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ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)

ヨハネ・パウロ2世(羅:、英:、伊:、波:、1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ()。ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動の実践し、一党独裁にあった母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たした。生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行い、また、宗教間の問題に温和な態度で臨み、他宗教や文化との対話を呼びかけたことは宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、多くの信者・宗教関係者から尊敬されている。カロル・ヴォイティワは1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェに父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルはハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人であった。ヴォイティワは若くして家族の喪失を体験した。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。1939年、ヴォイティワが19歳のときにドイツのポーランド侵攻によってポーランドが占領されたことで、ヴォイティワが学んでいた大学が閉鎖されたため、鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優、脚本家としても活動していた。ヴォイティワは第二次世界大戦中の1943年に聖職者として生きることを決意したが、神学校の運営が禁止されていたため非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日に司祭に叙階された。優秀だったヴォイティワは司教の推薦でローマの教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学んだ。1948年には十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究で神学博士号を取得している。また、ヴォイティワはこの年にポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭としての職務を果たした。1953年にヴォイティワは『カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学に提出、その後もクラクフのヤギェウォ大学、ルブリン大学神学部で倫理神学を教え、1958年7月4日にピウス12世によってクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日に叙階した。時に38歳であった。1962年に始まった第2バチカン公会議にはクラクフ司教および神学者として参加し、特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 ()』および『現代世界憲章 ()』の成立に貢献した。1964年1月13日、ヴォイティワはパウロ6世によってクラクフ教区の大司教に任命され、1967年7月26日には同教皇によって枢機卿に親任された。1978年、パウロ6世の死去に伴って新教皇に選出されたのは当時65歳の(教皇としては若い部類に入る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世)であった。このコンクラーヴェに参加したヴォイティワは、これでもう次のコンクラーヴェに参加する事はないだろうと思っていた。ところがヨハネ・パウロ1世が在位わずか33日で死去したため、1978年10月に再びコンクラーヴェが行われることになった。こうして生涯2度目のコンクラーヴェに臨んだ58歳のヴォイティワが新教皇に選出された(10月16日に選出され、10月22日に就任した)。ポーランド人初のローマ教皇の誕生は故郷ポーランドにおいて、ナショナリズムの高揚とソ連への抵抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、ひいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。ヴォイティワは前教皇の遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名を名乗った。さらに前任者にならって教皇職にまつわる多くの虚礼や前時代的な慣例を廃止した。ヨハネ・パウロ2世は「旅する教皇」といわれたパウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世界を訪問し、「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどであった。最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまでに実に世界100ヶ国以上を訪問している。勉強熱心で、飛行機の中などでも学習し、訪問先の言語で簡単な演説をすることで有名だった。ヨハネ・パウロ2世は同年2月23日のローマ教皇として初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。