034年)。カジミェシュ1世(在位1037年 - 1058年)の治世は短い安定期だった。カジミェシュ1世は国内を統合し、その後継者ボレスワフ2世は皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との紛争を上手く利用して、1076年に国王として戴冠し、地方領主たちは再び反乱をおこし、ボレスワフ2世を廃位した。弟のヴワディスワフ1世ヘルマンが後を継いだものの1102年にはやはり廃され、権力は2人の息子ズビグニェフとボレスワフ3世に渡ったがボレスワフ3世はズビグニェフを1107年に国外に追放し、1112年にはこの異母兄の両目を潰し、政治的に葬った。ボレスワフ3世は1106年に国家の統合に成功し、その後も統一国家を神聖ローマ帝国から防衛した。彼はポーランドが以前に征服した領域を再征服し、ポモジェを含む広い領域を一時的に回復した。ボレスワフは1138年、死の直前に国家を自分の息子たちの間で分有させることを決めた。長子権の原則によって、ボレスワフ3世は息子たちへの遺言状という形でポーランド国家をシロンスク、ヴィエルコポルスカ、マゾフシェ、サンドミェシュおよびクラクフの5つの公国に分割した。最初の4つの公国は独立君主となった4人の息子たちに相続された。第5の地域、クラクフ領は諸公たちのうちの長子(というより最年長者)に与えられた人物がクラクフ大公を称し君主となることが決まった。ボレスワフ3世が死ぬと間もなく、長男ヴワディスワフ2世は、弟たちから公国を奪うことでポーランドの統一を回復しようと考えた。彼の政治理念は、中央集権化が自らの利益と影響力にとって損失になると気付いていた教会および大貴族たちから、猛反対を受けた。グニェズノ大司教は大公を侮辱し、国内の2人の大貴族が大公に対して軍事的攻撃を開始した。内戦が勃発し、これに介入してきた皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの援助も空しくクラクフ大公は敗北し、初期ポーランド国家の分裂と18世紀まで続く国王権力の衰退の始まりとなった。シロンスク公国、ヴィエルコポルスカ公国およびマゾフシェ公国は更に小規模な分領公国へと分裂していき、分割と統合を不安定に繰り返した。分領諸公たちの利害関心と嫉妬が、絶え間ない戦争状態を生んでいた。クラクフ統治者はポーランド公(Dux Poloniae)の称号を保ったがその政権の安定は貴族や聖職者との良好な関係の維持にかかっていた。カジミェシュ2世(在位1177年 – 1194年)は貴族と聖職者の評議会の要求に従い、君主としての権利および特権の一部を手放した。彼はさらに、国家の重要事の決定の際は評議会を召喚して決定権を委ねることまで承認した。1180年にウェンチツァで開かれた教会会議において、職務禁止命令を課されそうになった教会は、逆にポーランド公に対して、死亡した司教の個人的財産を接収すること、および役人や代理人を使って徴税をすることを禁じた。これらの譲歩と免除の見返りとして、評議会は長子領を廃止し、カジミェシュ2世の直系子孫にクラクフ公国の世襲相続権を認めた。こうして法律により、ピャスト王朝の長子権はカジミェシュ2世の系統に与えられた。1205年、レシェク1世と弟のコンラト1世マゾヴィエツキは、ザヴィホストの戦いにおいてルテニアの統治者ロマンに対する大勝利をおさめ、この英雄を戦死させた。また同年、ポーランド人たちはルテニアに侵入してきたというリトアニア人と呼ばれる異教徒の存在を知った。世襲化された長子権は、頻繁に軍事的な挑戦を受けた。クラクフ公の権威は法によって十分に明示されておらず、実際の政治の場面においては無視されていた。小公国の統治者たちは事実上の独立君主で、防衛や攻撃を目的とした戦争のための軍事同盟を結ぶことも、和平を結ぶことも、独立的な慣習法を守ることも出来た。13世紀のポーランドは、もはや統一的な政治体とは言えなくなっていた。以前の国家主権は数多くの独立政治組織に拡散し、ポーランドは言語、人種、宗教そして習慣によって結ばれているだけであった。諸公の権限は理論上は無制限であった。「神の恩寵により」その地位を授けられた諸公は、自らの領土においては専制君主として振る舞えるはずだった。ところが現実には、彼ら諸公の権力は、自分に従うバロン(直臣)と聖職者の勢力の強弱や、競合状態にある他の諸公に対して能力が優れているか否か、に左右されていた。13世紀にはバロンや聖職者が強い権力をもつようになった。この2階級は広大な領地を獲得し、領地内に住む住民に対する裁判権まで有していた。教会は優れた組織力、財力および民衆に対する倫理的な支配力を駆使して、恒常的な権力拡大を続けていた。