百人一首(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では、この小倉百人一首について解説する。小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。1.天智天皇秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみわが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ 2.持統天皇春過(はるす)ぎて 夏来(なつき)にけらし 白妙(しろたへ)の衣干(ころもほ)すてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)3.柿本人麻呂あしびきの 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)のながながし夜(よ)を ひとりかも寝(ね)む 4.山部赤人田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ 5.猿丸大夫奥山(おくやま)に 紅葉踏(もみぢふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の声聞(こゑき)く時(とき)ぞ 秋(あき)は悲(かな)しき6.中納言家持鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に 置(お)く霜(しも)の白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける7.阿倍仲麻呂天(あま)の原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも8.喜撰法師わが庵(いほ)は 都(みやこ)の辰巳(たつみ) しかぞ住(す)む世(よ)をうぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり9.小野小町花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらにわが身世(みよ)にふる ながめせしまに10.蝉丸これやこの 行(い)くも帰(かへ)るも別(わか)れては知(し)るも知(し)らぬも 逢坂(あふさか)の関(せき)11.参議篁わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと人(ひと)には告(つ)げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね)12.僧正遍昭天(あま)つ風(かぜ) 雲(くも)の通(かよ)ひ路(ぢ) 吹(ふ)き閉(と)ぢよ乙女(をとめ)の姿(すがた) しばしとどめむ13.陽成院筑波嶺(つくばね)の 峰(みね)より落(お)つる 男女川(みなのがは)恋(こひ)ぞ積(つ)もりて 淵(ふち)となりぬる 14.河原左大臣陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに乱(みだ)れそめにし われならなくに15.光孝天皇君(きみ)がため 春(はる)の野(の)に出(い)でて 若菜摘(わかなつ)むわが衣手(ころもで)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ 16.中納言行平立(た)ち別(わか)れ いなばの山(やま)の 峰(みね)に生(お)ふるまつとし聞(き)かば 今帰(いまかへ)り来(こ)む17.在原業平朝臣ちはやぶる 神代(かみよ)も聞(き)かず 竜田川(たつたがは)からくれなゐに 水(みづ)くくるとは 18.藤原敏行朝臣住(すみ)の江(ゑ)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(ぢ) 人目(ひとめ)よくらむ19.伊勢難波潟(なにはがた) 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も逢(あ)はでこの世(よ)を 過(す)ぐしてよとや20.元良親王わびぬれば 今(いま)はたおなじ 難波(なには)なるみをつくしても 逢(あ)はむとぞ思(おも)ふ21.素性法師今来(いまこ)むと 言(い)ひしばかりに 長月(ながつき)の有明(ありあけ)の月(つき)を 待(ま)ち出(い)でつるかな 22.文屋康秀吹(ふ)くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるればむべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)といふらむ23.大江千里月見(つきみ)れば ちぢにものこそ 悲(かな)しけれわが身一(みひと)つの 秋(あき)にはあらねど24.菅家このたびは ぬさも取(と)りあへず 手向山(たむけやま)紅葉(もみぢ)の錦(にしき) 神(かみ)のまにまに25.三条右大臣名(な)にし負(お)はば 逢坂山(あふさかやま)の さねかずら人(ひと)に知(し)られで 来(く)るよしもがな26.貞信公小倉山(をぐらやま) 峰(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば今(いま)ひとたびの みゆき待(ま)たなむ27.