また、ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の教義と故国ポーランドが戦争で焦土と化した経験もあって戦争に対しては一貫して反対の姿勢を取っており、2003年にイラク戦争の最中にアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が度々「神の加護を」「神の祝福あれ」としきりに「神」を引用して戦争を正当化していたのに対し「神の名を用いて殺すな」と不快感を示し、「イラクでのこの戦争に正義はなく、罪である」と批判していた。さらに1980年代後半以降の東欧の民主化運動において、精神的支柱の役割を果たしたともいわれている。特に、冷戦下で独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えている。ポーランドは国民の98%がカトリック信者であり、教皇が着任8ヶ月後に初めての故国訪問をしたが、熱狂的歓迎をもって迎えられた。ヨハネ・パウロ2世はワルシャワのユゼフ・ピウスツキ元帥広場に集まった人々に「恐れるな」と訴えた。その4ヶ月後の「独立自主管理労働組合「連帯」」が率いたストライキなどを経て政権は妥協路線を走り始め、1980年代後半の冷戦終結時には民意に押されて政権が民主路線へ転換している。なお、このような民主化運動への後援の姿勢がソ連を始めとする東側諸国の政府に脅威を感じさせ、後の暗殺未遂事件(後述)につながったという指摘があった。また貧困問題・難民や移住者の問題などの社会問題にも真摯な取り組みを見せた。ヨハネ・パウロ2世は他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会との和解への努力を行い、大きな成果を上げた。カトリックの教皇としては初めてのモスク、シナゴーグ、ルーテル教会の訪問や東西教会の分裂以来のギリシャ訪問を成し遂げた。また天台宗の大阿闍梨である酒井雄哉とも会っている。1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪れるなどユダヤ人への親近感を示し続けたことなどでも知られる。キリスト教がなした過去の罪についてを活発に行っており、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応、十字軍の正教会やムスリムへの行為への反省や、ガリレオ・ガリレイの裁判における名誉回復などを公式に発表している。ヨハネ・パウロ2世にとって、対内的には常にカトリック教会において存在する保守派と改革派の対立構造の間のバランスをどのように取っていくか、また対外的には、複雑化する現代社会の諸問題の要請にカトリック教会としてどう答えてゆくかということが常に課題であった。他方、従来と同様にカトリック教会において女性の聖職者を認めないなど教義的には保守的なことで知られ、1979年の最初の回勅「レデンプトーリス・オミニス」(『人間のあがない主』)から2003年の「エクレシア・デ・エウカリスティア」(『教会にいのちを与える聖体』)まで多くの回勅や使徒的書簡を精力的に発表している。特に議論を呼んだ1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)では、妊娠中絶や安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えた。また1980年代前半には、宗教事業協会(バチカン銀行)の主力取引行であったアンブロシアーノ銀行の破綻やロベルト・カルヴィ暗殺事件、極右秘密結社に高位聖職者が関与したP2事件などの、バチカンを揺るがすスキャンダルにも関わることを余儀なくされた。伝説的な初代教皇ペトロを除けば、31年7ヶ月教皇位にあったピウス9世についで歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長い治世を誇ったが、晩年はテロの後遺症やパーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみを受け、前任者が進めようとした宗教事業協会を中心としたバチカンの構造改革については積極的に関与せず、次代教皇への積み残し課題となった。2005年2月からはインフルエンザと喉頭炎による入退院を繰り返していたが、同年3月31日以降、感染症によって容体が悪化した。しかし、ヨハネ・パウロ2世は入院を拒否し住み慣れた宮殿の居室で療養することを選んだ。ヨハネ・パウロ2世の容態悪化のニュースを聞いた信徒たちがサン・ピエトロ広場に集まって祈りを捧げていると、そのことを聞いた教皇は「私はあなたたちと一緒にいる。ありがとう」と語ったといわれる。同年4月2日午後9時37分(日本時間:3日午前4時37分)、ヨハネ・パウロ2世は敗血性ショックにより84歳の生涯を閉じた。ヨハネ・パウロ2世の最期の言葉は「アーメン」だったとされていたが、2005年9月17日には最期の言葉が「父なる神の家に行かせてほしい」というポーランド語だったとも報道された。ヨハネ・パウロ2世の死去を受けて世界各地からローマを訪れた信者の数は約500万人に上り、うち約200万人はヨハネ・パウロ2世の故郷であるポーランドからの訪問者であったという。同年4月8日に行われたヨハネ・パウロ2世の葬儀は、参加人数において史上最大規模のものとなった。厳戒態勢の中でキリスト教国であるか否かを問わず世界の要人が多数参加し、弔問外交の場にもなった。なお、葬儀にあたって殆どの主要国からは国王や皇太子、大統領をはじめとする元首級が参列したにもかかわらず、日本からは川口順子首相補佐官(当時)・元外相が出席したのみであった。ヨハネ・パウロ2世の他宗教との対話推進という姿勢を評価して、キリスト教他派(英国聖公会、東方正教会など)やユダヤ教などの聖職者も多数参列した。カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズも参列したが、これはヘンリー8世によるイングランド国教会創設以来、はじめてのことであった。