グレゴリウス改革を採用すると教会はますます独立性を高め、司教の任免権限すら君主から奪ってしまった。公の評議会(Colloquia)に出席することで、教会はバロンたちと結託して公国の国事に対する直接的な支配力を及ぼそうとした。公の評議会は公国の重要事に関しての相談が必要な場合に召集されていた。公の親族に加え、バロンや高位聖職者も会議に招かれるようになったが、彼らは内政のみならず外交政策に関しても取り決めを行うようになった。参政権の付与、課税など住民の福利に関わる事項はこの評議会で取り決められるようになり、また時に評議会は公の宮廷に伺候することもあった。この評議会は後に発達していったセナトの原型と考えられている。ポーランド国家構造と主権の変質とともに起きたのは、内部紛争と経済的、社会的な衰退だった。は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している。教皇にプロイセンのドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。モンゴル侵攻を始めとする外国勢力の侵入のため、小規模な公国群は急激に弱体化した。11世紀初頭、ドイツでは東方植民で帝国の好景気による人口増加に伴い、他国の進出と近代化の開拓が進んだ。12世紀頃、彼らドイツ人は東方植民の目的として都市や工房を建設、各地に都市を形成し国を近代化していった。13世紀この動きはさらに強まった。ドイツ系住民の急増は現在のガリツィア、南シロンスクを含む地域で見られた。モンゴル侵攻以前には、この地域は人口が多くポーランド国内で先進地域で東方およびレヴァントとバルト海および西ヨーロッパとを結ぶ経済的な主要ルートだった(琥珀の道)。クラクフとヴロツワフは経済的に繁栄した都市だった。この時期のモンゴル侵攻の影響はポーランドの文化や原語にも影響を与え、モンゴル侵攻によるポーランドの荒廃時期は3度目のモンゴル侵入(1287年)であり、しかも破壊はマウォポルスカに限られるとした。多くの住民が捕虜として拉致され、避難できた者たちは北部に逃れ、マゾフシェのヴィスワ川東岸にある森林地帯を切り開いて定住したりした。モンゴルが去って間もなく、ドイツ人たちの定住は前からいた住人の小規模な抵抗を受けながら進んでいった。彼ら新移民は、数百年前から農地として開墾されていた土地を占有しただけだったた。原生林を切り開くのでも、完全な野生の世界に植民するのでもなかったが、ドイツ人たちは未開拓地へと招聘されることもあった。ドイツ騎士団の支配と共にドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌と元々恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。移民仲介事業主(ラテン語のvillicatorで呼ばれる)たちは、多くの移民を連れてきたり受け入れたりし、この事業に従事することで報酬を得、移民に築かせた居留地の首長(woyt)となったうえ、この居留地に対して世襲的な課税権を持っていた。この権利は譲渡や売買も可能だった。また彼ら事業主は居留地の判事として司法権も握っていた。事業主は騎士あるいは徴税人に対する義務以外に義務を持つことはなく、公に対してのみ責任を負っていた。招聘した公の領地にばらばらに住みついた移民たちは、市庁舎や市場、教会を中心街に設置した都市を建設していった。通りは放射状に中心街と結びつけられていた。町は土塁や掘割に囲まれており、それらの外側に耕作地、牧草地、林があった。移民たちは都市建設にあたって、故国の習慣通り自治を行う特権を与えられた。長年にわたり、法的な形式は様々に異なるものの、移民たちは税金を完全に免除されていた。そして一定の期間が過ぎると、公の国庫に対して年毎の税を課せられた。税は現金で支払われており、ポーランド人のように現物納税や労働奉仕という形を取らなかった。彼らは時に、軍事物資の補給や軍事的奉仕のため、防壁や塔、城門を維持・修築することをも要求された。移民たちの町は故郷の慣習通りの法を与えられ公の代理人から干渉を受けることもなかった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法をつかさどった。法廷の判決に対する上訴は、公の法廷ないしドイツの都市の上級裁判所に対して行われた。行政は、住民によって選ばれるか公によって任命を受けた(この決定は市の特許状の内容で決まる)、市長とその助言者によって構成される市の評議会が運営していた。職人たちはギルドを結成し、製造品の質と値段を規制していた。