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能勢電鉄妙見線

妙見線(みょうけんせん)は、兵庫県川西市の川西能勢口駅から大阪府豊能郡豊能町の妙見口駅までを結ぶ能勢電鉄の鉄道路線である。能勢電鉄が資本的に阪急電鉄との繋がりが強いこともあって、実質的に阪急宝塚本線の支線のような扱いとなっているが、阪急各線とは異なり山岳路線的な性格を持ち、トンネルも多い。本来は妙見山の能勢妙見堂への参拝客を当て込んで建設された路線であり、線形の悪い山間の路線を単行の小型車が行き交うようなローカル色の強い路線であったが、沿線人口の増大に伴い路線改良の必要に迫られ、大改造の末に現在のようなニュータウン路線へと変貌を遂げた経緯を持つ。現在では、能勢妙見堂の参拝客よりも、通勤・通学客の利用が主となっている。能勢妙見堂へは終点の妙見口駅で妙見の森ケーブルに乗り換えとなる。ただし、妙見口駅から妙見の森ケーブルの黒川駅までは若干の距離がある。日中は妙見口駅発着の普通列車と日生線の日生中央駅発着の普通列車を10分おきに運転し、それぞれ日生中央駅発着、妙見口駅発着のシャトル列車と山下駅で接続させることによって、線内全線で10分ヘッドのダイヤを維持している。優等列車では、平日朝夕に阪急宝塚線直通の特急「日生エクスプレス」が日生中央 - 川西能勢口 - 阪急梅田間に運転されているほか、朝ラッシュ時には上りのみ妙見急行も運転される。阪急線では廃止された土曜ダイヤを現在も使用しており、特に日生急行は土曜ダイヤのみの運転である。日生エクスプレスが阪急から譲渡された自社の6000系6002Fのほか、阪急の6000系、8000系、1000系による8両編成で運転され、それ以外は自社車両のみを使用し、川西能勢口発着列車は全て4両編成で運転されるほか、山下 - 妙見口間で運転される区間列車については2両編成も使用される。日生エクスプレス運転開始前は6両編成の列車も存在した。列車は日生エクスプレスを除き全てワンマン運転である。川西村の中里喜代吉は、妙見山の能勢妙見堂への参拝客輸送と、能勢の特産である三白(酒、米、寒天)と三黒(黒牛、栗、炭)の輸送を目的として能勢電気軌道株式会社を設立、阪鶴鉄道池田駅(現在のJR福知山線川西池田駅)から、現在の一の鳥居駅付近に至る鉄道を請願した。しかし、阪鶴鉄道池田駅を起点にすることは認められず、小花村字大畑三〇番地地先(現在の、猪名川西岸の阪急が交差する辺り)への変更を経て、現在の場所に定められた。これにより阪鶴鉄道との連絡は不可能となったため、当時建設中だった箕面有馬電気鉄道(現在の阪急宝塚線)と連絡させる目的で軌間も1,067mmから1,435mmに変更して建設することとなった。これに前後して、1912年には吉川村(現在の豊能町)までの路線も請願している。工事の認可は1910年に下りていたが、社内のトラブルなどにより建設は遅れた。1913年になってようやく能勢口(現在の川西能勢口) - 一の鳥居間が開業し、旅客と貨物の輸送を開始、貨物は当時沿線で製造されていた帝国鉱泉の三ツ矢サイダーが主であった。しかし、工事費用などの負債がかさみ、能勢電軌は1914年に破産してしまう。つぎに開業した区間は、会社再建の一環として、貨物の増収を図るために建設した能勢口 - 池田駅前間で、その三分の二が荷車によって能勢口駅から官線池田駅に運ばれていた三ツ矢サイダーの輸送を鉄道に振り替えることが目的だった。一の鳥居 - 妙見(現在の妙見口)間の建設は、着工が困難であったため先送りされていたが、その代替として同区間で行っていた乗合自動車事業の失敗により着工せざるを得なくなり、阪急の資本参加などにより資本金を増資して1923年に開業。これによりようやく全線開業にこぎ着けた。このようにして建設された路線には、半径100m以内のカーブが52箇所も存在した。一部のカーブは曲線が急すぎて連結運転も不可能なほどで、このためにラッシュ時などには続行運転をして対処していた。戦後までこのままで推移したが、連結運転を行って人件費を抑制するために1957年に阪急から10形・20形(元新京阪P-4・P-5形)を導入し、その際に半径30m以内の曲線を改良。