織田 信孝(おだ のぶたか / のぶのり)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。永禄元年(1558年)4月4日、尾張の戦国大名織田信長の三男として、熱田にあった家臣岡本良勝(太郎右衛門)の邸で生まれた。童名(幼名)は勘八とも伝わるが不詳。通称を三七ないし三七郎。母は信長の側室坂氏で、北伊勢の豪族坂氏の女であるという以外の出自は一切不明である。広く知られた伝承では、嫡男信忠の生母生駒殿が同月(4月)に第二子を出産し、実は信孝の方が信雄より20日先に生まれていたが、母の身分が低かったために報告が遅れて、三男とされたと言う。二男となった茶筅丸(信雄)は通称で「三介」とされ、20日早く生まれて三男となった信孝の通称が「三七」とされた。信孝はこの出生時の不満から信雄に敵意を抱き続けていたと解釈されてきたが、それは古くから信じられてきた俗説であり、史実としてはそのようなことを伺わせる史料は見つかっていない。信孝は庶出の三男にすぎなかったが、信長が四男以下の子供をほとんど顧みなかったことを思えば、特に目をかけられていたと言える。永禄11年(1568年)2月、信長が伊勢国北部を平定した際に、降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(友盛)の養嗣子とされた。これは「押入聟」で神戸家と関家の不快を余所に家を乗っ取るのための計略であったが、以後は神戸三七郎を名乗っている。養子入りに際しては、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが信孝付きとして付けられた。伊勢の関氏一族の関・峯・国府・鹿伏兎氏らも与力とされ、このほか峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などの名が家臣として見られる。元亀元年(1570年)頃より信孝は養父の具盛と不仲となり、信長は具盛を伊勢沢城に強制的に隠居させ、さらには蒲生賢秀に命じて近江日野城に幽閉させた。翌元亀2年(1571年)、このような形で信孝は神戸氏を継いだので、同時に家督相続に反対した旧臣を粛清し、高岡城主の家老山路弾正忠を切腹させ、120人の家臣を追放した。引き続き神戸家に仕えた家臣団が480人であったことから、これを神戸四百八十人衆と称した。相続後、信長の命令で神戸検地(元亀2年頃)と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注いだ。神戸城下は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。なお、『勢州軍記』『柏崎物語』によると、元亀3年(1572年)1月に兄の信忠や信雄と共に岐阜城において元服して加冠役は柴田勝家が務めたというが、史料に残る名乗りを見ると信忠の元服は少なくとも天正元年頃であり、兄より先に元服したとは考え難いために誤伝の可能性が高い。与力であった関盛信は、本来、神戸家の本家筋で上位である名門関氏の当主であり、信孝を軽んじてこれに従わず、不仲であった。しかし信孝の伊勢入国は、単なる縁組ではなく、信長の支配政策の一つであって逆らうことは許されなかった。その反抗的な態度が信長の耳に届くようになると、天正元年(1573年)春、関盛信はついに信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられて近江日野城に幽閉された。盛信の居城亀山城は没収され、信孝の所領とされた。天正2年(1574年)7月、第三次長島一向一揆攻めに従軍した。これが初陣であったと考えられる。長島平定後は滝川一益が北伊勢4郡に封じられたため、伊勢は一益・信孝・信包(伊勢長野氏養子)、そして翌年頃に北畠氏の家督を継いだ信雄(信意)の4人で分割統治されることになった。これらの伊勢衆が織田家の遊撃軍団として以後各地を転戦した。この頃の信孝の支配地は、河曲郡・鈴鹿郡の2郡のみで、5万石ほどの知行であったという。天正3年(1575年)8月、信包・信雄と共に越前一向一揆討伐戦に参加。