公は都市の特許状付与についての全ての権威を持っており、時にこの権威を公国内の聖俗の封建領主に与えていた。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ商人と一緒に招聘された。騎士団主導により都市建設と並んび、ポーランド先住民達も市を建設しドイツの法、習慣、制度を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった)。クラクフ、ルヴフ、ポズナン、プウォツクなどの古い都市には、多くのドイツ語を話す移民が流入してきた。ポーランドの慣習法はドイツのマクデブルク法に取って代わられた。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。(ラテン文字は12世紀に導入し、話し言葉だけのポーランド語を記載できるようになった。)マクデブルク法による都市化との成長と同様に、ドイツ法の適用された村落のへの入植も進んだ。未開墾地に移民を居住させるために、公は未開墾地に対しては長年にわたって免税措置を行った。こうした未開墾地の移民は完全に自由の身だった。移民の組織者である公に年に1度の地代を支払う以外には未開拓地の移民に義務はなく、さらに彼らは世襲的に土地、製粉場、酒場を受け継ぐ保証を与えられた。徴税人と移民組織者は、こうした地域への軍事奉仕を行い、村の保安官として振る舞い、また村人に選ばれた判事の議長役を務めた。村落における行政も、都市と同様に故国、故郷のルールが適用されていたし、また庁舎や評議会も都市のそれと大差なかった。公の同意を得れば、バロンや高位聖職者たちは新しい居留地を建設することも、自分たちが領する昔から存在していたポーランド人の村落にドイツ法を適用することも可能だった。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、後にそれがポーランド文学の発展に役立った。1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は隣国の異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年クルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認め騎士団はプロイセンの領有権を得た。移民の受け入れは地方領主たちの主導で行われたため、移住がきわめて頻繁になり、このことはポーランド国家の行政、経済、そして特に政治生命に対して大きな影響を与えた。同時期にユダヤ人も多くに移住してきた。ユダヤ人は、ヨーロッパ全域で展開される反ユダヤ主義の迫害を受け、1264年にヴィエルコポルスカ公ボレスワフが公布したカリシュ法令により、ユダヤ人はポーランドに避難してきた。(他の事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した)彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランド最初の硬貨(ヘブライ語が印刻)発行などに携わった。この法令は、ユダヤ人は法の保護を受け、また彼らの共同墓地、シナゴーグその他の聖所を辱める者は重罪を課せられることを定めたものだった。同時期、ヴロツワフのヘンリク4世もユダヤ人を「儀式殺人」で告発した者を厳罰に処することを定めたが、この「儀式殺人」はポーランドとは限らずヨーロッパ全体を覆っていた反ユダヤ感情が作り出したユダヤ人に対する典型的な冤罪で、ユダヤ人たちが何らかの秘密の儀式のためキリスト教徒などを捕まえては生贄にしているというものだった。それでも敢えてこの儀式殺人を告発しようとする者は、3人の非ユダヤ人および3人のユダヤ人からなる計6人の証人を必要とし、さらに告発を満たすだけの証拠を立証出来なかった場合は、告発者が有罪となって重罪を課せられるのだった。そもそもポーランドの支配者たちはこの儀式殺人とやらの噂の根拠の怪しさに気づいており、儀式殺人があったとする告発に対しては立件の条件としてこのような厳しい制限をつけた。ユダヤ人が社会に適応してポーランド人とある程度の共生を実現していく一方で、教皇の使命を受けているドイツ移民たちは、より積極的な態度を取り、当初はポーランド国家の支配を目論んだ。ポーランドの新しいの支配者たらんとする富裕なドイツ系都市民たちの野心は、マクデブルク法により教会の主要なポストの大部分を占めていたドイツ出身者の聖職者たちの支持を受けた。レシェク2世(在位1278年 – 1288年)、その後を継いだヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動がおこったりした。