中納言兼輔みかの原(はら) わきて流(なが)るる 泉川(いづみがは)いつ見(み)きとてか 恋(こひ)しかるらむ28.源宗于朝臣山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける人目(ひとめ)も草(くさ)も かれぬと思(おも)へば29.凡河内躬恒心(こころ)あてに 折(を)らばや折(を)らむ 初霜(はつしも)の置(お)きまどはせる 白菊(しらぎく)の花(はな)30.壬生忠岑有明(ありあけ)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより暁(あかつき)ばかり 憂(う)きものはなし31.坂上是則朝(あさ)ぼらけ 有明(ありあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに吉野(よしの)の里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき)32.春道列樹山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる しがらみは流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり 33.紀友則ひさかたの 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に静心(しづこころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ 34.藤原興風誰(たれ)をかも 知(し)る人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の松(まつ)も昔(むかし)の 友(とも)ならなくに 35.紀貫之人(ひと)はいさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは花(はな)ぞ昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける36.清原深養父夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを雲(くも)のいづこに 月宿(つきやど)るらむ 37.文屋朝康白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)はつらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける38.右近忘(わす)らるる 身(み)をば思(おも)はず 誓(ちか)ひてし人(ひと)の命(いのち)の 惜(を)しくもあるかな 39.参議等浅茅生(あさぢふ)の 小野(をの)の篠原(しのはら) しのぶれどあまりてなどか 人(ひと)の恋(こひ)しき 40.平兼盛しのぶれど 色(いろ)に出(い)でにけり わが恋(こひ)はものや思(おも)ふと 人(ひと)の問(と)ふまで 41.壬生忠見恋(こひ)すてふ わが名(な)はまだき 立(た)ちにけり人知(ひとし)れずこそ 思(おも)ひそめしか 42.清原元輔契(ちぎ)りきな かたみに袖(そで)を しぼりつつ末(すゑ)の松山(まつやま) 波越(なみこ)さじとは43.権中納言敦忠逢(あ)ひ見(み)ての のちの心(こころ)に くらぶれば昔(むかし)はものを 思(おも)はざりけり 44.中納言朝忠逢(あ)ふことの 絶(た)えてしなくは なかなかに人(ひと)をも身(み)をも 恨(うら)みざらまし 45.謙徳公あはれとも いふべき人(ひと)は 思(おも)ほえで身(み)のいたづらに なりぬべきかな 46.曽禰好忠由良(ゆら)の門(と)を 渡(わた)る舟人(ふなびと) かぢを絶(た)えゆくへも知(し)らぬ 恋(こひ)のみちかな 47.恵慶法師八重(やへ)むぐら しげれる宿(やど)の さびしきに人(ひと)こそ見(み)えね 秋(あき)は来(き)にけり48.源重之風(かぜ)をいたみ 岩(いは)うつ波(なみ)の おのれのみくだけてものを 思(おも)ふころかな49.大中臣能宣朝臣御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)は燃(も)え昼(ひる)は消(き)えつつ ものをこそ思(おも)へ50.藤原義孝君(きみ)がため 惜(を)しからざりし 命(いのち)さへ長(なが)くもがなと 思(おも)ひけるかな51.藤原実方朝臣かくとだに えやは伊吹(いぶき)の さしも草(ぐさ)さしも知(し)らじな 燃(も)ゆる思(おも)ひを 52.藤原道信朝臣明(あ)けぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながらなほうらめしき 朝(あさ)ぼらけかな53.右大将道綱母嘆(なげ)きつつ ひとり寝(ね)る夜(よ)の 明(あ)くる間(ま)はいかに久(ひさ)しき ものとかは知(し)る54.儀同三司母忘(わす)れじの ゆく末(すゑ)までは かたければ今日(けふ)を限(かぎ)りの 命(いのち)ともがな55.大納言公任滝(たき)の音(おと)は 絶(た)えて久(ひさ)しく なりぬれど名(な)こそ流(なが)れて なほ聞(き)こえけれ 56.和泉式部あらざらむ この世(よ)のほかの 思(おも)ひ出(で)にいまひとたびの 逢(あ)ふこともがな 57.紫式部めぐり逢(あ)ひて 見(み)しやそれとも わかぬ間(ま)に雲(くも)がくれにし 夜半(よは)の月(つき)かな58.