天正4年(1576年)には信雄が家臣を謀殺した三瀬の変の後始末に出陣し、天正5年(1577年)2月には織田の家督を相続した信忠の指揮下で雑賀攻めにも参加した。同年11月、従五位下侍従に叙任された。天正6年(1578年)4月に信忠に従って大坂表に出陣し、5月にも同様に播磨国に出陣した。6月27日の神吉城攻めでは足軽と先を争って勇敢な戦いを見せた。同年11月には荒木村重が謀反を起こしたので、信長は討伐戦(有岡城の戦い)のために安土を出陣したが、信孝は安土城の留守居として残された。しかし間もなくして信忠が出陣すると、信孝もこれに従って出陣して高槻城攻囲に加わる。以後、有岡城包囲の間中、信忠の指揮下で有岡表・播磨三木表などで活動した。信忠軍団の組下にありながも、信長の側近としても活動した。天正8年(1580年)、村井貞勝を補佐してしばしば在京し、禁裏との交渉にあたる。6月29日、禁中より楮箋を賜った。7月、本願寺教如が退去するに際して誓詞を交わすために上京した信長に随行。同月28日、陣所とした妙満寺に吉田兼和・水無瀬親具の訪問を受けた。12月に再び禁中より薫物を賜った。同8年、伊勢では神戸城の拡張工事に着手しており、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭を完成させた。また、この頃、信孝が筒井順慶の猶子となって大和国の国持大名になるという風説が奈良で流れたが、これは実現していない。天正9年(1581年)正月15日の左義長、2月27日の馬揃えに、それぞれ連枝衆の1人として参加。馬揃えでは、信忠が騎馬80騎、信雄が30騎、織田信包が10騎、同じく信孝も10騎で、織田信澄も10騎であり、一門の中で信孝は第4位の序列であった。7月25日、信忠・信雄・信孝の三名は安土城に呼ばれて、信長から直々に名刀を拝領した。9月7日、信孝は病気の村井貞勝に代わって、禁中に袋を献上した。信長は同年8月17日に高野聖数百人を安土において処刑し、畿内で唯一信長に従わない高野山を屈服させるために10月より高野山攻めを開始していたが、『高野春秋編年輯録』ではこの遠征の総大将を信孝とする。他にこれを裏付ける史料はないので総大将であったかは定かではないが、翌年春頃には信孝も紀州に出陣していたと考えられる。このために同時期の甲斐武田氏との戦いに参加できなかったが、木曾義昌が武田勝頼から離反するに際しては信孝が取次役となって、天正9年中に信孝が所領安堵の約束をしている。義昌はその後も信孝に通じて徳川家康との両仕えになった。天正10年(1582年)正月15日、前年と同じく信孝は左義長に連枝衆として参加した。2月、信長は交渉決裂した長宗我部氏の征伐を決意。信長の信濃出陣と同じ9日に三好咲岩(康長)に四国遠征の先鋒を命じて一足先に出陣させた。信長は4月22日に安土城に帰還すると、高野山攻めを一部中止して、5月7日、信孝を四国攻めの総司令官に抜擢。指揮権を与えられた一門衆は信忠・信雄・信孝の3人のみである。『織田軍記』では信孝の置かれた地位を「南海の総管」と呼んでいる。この時、信長は朱印状を出して、征服後には讃岐一国を信孝に与えるとし、阿波は咲岩に与え、伊予・土佐二国の帰属は信長が淡路島に出陣した時点で申し渡すとした。信孝は四国の国人統制の心得についても条書で諭されている。また信孝が三好咲岩の養嗣子となり、三好氏を継いで四国を治めることが予定されていたようである。同時に神戸具盛は赦免されて12年ぶりに幽閉を解かれ、隠居地の伊勢沢城に戻されて、信孝遠征中の神戸城の留守居役を命じられた。信孝は、所領の北伊勢の河曲・鈴鹿2郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を尽く動員した。それでも足りずに伊勢国内の牢人衆、伊勢各地の国衆を急遽召し抱え、近隣の伊賀衆・甲賀衆を7-800人、紀州の雑賀衆1,000人も加えた。信孝の徴集は丹州(丹波・丹後)にも及び、国衆に対して兵糧・飼葉・武器弾薬・船人夫を調達して四国遠征軍に補給するように命じていた。この他、南山城の相楽郡にも動員令がでていたことがわかっている。5月27日、信孝はこのように「各地から集合した者」であったという兵1万4,000を従えて、安土に伺候した。