蝦夷地(えぞち)は、大和朝廷の支配下に入るのを拒んだ人(蝦夷:えみし、えぞ)の住む地域。時代により範囲は異なる。奈良時代では中部地方から東が蝦夷地であった。日本が統一されてゆくに従い、次第に東、北へと範囲は狭まってゆく。次第に日本人(和人)がアイヌの居住地を指して用いるようになっていった。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道(十州島)を中心に、樺太と千島列島を含む。古くは蝦夷国(えぞのくに)または北州とも称した。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。15世紀から16世紀にかけて渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉(関白、太閤)・徳川家康(征夷大将軍)から蝦夷地の支配権、交易権を公認された。江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、松前藩となる。北海道太平洋側と千島を東蝦夷と呼び、北海道日本海側と樺太を西蝦夷地と呼んだ。ところが寛政から文化期に入ると幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、1799年(寛政11年)に東蝦夷地を、1807年(文化4年)に西蝦夷地を天領として、1809年、カラフト島の呼称を北蝦夷地と正式に定めた上で東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じた。緊張が緩和したと思われた1821年(文政4年)には蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、諸外国との緊張が再び高まった1855年(安政2年)には渡島半島の一部を除いて再び天領とした。幕府は財政負担軽減のために仙台、盛岡、弘前、久保田、松前の東北の大藩に対して沿岸の警備義務を割り当てて、会津と庄内の2藩もそれに続いた。1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図絵」には「蝦夷島」の項があり、古地図の挿絵がついている。それによると、蝦夷島内の地名や、周辺の島々の名称が数多く記入されているため貴重な資料といえよう。ただし、蝦夷島の形状はまったく不正確である。1854年(喜永元年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)1869年6月27日(明治2年5月18日)の箱館戦争終結をもって戊辰戦争が終わると、同年9月20日(明治2年8月15日)に新政府は太政官布告によって蝦夷地に北海道の名前を与え、北蝦夷地は樺太と改名した。ほどなく旧幕府各藩をはじめとし、諸勢力に対して蝦夷地を分領することでその開拓を促したが、命じられた藩が早々に辞退を申し出るなど成果に乏しく、困難を極めた。そこで明治政府は再び蝦夷地を直轄化し開拓使にそれを統括させて現在に至る。なお、この時最後まで蝦夷地であった地域には北海道11国86郡のうち下記の令制国が置かれた。和人地であった地域に置かれた令制国(渡島国・後志国)はここに記載しない。
出典:wikipedia
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