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動もまた起きて、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが彼らかを統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも元々のポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。国家の再統合への機運は13世紀末まで現れなかった。1278年までに、大公プシェミスウ2世はかつての王国のかなり広い地域に対する支配権を取り戻した。プシェミスウ2世は1295年には国王として戴冠したが、翌1296年に暗殺された。彼の死後、統一運動のリーダーとなったのはヴワディスワフ1世だった。ボヘミアなどの敵対者に何度も敗北したものの、ヴワディスワフはハンガリーの援助で1314年までに国内における権力を確立した。1320年までに、彼は国内・国外における連携を調整し、十分な国土を領する独立ポーランドの国王であることを諸外国に認めさせた。1320年1月20日、ヴワディスワフ1世は戴冠した。この戴冠はポーランドの歴史における新時代の幕開けとなった。1333年、ヴワディスワフ1世の王位は息子のカジミェシュ3世に引き継がれた。彼は父の事業を継続し、その治世中にポーランド国家は近隣諸地域に影響力を及ぼすまでに強大化した。多くの城が新築され、多くの居住区が要塞化された。こうした偉業から、カジミェシュ3世はポーランドの歴代国王の中で唯一「大王」と称される人物となった。対外的には、カジミェシュはボヘミアと東方拡大を目指すドイツ騎士団の両者に譲歩することで、国際的な地位を高めた。外交面での成功でポーランドを対外的な脅威から逸らす一方、カジミェシュ3世は国内統合を強力に進めてた。。カジミェシュの治世中で最も有名な出来事は、まず1364年、クラクフにポーランドで最初の大学であるアカデミア・クラコヴィエンシス(後のヤギェウォ大学)を創設したことである。1364年、クラクフ会議においてボヘミア王カレル(皇帝カール4世)と、ハンガリー王カーロイ1世の紛争を調停し、ポーランドをヨーロッパ強国の地位に復帰させ、男子がいなかったため、カジミェシュ3世はクヤヴィのピャスト朝最後の君主となった。1370年にカジミェシュ3世が死ぬと、王国は数年の政治的な不安定期に入った。王の後継者に定められた孫のポモジェ公カジミェシュ4世は、ハンガリー王ラヨシュ1世によって排除された。14世紀に達成された国家再建により、ポーランドはその絶頂期への胎動を始めた。1370年から1382年までの12年間、ハンガリー王ラヨシュ1世がポーランド王を兼ねた。ラヨシュはフランス王家カペー家の流れをくむアンジュー家出身で、母エルジュビェタ(ハンガリー名エルジェーベト、1305年 - 1380年)はヴワディスワフ1世の娘、カジミェシュ3世の姉だった。ラヨシュは王国の統治を母親に任せたほか、ポーランド領をハンガリー領に組み入れたりした。ラヨシュ1世には娘しかおらず、ポーランド王位は再び適当な相続人を欠いた。娘のうちマリアは皇帝カール4世(ボヘミア王を兼ねた)の息子ジギスムントと婚約しており、その妹ヤドヴィガはオーストリア公ヴィルヘルムと婚約してウィーンにいたが、長姉のカタリンが1378年に死ぬとハンガリーに呼び戻された。1381年、マリアの婚約者であるブランデンブルク辺境伯ジギスムントは、異母兄のローマ王ヴェンツェルによってクラクフへ送り込まれた。ハンガリー王位とポーランド王位を相続する予定のマリアと結婚した暁には共同統治者となるため、ポーランド語を学び、ポーランド人の間に支持を得ておくためであった。ジギスムントはカジミェシュ3世の曾孫で、統治するブランデンブルクとポーランド双方に国境を接するノイブルクを相続していた。しかし1382年にラヨシュが死ぬと、クラクフ大司教はドイツ人ジギスムントの婚約者マリアの即位を拒否して、妹のヤドヴィガを王と宣言し、ヤドヴィガは1384年、正式に戴冠した。ポーランド貴族は幼い女王を説得して許嫁ヴィルヘルムとの婚約を解消させ、夫にリトアニア大公国の統治者ヨガイラを迎えるよう取り決めた。リトアニアは1250年代に短い期間キリスト教国となったが、その後異教国家に戻っていた。1386年2月、ヨガイラはカトリックに改宗し、間もなくヤドヴィガと結婚した。ヨガイラはヤドヴィガの玄祖父にあたるポーランドの統一者に因みヴワディスワフの名でポーランド王として戴冠した。