信長は四国遠征軍の副将として織田氏の宿老・丹羽長秀、その義弟・蜂屋頼隆、連枝衆で信孝の次席である津田信澄(織田信澄)を付しただけでなく、『イエズス会日本年鑑』によると信孝に「一夜に大名にお成り候」というほどの人夫・馬・兵糧・黄金など莫大な贈り物を与えたという。翌28、29日、軍勢は摂津に至り、信孝と頼隆は住吉に、信澄は大坂に着陣した。堺には九鬼嘉隆率いる鉄甲船9隻を含む志摩・鳥羽水軍、紀伊海賊衆の100艘がすでに待機しており、信孝は堺でさらに200艘を調達して出航するつもりだったが、これは堺商人らにとっては「もってのほか迷惑」であったという。四国(淡路)渡海の決行は6月3日に予定されていた。しかしまさにその前日の6月2日早朝に本能寺の変が勃発した。京都での異変の知らせが届いた当日、寄せ集めの軍隊からは兵の逃亡が相次いだ。「変事を聞いて大部分は彼(信孝)を棄て去った」という有様だったために積極的な行動ができずに、信孝には為す術がなかった。6月5日、信孝は長秀・頼隆と謀って、明智光秀の娘婿であることを理由に大坂城千貫櫓を襲って信澄を殺害した。付帯状況や史料を見る限り、信澄が本能寺の変に加担していた様子はないが、『家忠日記』の3日の条にも「明智日向守(=光秀)小田七兵衛(=信澄)別心か」とあるように信澄が関与しているという噂が流れていたのは事実のようである。噂話に翻弄されたに過ぎないが、信澄を殺害したことで「三七殿は勇気と信用を獲得し、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼を訪れ、主君として認めるに至った」という。6月11日、羽柴秀吉が中国大返しで備中高松より軍を返して摂津尼崎に着陣すると、信孝は出向いてこれと会見した。12日、秀吉は信孝・長秀の到着を待たずに軍議を始めて配置を定めた。秀吉は宿老の長秀を総大将とすることを推したが、長秀に固辞され、弔い合戦の総大将としては名目上は信孝を立てて、実際には秀吉が軍を指揮することに決まった。13日、後詰めの信孝勢は少し遅れて摂津富田で合流するが、山崎の戦いで明智光秀を撃破して見事に父の仇を討つことに成功した。この戦いでは信孝勢も野々懸彦之進が斎藤利三に討たれるなどしているものの、『太閤記』によれば信孝の手勢はわずか4,000で、主力の2万余を率いて実質的な総大将として全軍を指揮した秀吉がその後の主導権を握ることになった。14日、朝廷から信孝と秀吉のもとに勅使が訪れ、太刀を授かり、勝利が祝賀された。同日、(村井貞勝の一門の)村井清三が前日深夜に野武士に討ち取られた明智光秀の首と胴体を信孝の元に届けたので、16日、本能寺の「信長はてられ候跡」に明智勢3,000の梟首と共に晒させた。また前関白近衛前久が本能寺の変に荷担したという噂を信じ、17日から23日までの間、軍勢を派して征伐しようという勢いで行方を捜索させたので、洛中はこのような信孝の厳しい詮議に震え上がった。しかしその後、信孝は京を去って各地を鎮撫しながら美濃に向い、情勢の鎮静化に努めた。6月27日、清洲会議が開かれるが、信雄と信孝は会議の席上から外された。『耶蘇年報』によれば「信孝が天下の主となる」という噂があったようであるが、会議の結果は天下人を定めずに4人の宿老の合議制とし、ただ織田家家督は信長の嫡孫・三法師が継ぐと定められて、信孝は兄・信忠の領地であった美濃国一国と岐阜城を与えられることになり、同城で三法師の後見役を務めることになった。変の後、岐阜城は加治田城主・斎藤利堯が占拠していたが、利堯は城を信孝へ明け渡してその家老に収まった。7月4日、信孝は本能寺に対して御触を出して、信長の御屋敷として造成された本能寺跡地を墓所とするように命じ、住僧を戻らせるように指示した。家督の問題が片付いた後、同じ宿老である丹羽長秀・池田恒興を実質的な配下において、天下人を継いだかのような行動を始めた秀吉と対立。織田家の不満分子の最大の実力者・柴田勝家に接近した。10月頃、勝家と叔母のお市の方との婚儀が岐阜城で行われたが、これを仲介したのは信孝だと言われる。秀吉もお市の方を所望したが、信孝が清洲城にいたお市の方を説得して秀吉の求婚を断らせ、勝家との再婚を取り纏めたと言われているが、結婚の経緯や時期について史料では確かなことはわかっていない。