アントニオ 猪木(アントニオ いのき、, 1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー、実業家、政治家。日本を元気にする会所属の参議院議員(2期)、日本を元気にする会代表。本名:旧リングネーム:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」(当初は「燃ゆる闘魂」)。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。元妻は、女優の倍賞美津子。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン」。プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていた程であったが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた。ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名。このリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある。なお、本名で活動中に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという。南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している(同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレスと国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である。1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる。日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)に追放処分を受ける(詳しくは密告事件を参照)。同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した。日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。この事件は当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。1995年(平成7年)12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。1996年(平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したジョージ・フォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたマイナー団体のプロボクシング世界戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。この「道」のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEなど、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場したり、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催するなどしている。2002年(平成14年)8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。2003年(平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める東京サーベルズを結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足、6月に旗揚げ戦を行った。娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。2007年(平成19年)7月11日、親交のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。2010年(平成22年)2月1日、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アリゾナ州フェニックスにて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで開催された第26回レッスルマニアにも登場し、観衆からの祝福を受けた。2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。2011年(平成23年)12月31日、「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催。2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。2012年(平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される。2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできないことをやる」と宣言した。なお、当時参議院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。1989年(平成元年)10月14日、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。この時の猪木はマスコミのインタビューで「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。10月25日、統一会派を組んだ民社党の配慮により質問に立った。1990年(平成2年)8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。これを追い風に、その後1992年(平成4年)7月の第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。1994年(平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反」、「収賄」、「右翼(日本皇民党)との癒着」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などの問題を告発するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に政治資金規正法違反については東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報に記載)。これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。一連の「猪木スキャンダル」もあり、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。なお、スポーツ平和党は2004年4月を以て解散した。2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の石原慎太郎立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた。同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し、18年ぶりの国政復帰を果たした。2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された。2013年7月25日から北朝鮮の朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席。平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談した。参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた。その後、北朝鮮のスポーツ教化委員長であった張成沢の打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。10月31日の参議院議院運営委員会理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定。しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討。11月13日の参議院本会議で懲罰動議が可決され懲罰委員会に付託して処分の是非や内容を審査することとなった。懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された。