「ヴワディスワフ2世ヤギェウォ」の王名は、後世の人々による創作である。1385年から1569年にかけて、ポーランド、リトアニア、ボヘミアおよびハンガリーの王朝であるヤギェウォ朝の統治下で連合王国を形成した。この王朝連合の創始者はリトアニアのヨガイラ大公であった。この4カ国の提携はポーランド人、リトアニア人双方に大きな利益をもたらた。ポーランド、リトアニアは続く3世紀にわたってヨーロッパにおける最も強大な「帝国」の一つになり、精力的に近隣(遠方はロシアまで)に領土を拡大していった。ポーランドが、隣接するヨーロッパ最後の異教国家リトアニア大公国と提携すると、ピャスト朝末期に起きた両国の政治的、軍事的な紛争(ハールィチ・ヴォルィーニ戦争)でルーシ族(ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国を侵略し、ハールィチ公国はポーランド領にヴォルィーニ公国をリトアニア領に分割した。14世紀末、リトアニア国家の実体は好戦的な戦士集団の寄せ集まりで、現在のベラルーシやウクライナをも含む広大な領域を支配していた。両国はそれまでの敵愾心を捨て、ドイツ騎士団を始めとする共通の敵に立ち向かう必要に迫られていた。こうした問題がクレヴォ合同が結ばれた直接の動機であった。この協定に従ってポーランド女王ヤドヴィガはヨガイラ(ヤギェウォ)と結婚し、ヨガイラは「ヴワディスワフ2世」の名でポーランド王に即位し、新王は彼の臣民を代表しキリスト教の洗礼を受け、リトアニア人たちをポーランドの同盟に従わせ、実現の難しい政策を遂行することを求められた。リトアニアのキリスト教化が始まり、ヨガイラの臣民たちをローマ・カトリックに改宗させるため、1387年にヴィリニュス司教区が設けられた(東方正教会は大公国内で既に大きな勢力を持っていた)。この連合によりポーランドはドイツ騎士団によりモンゴル人(ワールシュタットの戦い)やタタール人の襲撃から国家を防衛することに成功し、リトアニアとポーランドはドイツ騎士団との長い戦争において提携した。ポーランド、ボヘミア、ハンガリー、リトアニア同盟は東ヨーロッパの国際関係に大きな影響力を及ぼすようになった。ポーランド、リトアニアは共同の独立国家を3世紀以上にわたって維持し形成することで大陸の強い国の一つとなった。1410年ポーランドとリトアニアの連合軍は、とグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団に勝利した。ヤギェウォ朝は続く数十年にわたって王国の領域と勢力の拡大を続けた。王朝連合は1526年、オスマン帝国の軍隊がモハーチの戦いで勝利を収めると同時に崩壊した。ハンガリー王・ボヘミア王だったラヨシュ2世がこの戦いで戦死すると、ハンガリー王冠とボヘミアはオーストリアのハプスブルク家に掠め取られて王領ハンガリーとなったからである。もっとも、ハンガリーの大部分はオスマン帝国になりオスマン帝国領ハンガリーとなった、ヨーロッパの地理的心臓部位置にトルコ人が定住し近隣地域を侵略した。ヤギェウォ朝は中央ヨーロッパにおける覇権を取り戻すことは出来ず、オスマン帝国の圧倒的優位はやがて中央ヨーロッパ全域がイスラーム国家の影響下に置いた。しかしモハーチの戦い以後の半世紀は、国家の政治的な最盛期とは合致しないものの、ポーランド人にとっては安定、経済的繁栄、文化的発展を経験した黄金期として記憶される事になった。ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国とクリミア・タタール人のクリミア・ハン国と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家の一つであったリトアニア大公国は自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった、国は封建制となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタが発展した。ヤギェウォ朝は様々な分野で、初期近代ヨーロッパのほかの地域とは違った特徴を持つようになった。特徴は政治の構造と運営でこの時期、ヨーロッパでは君主に権力が集中して蓄積されていく状況が生まれていたが、ポーランド・リトアニアでは土地所有貴族の主導による地方分権の政治システムが発展しつつあり王権が厳しい制限を受け続けていた。ポーランドの貴族たちは小作農たちの労働力を使って経営している大規模農場の主として、莫大な利益を得ていた(17世紀に入り穀物の相場が下がると多くの小作人が自らの財産を領主に売り渡すことで農奴となり再び中世初期の農奴制のような状況なった。