10月6日、柴田勝家は堀秀政を介して秀吉が清洲会議の決定に違反していると通告。秀吉はこれを無視し、勝家を挑発するように、同月10日から15日にかけて大徳寺で秀吉自身を喪主として信長の葬儀を大々的に行った。織田家では異母弟・羽柴秀勝、信長の乳兄弟でもあった池田恒興・古新親子が参加したが、当主・三法師、その後見人の信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席できなかった。11月2日、勝家は前田利家を介して秀吉と和睦したが、雪で勝家が動けない期間を狙って、12月2日に秀吉は突如として挙兵し、長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を囲んだ。依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は降伏せざるを得ず、12月20日、三法師を秀吉に引き渡すとして安土へ送り、母の坂氏や乳母、娘らを人質として供出して和睦した。この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可、稲葉良通だけでなく、与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝、斎藤利堯も秀吉側に寝返った。天正11年(1583年)正月、まず伊勢で滝川一益が挙兵し、3月、雪解けと共に挙兵した勝家に呼応して信孝も挙兵した。こうして賤ヶ岳の戦いが始まると、4月16日、秀吉は江北陣より美濃に入って岐阜城を包囲。20日に賤ヶ岳砦で戦闘があると、秀吉は取って返して勝家を破り、頼みの勝家も24日に北ノ庄城で自害した。25日、秀吉は再び岐阜城の包囲を再開する。織田信雄は信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させて、信孝を尾張へ向かわせた。信孝の家来の外様衆は離散し、神戸四百八十人衆は団結して帰国した。主人に殉じようとした家来は太田新左衛門尉、小林甚兵衛以下、27人の近習のみだった。また秀吉は、飯沼長継などを信孝に内通したとして斬っており、戦後に秀吉が信孝に仕えた武士を嫌って登用しなかったという事跡も伝わっている。信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺(野間大坊)に退いた。ここの安養院で4月29日(6月19日)または5月2日(6月21日)に、信雄の命令によって信孝は自害させられたが、これは秀吉の内意があったとされる。信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している。享年26。太田新左衛門尉は介錯を務めて後、自害して殉死した。辞世は「むかしより 主(しゆう)をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」。信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句であるが、同じ尾張国野間の内海で源義朝を騙し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致の故事にかけたものといわれる。また『天正記』は岐阜城で切腹という間違った情報であるが、右記のように別の辞世を載せている。信孝の家臣は、大野の海音寺で信孝の葬儀を営んだと言い、同寺に位牌が残っている。また、信孝の首は家臣の大塚俄左衛門長政が神戸に葬ろうとして持ち帰ったが、戦乱の末に果たせず、関に葬ったという。大塚はもともと信孝より信長供養のために福蔵寺の創建を命じられていたのでここに首塚を作ったようである。しかし福蔵寺には位牌があるが、首塚の墓碑を紛失してしまっており現存しない。今は四百年忌に新しく作られた供養墓に形を変えている。信孝の墓は、前述の生害地である安養院跡地のある大御堂寺とこの福蔵寺にある。
出典:wikipedia
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