また、維新から党としての処分として、党員資格と党副幹事長職それぞれ50日間停止を言い渡された。さらに猪木を招待した張成沢が12月8日粛清され、公職追放された。そして12月12日に死刑判決を受け、即日処刑された。猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。しかし、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた。2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮に訪問した。猪木の訪朝はこれで27回目となる。2014年4月には同じ維新の会の松浪健太、石関貴史、阪口直人(衆)、清水貴之(参)の4議員とともにゴールデンウィーク中の再度の訪朝を計画した。維新の会は党として許可したものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した。同年6月、第186回国会の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対して菅義偉官房長官は7月7日の定例記者会見で、政府が北朝鮮への経済制裁を一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明、7月9日、猪木と上記の4議員にみんなの党の山田太郎参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、平壌市内の各施設や開城市などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った。2014年8月の日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加。党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。しかし、2014年12月12日に離党届を提出した。2015年1月8日に政党「日本を元気にする会」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。2015年1月21日にノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイ氏とイギリスで面会し同氏の日本訪問を要請、同氏はこれを受諾した。2015年9月の安全保障関連法案の採決のでは所属する日本を元気にする会が直前で賛成に転じたため。自らも賛成票を投じたが、数日前に反対派団体に「慎重な審議を要求したい」という書簡を出していたために、物議をかもした。6月2日、元気の会代表の辞任と共に、猪木の代表就任が報じられたが辞退。7月27日に会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、最高顧問を務めていた猪木は会派「無所属クラブ」に異動した。「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』(en)の挿入曲(作曲はマイケル・マッサー)であったが、猪木と対戦したアリから猪木に贈られ、それをアレンジしたもの。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:“彼を殺せ!”。“やっちまえ”程度の意味。中邑真輔の必殺技名でもある)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる。また高校野球の応援などでも使用されることが多い。1977年(昭和52年)にシングルレコード「アントニオ猪木のテーマ 炎のファイター/炎のファイター(パート2)」(演奏:マンドリル)が発売(東芝EMI IER-20307)。同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。B面には歌詞(作詞:なかにし礼)をつけた「いつも一緒に」(歌:倍賞美津子)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。2002年(平成14年)さまざまなバージョンを収録したアルバム「21世紀ヴァージョン 炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」(WBSS-20123)が発売。2006年(平成18年)韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、2007年(平成19年)にDJ OZMAが同曲を「疾風迅雷 〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年(昭和57年)2月27日に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「特定非営利活動法人 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が「ルールの無い命をかけた戦い」を申し入れた。その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは誤りである。この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、新間寿は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。水谷は1990年(平成2年)に死去したが、訃報を知った猪木は盟友の早すぎる死に涙したという。寛水流出身のプロレスラーには後藤達俊、松永光弘などがいる。1990年(平成2年)湾岸戦争が危惧される中、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木があることを決断する。それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行うため、バグダードに向かうと言うものだった。猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いと言う意味です」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。1990年(平成2年)11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となった。1990年(平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワンと対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介された。その後パキスタン人ジャーナリスト、フマユン・A・ムガールの計らいにより4度パキスタン遠征を行い、パキスタンでは毎年12月8日は猪木の日として登録されている。1991年東京都知事選挙に、かつてNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。その後スポンサー佐川急便の佐川清会長、総理大臣及び自民党総裁経験者で清和研創始者福田赳夫やその愛弟子森喜朗及び三塚博に説得され、出馬を断念し磯村と政策協定を結んだ。出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、東京スポーツの激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損で民事提訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となった。地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。なお、猪木の出馬撤回に触発され内田裕也が出馬している。1995年(平成7年)参議院出馬するが、1993年(平成5年)に佐藤久美子元公設第1秘書とスポーツ平和党前幹事長新間寿に告発された「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題」などスキャンダルが発覚。政治資金規正法違反については、時効となり、処分はまぬがれたがこの影響により落選。TBSテレビ・フジテレビ・ニッポン放送は、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全否定したが、マスコミから「なぜちゃんと反論しないのか」と聞かれ猪木は「めんどくせえ!!」の一言で終わらせた。なお、TBSテレビは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。「仕掛け人」の異名を持つ新間は猪木の出馬する参議院選挙に合わせ告発本の出版を計画していたが、参議院選が早まると急遽出版時期を繰り上げて、本の出版を理由に記者会見を開いた。