「再版農奴制」と呼ぶ)。中世初期と異なり、この時代の貴族たちは農民に対して生殺与奪の権限を持っているわけではなかったが、農民たちは村の所有者である貴族の無許可では村を離れてはならなかった。(それでも各地の巡礼の旅に出ることなどは比較的簡単に許された)。貴族は全人口7-10%。貴族階級は財産や地位において様々な格差があるにもかかわらず、団結力をもった集団として国政に参与した。貴族たちは貴族(と僧侶と学識経験者)の議会であるセイムに対する王権からの多くの譲歩や保証を引き出し、これによってセイムは国政における決定的な支配力を獲得、ついには立法権を独占した。1505年、セイムはニヒル・ノヴィ法を成立させて、セイムの同意なしに新法案も成立しないことを定めた。国王アレクサンデルはこの決定同意を余儀なくされた。セイムは全会一致の原則を導入し、個々の貴族一人ひとりが主権を持つのだと見なした。政党の結成は認められないが、少数者の権利保護のため、ポーランドでは貴族グループが政治連盟(その時々に集まり行動する緩やかな政治グループ)を結成する習慣が認めたが、不満解消を目的とし政府に対して蜂起を認めたも同然だった。貴族らは原則的には国王を選挙で選ぶという重要な権利を持っていたが、ヤギェウォ家の人々は事実上の世襲王家とし公的に認められ立候補者はヤギェウォ家の血を引く人物が望ましいとされた。実際、ヤギェウォ家の国王たちは自分の息子を後継者として認めさせるために、貴族たちに特権を与え続けねばならず、必然的に王権は弱体化していった。ヤギェウォ朝は、名君の誉れ高いジグムント2世アウグストが息子を残さず死んだことで終わった。ヤギェウォ家の王朝的威信と一族が常に王位の相続人を提供していたことは、国家体制の破壊を抑制し、国家の結束を維持する上で必須の要素の一つであった。懐古的な立場を採る歴史家たちはしばしば、ピャスト朝時代の専断政治と比較して、ポーランド・リトアニア共和国の特異で慎重な政治システムが無政府状態を生んだとして低く評価している。その政治システムは18世紀の独立喪失の大きな原因となったが、しかし200年以上にわたって上手く機能していたし、当時のヨーロッパには馴染みのない市民的自由の精神を育んだ。貴族に与えられていた多くの法的保護は、現代の民主政治において市民に許されている諸権利を予見させるものであった。一方で、下級貴族を特権の大部分から排除したことは、貧窮貴族たちの間に強い不満を抱かせた。また16世紀初頭から、上級貴族たちは繁栄する農業経営の労働力を確保するため、法律によって小作農たちを事実上の農奴の身分に追い込んだ。イギリスの歴史家ノーマン・ディヴィスは、リヴェルム・ヴェト(自由拒否権)を意識しながら、この時代のポーランドの(準)民主主義の成功は同じ社会観と責任意識のある知的に優秀な人々の間の微妙な均衡のうえに成り立っていたとし、17世紀から悪化した混乱とその結果として見られるようになった無政府状態は、共和国が巨大化して社会の価値観の多様化が進みその均衡が崩れたことから起こったと考えている。この時期、ドイツ騎士団長やヨーロッパにおけるプロテスタント宗教改革に伴い、宗教改革は1523年および1526年にポーランドへと入ってきた。少数のカルヴァン派、ルター派、フス派の集団は、その出現した当初はローマ・カトリック教会による烈しい迫害を受けた。1552年、セイムは教会から異端であるとの宣告を受けた市民の処刑を停止させた。続く130年間、一貫してローマ・カトリックでありながら、信仰に関する議論を抑圧することを拒否し、大勢かつ様々な種類の宗教的臣従拒否者たちを保護していた。ポーランド・リトアニア、特にリトアニア大公国は特異なまでに民族的、宗教的多様性に富んだ人々で構成されており、ローマ・カトリック、東方正教、プロテスタントそして数多くの非キリスト教系宗教が共存する状況にあったのである。特に16世紀中葉以後、ポーランドは世界で最も多くのユダヤ人が居住する地域となり、その数は1582年の時点で15万人にのぼった。ヤギェウォ家の統治期、ポーランド・リトアニアはヨーロッパにおいてユダヤ人に対する差別が最も少ない国家であり、ユダヤ人は商人や貴族領地の管理人として生計を立て、シュラフタ貴族にもなった。カルヴァン派のプロテスタンティズム諸派については、その最盛期にはポーランド貴族の2割程度が信者となっていた。16世紀はおそらく、ポーランドの文化史において輝かしい時期である。ポーランド・リトアニアは、ヤギェウォ王家の宮廷が親しく交流していたイタリア人たちから深い芸術的感化を受けた。後期ルネサンスの様式や趣味がイタリアから輸入された。