大弐三位有馬山(ありまやま) 猪名(ゐな)の笹原(ささはら) 風吹(かぜふ)けばいでそよ人(ひと)を 忘(わす)れやはする59.赤染衛門やすらはで 寝(ね)なましものを さ夜更(よふ)けて傾(かたぶ)くまでの 月(つき)を見(み)しかな 60.小式部内侍大江山(おほえやま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければまだふみも見(み)ず 天(あま)の橋立(はしだて)61.伊勢大輔いにしへの 奈良(なら)の都(みやこ)の 八重桜(やへざくら)けふ九重(ここのへ)に にほひぬるかな62.清少納言夜(よ)をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は 謀(はか)るともよに逢坂(あふさか)の 関(せき)はゆるさじ63.左京大夫道雅今(いま)はただ 思(おも)ひ絶(た)えなむ とばかりを人(ひと)づてならで いふよしもがな 64.権中納言定頼朝(あさ)ぼらけ 宇治(うぢ)の川霧(かはぎり) たえだえにあらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)65.相模恨(うら)みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを恋(こひ)に朽(く)ちなむ 名(な)こそ惜(を)しけれ 66.大僧正行尊もろともに あはれと思(おも)へ 山桜(やまざくら)花(はな)よりほかに 知(し)る人(ひと)もなし 67.周防内侍春(はる)の夜(よ)の 夢(ゆめ)ばかりなる 手枕(たまくら)にかひなく立(た)たむ 名(な)こそをしけれ 68.三条院心(こころ)にも あらで憂(う)き夜(よ)に 長(なが)らへば恋(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月(つき)かな 69.能因法師嵐吹(あらしふ)く 三室(みむろ)の山(やま)の もみぢ葉(ば)は竜田(たつた)の川(かは)の 錦(にしき)なりけり70.良暹法師寂(さび)しさに 宿(やど)を立(た)ち出(い)でて ながむればいづこも同(おな)じ 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ71.大納言経信夕(ゆふ)されば 門田(かどた)の稲葉(いなば) 訪(おとづ)れて蘆(あし)のまろ屋(や)に 秋風(あきかぜ)ぞ吹(ふ)く72.祐子内親王家紀伊音(おと)に聞(き)く 高師(たかし)の浜(はま)の あだ波(なみ)はかけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ 73.権中納言匡房高砂(たかさご)の 尾(を)の上(へ)の桜(さくら) 咲(さ)きにけり外山(とやま)の霞(かすみ) 立(た)たずもあらなむ74.源俊頼朝臣憂(う)かりける 人(ひと)を初瀬(はつせ)の 山(やま)おろしよ激(はげ)しかれとは 祈(いの)らぬものを 75.藤原基俊契(ちぎ)りおきし させもが露(つゆ)を 命(いのち)にてあはれ今年(ことし)の 秋(あき)もいぬめり 76.法性寺入道前関白太政大臣わたの原(はら) 漕(こ)ぎ出(い)でて見(み)れば ひさかたの雲居(くもゐ)にまがふ 沖(おき)つ白波(しらなみ)77.崇徳院瀬(せ)をはやみ 岩(いは)にせかるる 滝川(たきがは)のわれても末(すゑ)に 逢(あ)はむとぞ思(おも)ふ78.源兼昌淡路島(あはぢしま) 通(かよ)ふ千鳥(ちどり)の 鳴(な)く声(こゑ)に幾夜寝覚(いくよねざ)めぬ 須磨(すま)の関守(せきもり)79.左京大夫顕輔秋風(あきかぜ)に たなびく雲(くも)の 絶(た)え間(ま)より漏(も)れ出(い)づる月(つき)の 影(かげ)のさやけさ 80.待賢門院堀河長(なが)からむ 心(こころ)も知(し)らず 黒髪(くろかみ)の乱(みだ)れて今朝(けさ)は 物(もの)をこそ思(おも)へ81.後徳大寺左大臣ほととぎす 鳴(な)きつる方(かた)を ながむればただ有明(ありあけ)の 月(つき)ぞ残(のこ)れる 82.道因法師思(おも)ひわび さても命(いのち)は あるものを憂(う)きに堪(た)へぬは 涙(なみだ)なりけり83.皇太后宮大夫俊成世(よ)の中(なか)よ 道(みち)こそなけれ 思(おも)ひ入(い)る山(やま)の奥(おく)にも 鹿(しか)ぞ鳴(な)くなる 84.藤原清輔朝臣長(なが)らへば またこのごろや しのばれむ憂(う)しと見(み)し世(よ)ぞ 今(いま)は恋(こひ)しき 85.俊恵法師夜(よ)もすがら 物思(ものおも)ふころは 明(あ)けやらで閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり86.西行法師嘆(なげ)けとて 月(つき)やは物(もの)を 思(おも)はするかこち顔(がほ)なる わが涙(なみだ)かな 87.寂蓮法師村雨(むらさめ)の 露(つゆ)もまだ干(ひ)ぬ 真木(まき)の葉(は)に霧立(きりた)ちのぼる 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ88.皇嘉門院別当難波江(なにはえ)の 蘆(あし)のかりねの ひとよゆゑ身(み)を尽(つ)くしてや 恋(こ)ひわたるべき 89.式子内親王玉(たま)の緒(を)よ 絶(た)えなば絶(た)えね ながらへば忍(しの)ぶることの 弱(よわ)りもぞする 90.