新間は出版記者会見で、「女性の方は耳を塞いでください」と言って、「アントニオ猪木のPKO、それはパンパン、来い来い、オマンチョやろう」と放送禁止用語を生中継にもかかわらず発言し物議を醸す。その後佐藤はオーストラリア在住の日本人と結婚永住。現在は現地IT企業勤務。師匠の力道山が韓国を訪問していたことを知った猪木は、参議院議員時代の1994年(平成6年)9月に金容淳の招きで初めて北朝鮮を訪問し、何人かの要人と力道山の娘に会った。その後、20回以上北朝鮮を訪問している。猪木は世界 (雑誌)のインタビュー記事で、日本の政治家たちは北朝鮮問題に先入観を持っており拉致と制裁以外に何も言わない。戦前、戦後の知識を持たないため相手を理解せず日本の基準で判断して主張する。それでは相手と衝突するだけで何も進まないと批判している。拉致担当大臣が直接北朝鮮に行って対話と交渉をすべきで、国力の優位を利用して落ち着いた寛大な外交をするべきと主張し、「スポーツ交流を通じて世界平和を」を理念に国家間の話し合いのきっかけになっていきたいと語っている。2013年7月に26回目の訪朝をして北朝鮮政府の要人と会談をした猪木は、帰国後に日本外国特派員協会で記者会見を開き、拉致被害者名簿の信頼性や拉致問題を国際社会に訴えて解決することについて疑問を抱いていること、「拉致が解決したら、我々は幸せになれますかね?」と発言して独自の見解を示した。ただし、拉致問題の解決に否定的なわけではなく、SAPIO2015年2月号のインタビューでは「拉致問題担当大臣が10人以上も代わっているようでは、北朝鮮側もまともな交渉をすることはできない」「必要があるのなら、朝鮮労働党幹部と信頼関係を築いてきた私をいつでも使えば良い。選挙で拉致問題のパフォーマンスをしている議員とは違い、自分は命がけでやる」とし、2016年9月の31回目の訪朝中には現地の日本人女性3人と接触し「八十何歳とお年を召されている。そういう方々の『故郷に帰りたい』という夢を実現させたい。帰国できるように呼びかけていきたい」とも述べている。2016年5月に行われた朝鮮労働党第7次大会にて金正恩が党委員長に推戴されたことを受け、祝福の花かごを贈っている。なお、猪木の姿勢は時に国会議員からも賛否両論が飛び交うこともある。猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。かつて「さんまのまんま」に出演した際、明石家さんまに対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。「アントン・トレーディング」という貿易会社を設立。この会社は一時日本国内でのタバスコ(マキルヘニー・カンパニー)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。また、「タバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木」と言われることもあるが、事実ではない。(タバスコの項参照)また、新日本プロレスの興行を多数開催していた。スペアリブのレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「アントンナッツ(ひまわりナッツ)」を販売。ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。ブラジル政府を巻き込んだ国際的なプロジェクト「アントン・ハイセル」(1980年(昭和55年)に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、バイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった。このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されるが、猪木はこの事業に傾倒して行く。この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する。サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バガス)の弊害、公害問題である。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バガスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。これらの原因により、経営は数年で破綻する。マスコミ報道によれば、アントン・ハイセルのおよその負債額は数十億円とも言われ、テレビ朝日に放送権を担保に12億円の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川清佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。しかしこれが仇となり新日本プロレスでは初代タイガーマスク(佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動が起き、やがて猪木の社長解任劇に発展する。山本小鉄などの動議により猪木代表取締役社長と坂口副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、両者とも混乱の終結と共に数か月後に復帰した。なお、ブラジルではサトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は環境対策や2005年(平成17年)以降の原油価格高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「永久電気」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。研究開発には莫大な資金を投じ、新日本プロレスの経営にも悪影響を及ぼした。2002年にマスコミ関係者(スポーツ新聞やプロレス雑誌の編集者)を集めて永久電気の発表会を開いたことがあったが、実験は失敗に終わった。猪木の弁明は「ネジを一本締め忘れた」というものであった。2005年には、エネルギー効率97%の新型発電機「闘魂パワー」を発表している。東京・池袋に2006年(平成18年)、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「午後八時のプロレスを見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されており、プロレスにあやかった名がついた料理がメニューに並ぶ。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、焼肉屋さかいなどを傘下に収める外食産業大手のジー・コミュニケーションが行っており、猪木は経営には関与していない。ジー社は同ブランドのフランチャイズ展開を進め、沖縄・仙台・千葉・福岡・広島にも進出していたこともあるが、いずれも閉店。2016年(平成28年)6月現在、新宿店(2008年開店)が営業を続けている。同店ではトークショーや西口プロレスの公演が行われており、猪木本人もときおりイベントで来店している。その特徴的な尖ったアゴは猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させた。藤原喜明は「スリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と語っている。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「ペリカン野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。顎の形が花王の「月のマーク」に似ていることから、若手時代には「花王石鹸」というあだ名で呼ばれていたこともある。また、アメリカでタッグを組んだことがあるヒロ・マツダは、「猪木のアゴはジャーマン・スープレックスの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマン・スープレックスにはならない」と語ったことがある。かつて前妻の倍賞美津子がテレビ朝日「徹子の部屋」に出演した際に、猪木の顎の深さを図ろうと、寝ている間に口を開けて、中指と薬指の2本を入れてみたら全部入ってしまった、と語っている。(後にこの番組で放送された映像の一部はスポコン!で繰り返し放送された)テレビアニメ『タイガーマスク』では出演はしていないが実在の人物としてのアニメキャラが登場している、声は中曽根雅夫。2006年(平成18年)秋にフィールズが猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂〜」、「アントニオ猪木も燃える〜」の2機種はフィールズから販売されている。(コミックボンボン連載当初は「アンターワ猪金」であったが、単行本化の際に変更された)
出典:wikipedia
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