こうした影響はこの時期に最盛期を迎えていたクラクフ建築に今も見ることができる。同市は1611年にワルシャワへの遷都が行われるまで、王都としての地位を保っていた。クラクフ大学はコスモポリタンな学術の中心地として国際的な評価を獲得し、1543年には同大学の最も著名な卒業生であるニコラウス・コペルニクス(ミコワイ・コペルニク)が、天文学の常識を覆す地動説を発表した。この時期にはまたポーランド文学界の作品は従来通り西ヨーロッパで流行している様式を模倣したものだった。有能なディレッタントのミコワイ・レイは、自国語で作品を執筆した最初の著名なポーランド人作家である。エレガントなスノビズムで知られるヤン・コハノフスキ(1530年 – 1584年)は、ポーランド・ルネサンス最大の傑物として知られる。幾つかの文学ジャンルをマスターし、ポーランド語とラテン語を等しく使い分けるコハノフスキは、19世紀以前において最も優れたスラヴ語詩人として広く認められている。ポーランド・リトアニア国家の人口構成において、主流派であるローマ・カトリックやポーランド人は圧倒的多数というわけではなかった。この状況はポーランドがリトアニア大公国と同盟した結果、民族的ポーランド人が明らかに少数派となってしまったために生まれていた。当時、主流派であるポーランド人になるということは、民族的・血統的な指標というよりも階級的な指標によって決まる問題だった。「ポーランド人」というのは土地を所有する貴族たちに広く与えられていた称号のようなものであり、その成員は民族的ポーランド人であるか否かを問われなかった。一般的に、リトアニアに住んでいる非民族的ポーランド人の貴族たち(必ずしも民族的リトアニア人ではない)は、ポーランドの言語と文化を受け入れていた。その結果として、連合王国の東部地域においてもポーランド人あるいはポーランド化された貴族たちが、ポーランド人でもカトリック教徒でもない圧倒的大多数の農民たちを支配していた。この捩じれた状況は後世になって、[トアニア人]]、ベラルーシ人、ウクライナ人たちが民族運動を引き起こす原因となった。16世紀中葉になると、ポーランド・リトアニア国家は2つの脅威にさらされつつも、この多様性のある国家の支配体制を維持する方法を模索していた。同国を脅かす第1の要因は、15世紀後半から勢力を強めていたモスクワ・ロシアのツァーリ政府が、西隣のリトアニア大公国と、両国の間に存在するスラヴ人地域ルテニアをめぐってリトアニアに挑戦してきたことだった(モスクワ・リトアニア戦争)。2番目の要因は、国王ジグムント2世アウグスト(在位1548年 – 1572年)に男子の相続人がいないことだった。同君連合国家であるポーランド・リトアニアにとって、ヤギェウォ王家は2国を結びつける不可欠の紐帯であり、ジグムントの死でその連合関係は解消されることが決まっていた。こうした危機に対応するため、ポーランドとリトアニアの両国は1569年にルブリン合同に調印し、ヤギェウォ家支配期ののゆるやかな人的同君連合から、より強靭な制度的国家連合に移行して、政治的統一体「ポーランド・リトアニア共和国」を成立させた。16世紀後半、ポーランド・リトアニア共和国は選挙王制に移行し、国王は世襲貴族によって選挙されることになった。現在の国王が死ねば、国家は先王とは全く関係のない人物を王に迎えることが出来た。1572年、国王ジグムント2世アウグストが後継者を残さずに死んだ。政治システムはこの不測の事態に対して何ら備えが出来ておらず、新しい王を選ぶ方法も決まっていなかった。長いあいだ議論が続いたあと、共和国の全ての貴族身分が次の国王を決めることが定められた。貴族たちはワルシャワ近郊に集まり、「自由選挙」を開いて投票した。国王選挙は1573年に初めて開かれた。立候補したのはフランス王シャルル9世の弟アンリ(ヘンリク・ヴァレジ)、ロシアのツァーリ・イヴァン4世、皇帝マクシミリアン2世の息子エルンスト大公、そしてスウェーデン王ヨハン3世の4人だった。混乱を来した選挙に勝利したのはアンリだった。しかし国王となって4か月後、アンリは兄のフランス王が死んだという報せを受けた。アンリはポーランド王位を捨ててフランスへ逃亡し、フランス王アンリ3世として即位した。この国王自由選挙はポーランド分割が起きるまで続いた。選挙王となったのは順に、ヘンリク・ヴァレジ、ステファン・バートリ、ジグムント3世ヴァザ、ヴワディスワフ4世ヴァザ、ヤン2世カジミェシュ・ヴァザ、ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ、ヤン3世ソビェスキ、アウグスト2世、スタニスワフ・レシュチニスキ、アウグスト3世、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキである。共和国において見るべき業績を残せた選挙王はわずかであった。ステファン・バートリは大貴族家門を遠ざけることで、弱体化の一途をたどっていた王権の回復に努めた。ジグムント3世とその二人の息子ヴワディスワフ4世、ヤン・カジミェシュはスウェーデンの統治者ヴァーサ家の出身だった。彼らは失ったスウェーデン王位奪還のために外征を盛んにおこない最大領土も実現したが(1605年から1618年のロシア・ポーランド戦争ではモスクワを占領している)、ポーランド・リトアニアの政治的安定を犠牲にした。ヤン3世ソビェスキは1683年にオスマン帝国によるウィーン包囲を破ってこれを解放したが、これは二民族の共和国にとって最後の偉大な戦勝であった。最後のポーランド王となったスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキについては、その評価には論争が絶えない。彼は遅きに失したとはいえ、共和国に実効性のある建設的な改革を断行した。一方で、ポニャトフスキは、特にロシア帝国に対する、自身の精神的な弱さと決断力のなさから、国家を救うための諸改革を破滅に追い込んでしまった。ただしこの時代には名宰相も輩出した。特筆すべきはヤン・ザモイスキとスタニスワフ・ジュウキェフスキで、彼らは大法官(カンツェシュ、チャンセラーのことであり首相に相当)と共和国大元帥(王冠領大ヘトマン、これは名目的にはポーランド王国軍大元帥であるが事実上ポーランド・リトアニア共和国全軍の最高司令官)を兼ねた。ヤン・ザモイスキはステファン・バートリ王を補佐し選挙王政による国家の発展モデルを完成し、スタニスワフ・ジュウキェフスキはヴァーサ家の王たちの無謀で悲劇的な東方政策において議会を代表して対処した。ポーランド・リトアニア共和国は、ルブリン合同によって当時のヨーロッパで力を持ち始めていた絶対王政とは対照的な体制を選択した。「黄金の自由」がもたらす、近代民主主義に酷似した政治システムは、その受益者を貴族のみに限定していたものの、ヨーロッパの歴史において前例のない国家体制だった。この体制は、後に発達してゆくヨーロッパ立憲君主制の重要な実験例でもあった。下級貴族(シュラフタ)、上級貴族(マグナート)、選挙王の3身分の間で絶え間ない権力闘争が続く一方、市民権の価値は低下し、政府は運営能力と権威を徐々に失っていった。悪名高い自由拒否権は、17世紀中葉以後は議会の議事進行を麻痺させるために利用されるようになった。17世紀半ばに起きた破滅的な一連の戦争(最も有名なのは大洪水時代)の結果、ポーランド・リトアニアはヨーロッパの政治に影響力をもつ大国の地位を失った。この20年におよぶ戦乱の結果、共和国は人口の3分の1を失い、これは第2次世界大戦の犠牲者の人口比を上回る規模だった。とくにウクライナ・コサックの反乱フメリヌィーツィクィイの反乱は、反乱者のコサックたちをも含めて共和国の構成者たちにとって、共和国から自治を勝ち取ったとするコサックたちの高揚感のほかには何の利益ももたらさなかった。(それでもコサックたちはロシアの良いように騙され、コサックの自治領は最終的にはロシアに併合されることになっていった)。経済と生産力の衰退は、農業と農奴制に依存する貴族たちにとってさらなる打撃となり、国家の工業化を大幅に遅らせた。18世紀初頭までに、かつてヨーロッパで最も広大かつ最も多くの人口を抱える国の一つであった共和国は、ロシア帝国、プロイセン、オーストリアなど近隣諸国の緩衝国に成り下がった。近隣諸国はいまや共和国の国内政治をほぼ自分たちの思い通りに動かすことが出来るようになり、ポーランド王位は大北方戦争やポーランド継承戦争を通じて諸外国の利権と化した。18世紀半ばには、共和国は名実ともにロシア帝国の保護国とされた。東ヨーロッパにおける農業生産物貿易は、1580年代に食糧価格の上昇が打ち止めになったとき、最初の危機的兆候を迎えた。その後はアメリカ大陸から輸出されてくる安価な農産物の大量流入が農産物の市場価格に打撃を与えていった。農業生産物の価格の下落はその後も緩慢に続き、経済不況はまず西ヨーロッパを襲った。この影響を受けて、東ヨーロッパのフォルヴァルクと呼ばれる大規模農場に立脚した経済も、17世紀後半には経済不振が最高点に達した。さらなる経済不況は、西半球からの銀の流入に対応するため、1620年頃にヨーロッパで広く行われた平価切り下げを原因として起きた。

出典:wikipedia

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