一般信者も世界各国から約30万人参列した他、サン・ピエトロ広場に入れなかった信者や一般市民は約200万人にも及び、ローマ市当局は彼らのために大型のディスプレイを路上に設置して葬儀の様子を実況中継する措置を取った。また、参列者によって満室になる宿が続出し、ローマ市当局は野宿する参列者のためにテントを無料で貸し出すなどの緊急措置を取った。式場で長年対立関係にあったアブドゥッラー2世ヨルダン国王と、カツァブイスラエル大統領が軽い挨拶を交わした光景も見られた。また中華民国の陳水扁総統の弔問に対して、同国と対立している中国から抗議声明が出された。葬儀後、ヨハネ・パウロ2世の遺体を納めた石棺はサン・ピエトロ大聖堂の地下にある墓地のヨハネ23世の石棺(ただし2000年の列福の際に取り出されて現在は大聖堂入口を入り右側に埋葬されている)の下の土中に埋葬された。一部の報道によればヨハネ・パウロ2世は生前に書いた遺書で、故郷での葬儀と埋葬を希望していたともいわれており、バチカンに埋葬した教皇庁の判断に異議を申し立てる声もあった。ヨハネ・パウロ2世の後継に就任したベネディクト16世教皇は、2005年5月13日にヨハネ・パウロ2世の列福調査の準備を始めたことを宣言した。以降、教皇庁内での審査の過程においてはヨハネ・パウロ2世は「神のしもべ」の位にあった。同年6月28日には正式の調査が開始された。通常、列福調査は死後5年を待たないと始めることができないが、ヨハネ・パウロ2世は特例として死後まもなくの調査開始となった。死後丸2年が経過した2007年4月2日にはクラクフでの調査が完了し、資料がバチカンの列聖省へ送付された。以降、同省内での審査の過程においてはヨハネ・パウロ2世は「尊者」の位にあった。2011年1月14日、ベネティクト16世教皇はヨハネ・パウロ2世を「福者」に認定し、同年5月1日に列福式を執り行うと発表し、予定通り同日に列福式が行われた。福者に認定される基準である「奇跡」は、パーキンソン病患者であったフランスの修道女がヨハネ・パウロ2世の死後に祈りを捧げると病気が快方に向かっていったという事例を挙げ、これを「奇跡」と認定した。列福に先立つ2011年4月29日、ヨハネ・パウロ2世の棺は墓から取り出されて列福式後に崇敬を受けた後、サン・ピエトロ大聖堂内のサン・セバスティアーノ礼拝堂の祭壇に再埋葬された。ここにはインノケンティウス11世の遺体が安置されていたが、4月8日に聖堂内の別の場所へ移葬されている。2013年7月2日、聖人になる条件である二つ目の「奇跡」が認定され、3日後の7月5日にはフランシスコ教皇がこれを承認し、列聖が確定された(なお同時にヨハネ23世も列聖が決まった)。9月30日には、同時に列聖が決まったヨハネ23世とともに2014年4月27日に列聖式を執り行うことが発表され、予定通り列聖式が執り行われた。これにより死後9年25日での列聖となり、近年では最速の記録となった。だがAFP通信の報道によると、イタリアで列聖式の直前の4月23日にこの教皇の為に作られた巨大な十字架が倒壊し、男性が下敷きになって亡くなっており、十字架の製作者の妻は「庇護の象徴だったのに、こうした悲劇を前にし、それが空虚に聞こえる」と語っている。1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はサンピエトロ広場にてトルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャから銃撃された。銃弾は2発命中し、ヨハネ・パウロ2世は重傷を負ったが、奇跡的に内臓の損傷を免れ、一命を取り留めた。事件当日はファティマの聖母マリア出現の記念日であったため、ヨハネ・パウロ2世は「聖母が弾をそらして下さいました」と語っていたという。アジャは逮捕され終身刑が宣告された(その後恩赦され、送還先のトルコで以前に犯した罪により服役)。1983年のクリスマスの2日後、教皇は狙撃犯人のアジャが収監されている刑務所を訪れた。2人は面会し、短時間の会話を行った。ヨハネ・パウロ2世は「私たちが話したものは、彼と私の間の秘密のままでなければならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟として話しました」と語った。2005年4月にヨハネ・パウロ2世の訃報を聞いたアジャは深い悲しみを覚え、喪に服したことが家族により伝えられている。2005年2月にヨハネ・パウロ2世自身が著書で「犯行は共産主義者によるもの」と発表、2005年3月には前月証拠書類として東ドイツで発見されていたとドイツ紙が報道した。それによると、事件は宗教の存在を否定する共産主義政党率いるソ連のKGBが計画し、トドル・ジフコフ率いるブルガリアや東ドイツなどが協力していたという。動機は、祖国のポーランドをはじめとする当時の社会主義圏(東側諸国)における反体制運動の精神的支柱であったローマ教皇の絶大な影響力を排除することと推察される。2010年1月18日、BBC・ワールドニュースでアジャがトルコの刑務所から釈放されたことを伝えた。2014年12月27日、アジャはサンピエトロ大聖堂を訪問し、ヨハネ・パウロ2世の墓に献花した。アジャは教皇フランシスコ法王との面会も求めたが、バチカン側に拒否された。1982年5月、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン=モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父で、保守派のフアン・マリア・フェルナンデス・イ・クロンに銃剣で襲われ、怪我を負った。神父はその場で取り押さえられ、6年の判決を受け、3年服役した。襲撃事件そのものは当時メディアで報道されていたため世界中に知られていたが、教皇が出血を伴う怪我をしていたことは2008年10月15日になって公表された。教皇の元側近であった枢機卿の回顧録を基に製作されたドキュメンタリー映画の中でナレーターを務めた枢機卿自身が明らかにしたとしている。

出典:wikipedia

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