殷富門院大輔見(み)せばやな 雄島(をじま)の海人(あま)の 袖(そで)だにも濡(ぬ)れにぞ濡(ぬ)れし 色(いろ)は変(か)はらず 91.後京極摂政前太政大臣きりぎりす 鳴(な)くや霜夜(しもよ)の さむしろに衣(ころも)かたしき ひとりかも寝(ね)む92.二条院讃岐わが袖(そで)は 潮干(しほひ)に見(み)えぬ 沖(おき)の石(いし)の人(ひと)こそ知(し)らね かわく間(ま)もなし 93.鎌倉右大臣世(よ)の中(なか)は 常(つね)にもがもな 渚漕(なぎさこ)ぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも 94.参議雅経み吉野(よしの)の 山(やま)の秋風(あきかぜ) さよ更(ふ)けてふるさと寒(さむ)く 衣打(ころもう)つなり 95.前大僧正慈円おほけなく 憂(う)き世(よ)の民(たみ)に おほふかなわが立(た)つ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖(そで)96.入道前太政大臣花(はな)さそふ 嵐(あらし)の庭(には)の 雪(ゆき)ならでふりゆくものは わが身(み)なりけり 97.権中納言定家来(こ)ぬ人(ひと)を 松帆(まつほ)の浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに焼(や)くや藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ 98.従二位家隆風(かぜ)そよぐ 楢(なら)の小川(をがは)の 夕暮(ゆふぐれ)は御禊(みそぎ)ぞ夏(なつ)の しるしなりける 99.後鳥羽院人(ひと)も惜(を)し 人(ひと)も恨(うら)めし あぢきなく世(よ)を思(おも)ふゆゑに 物思(ものおも)ふ身(み)は100.順徳院百敷(ももしき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにもなほ余(あま)りある 昔(むかし)なりけり 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞などさまざまな修辞技巧が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だといえる。『百人一首』は現在では歌集としてよりもかるたとしてのほうが知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれるもので、現在では一般に以下のような形態を持つ。百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻などの意匠によるもの)と作者の名、和歌が記されており、取り札にはすべて仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも北海道では、「下の句かるた」というやや特殊な百人一首が行われている。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。江戸期の面影を残したかるたであると言える。歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由があるわけではなく、もともとさまざまな折子供や若者が集まって遊ぶ際に百人一首がよく用いられたことによるものである。そのなかでも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことをゆるされていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。百人一首を用いた主な遊び方には以下のようなものがある。古くから行われた遊びかたのひとつで、あまり競争意識ははたらかない。以下のようなルールに従う。本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。北海道地方で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られたとき、10枚読まれたときなど。社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHKBSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地でいろいろな大会が開催されている。上記の遊び方とは異なり、坊主めくりをする際には首は読まない。使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。さまざまな地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでなく、江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。坊主めくりと同様、首は読まず、読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、また持統天皇は天智天皇以外に勝つ。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。
出典:wikipedia
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