1964年にも320形導入に備えて最小限の線形改良を行った。1960年代に入ると沿線の宅地開発が進み、輸送力の増強が至上課題となった。1966年には前述の320形を導入し、1967年には第1期複線化工事となる川西能勢口 - 鶯の森間の複線化を完了。第2期複線化工事となる鶯の森 - 平野間では皷滝 -多田間の併用軌道が解消され、軌道法から地方鉄道法に適用対象を変更して車体長や最高速度の制限を解除することが可能となった。つづいて、日生ニュータウンの開発に伴って平野 - 山下間を複線化する必要が生じた。ひとまず交通量の増加している国道173号の拡幅を目的として塩川信号所(1965年廃止) - 畦野間で線路の付け替えと複線化の下地作りが図られることとなり、1973年に完成。1977年には平野 - 山下間の複線化が完成した。同じ年には、光風台団地の開発に伴い、光風台駅の新設と駅付近の曲線改良も完成している。1983年には初めて大型車(1500系)を導入し、この際にトンネル断面の不足する笹部隧道は笹部第一隧道に付け替えられた。さらに、1997年には阪急宝塚線に乗り入れる特急「日生エクスプレス」が新設され、大阪の都心まで特急が直通するようになり現在に至る。かつては、川西能勢口駅から国鉄川西池田駅前にある川西国鉄前駅まで能勢電鉄の路線が延びていた。両駅の間は徒歩で連絡できる範囲にあるため、能勢電鉄の当該区間も744mに過ぎなかったが、線路の付け替えを除けば能勢電鉄で唯一の廃止区間となっている。「歴史」節で解説したように、三ツ矢サイダーを始めとする貨物輸送を目的として開業し、一時は同区間の収入が全体の収入の20%を占め、苦境に立たされていた能勢電軌の経営を支えていたこともある。しかし、昭和に入ると貨物輸送は次第にトラックに置き換えられ、戦後には全廃された。また、池田駅前から妙見駅までの全線を通しで運転する旅客列車も1955年には朝夕のみとなり、1959年には全廃。以降、川西国鉄前駅 - 川西能勢口駅間は同区間での折り返し運転のみとなり、完全な盲腸線と化した。車両は「本線」の車両大型化以降も小型車が使用され、1959年から1966年までは31形31・32、1966年から廃線までは50形51と60形61が専用車両としてあてがわれた。ただし、末期においては61は予備車扱いで、もっぱら51が使用されていた。当時は連絡する国鉄福知山線の本数も少なく、利用増の見込めない当該区間は、1975年2月以降は朝3往復・夕2往復にまで減便され(日祝日はさらに朝一往復減便)、川西能勢口駅付近の駅前再開発や連続立体化事業に伴って1981年に廃止となった。廃線跡は住宅地や駅前広場などに消え、その痕跡を認めることは難しいが、川西能勢口駅前には廃止を記念したモニュメントなどが設置され、かろうじて鉄道が走っていたことが窺い知れる。かつて能勢口(現・川西能勢口)から阪急伊丹線伊丹駅までの延長計画が存在した。1922年(大正11年)12月に能勢電軌は同区間の免許を申請。兵庫県側は難色を示したが、政府は翌年6月に免許を下付し、これを受けて能勢電軌は測量・設計に手を付け、1924年4月に軌道工事施行認可申請を提出した。しかし、兵庫県は延長部分と県道との交差部が県の指示に沿ったものでないとして、この申請書を県のもとに12年間もの間留め置いた。1935年4月に県はようやく申請書を鉄道大臣および内務大臣に通達するが、認可されるはずもなく翌年4月には却下された。戦後の1956年(昭和31年)に延長計画は再び取り沙汰されるが、建設予定地の市街地化が進み、もはや用地取得は困難になっていたため、1958年(昭和33年)に延長の計画は正式に断念された。なお、この他に吉川(妙見口駅)から妙見鋼索鉄道(現在の妙見の森ケーブル)黒川駅までの延長線を1925年に、同じく吉川から亀岡までの延長線を1949年に申請しているが、いずれも断念している。川西能勢口駅 - 川西国鉄前駅

出典:wikipedia

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