始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝()、または秦始皇()と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。しかし、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる。周の時代及びその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った秦王政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。司馬遷が著した『史記』において、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記を見ることができる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にてや6章(「秦始皇本記」)冒頭や14節、「秦始皇」は「秦始皇本記」章題で使われる。秦王政は二つの文字「皇」と「帝」を合わせて新たに「皇帝」という言葉を作ったため、「秦始皇帝」の方が正式だったと考えられる。秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭郷にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた 。誕生時につけられた始皇帝の諱は「政」という。秦の公子であった父・「子楚」(別名:異人)が当時、休戦協定で人質として趙へ送られており、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた。ただ父・子楚は公子とはいえ、20人以上の兄弟がいた妾腹であった。それどころか祖父・安国君(子楚の父。後の孝文王。曽祖父・昭襄王の次子)は曽祖父の後継ですらなかった。秦王を継ぐ可能性がほとんどない子楚は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで、秦どころか趙でも立場を悪くする。当然いつ殺されてもしかたがない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の正室ながら子を産んでいなかったに大金を投じて工作活動を行い、また子楚へも交際費を出資し評判を高めた。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾 (趙姫) を気に入って譲り受けた子楚は、昭襄王48年(前259年)の正月に男児を授かった。正月にちなみ「政」と名付けられたこの赤子が、後に始皇帝となる。漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は子楚の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を子楚に与えた際にはすでに妊娠していたという。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた。郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定した。陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦莊襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した。政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。だが曽祖父の昭襄王は子楚らに一切配慮せず趙を攻め、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲した。そのため人質として趙側に処刑されかけた子楚だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。そして前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり子楚が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、紀元前249年に「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された。荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした。しかし前246年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した()。呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、『呂氏春秋』編纂なども行った。呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・を見つけた。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。やがて大后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移ったのち、嫪毐と大后の間には二人の男児が生まれた。このことは秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があったと言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が大后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毐は政によって一族そして大后との二人の子もろとも殺された。事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った。流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測したが、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した。紀元前234年、桓齮に命じて趙を攻めさせた()。秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し、孝公は衛の王族だった商鞅から、恵文王は魏出身の張儀から、昭襄王は魏の范雎からそれぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた。商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に使者の命を受けた韓非は謁見したが、すでに彼は故国に絶望し、自らを覇権に必要と売り込んだ。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく菅吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)であるという箇所にも共感を得た。秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった。韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して王の安が捕縛されて滅んだ()。次の標的になった趙には、幽繆王の臣・郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧・司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた()。趙王は捕らえられたが、兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れた。王は捕虜となり国は秦に併合された。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の大后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。なお、紀元前228年に母が死去した。燕は弱小な国であった。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いた。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという。実際は脱走したと思われる丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった。両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた。秦王政20年(前227年)、荊軻はを供に連れ、督亢(とくこう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ。地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。受け取った秦王政が、開いた地図の巻物から現れた匕首を手に、荊軻は襲いかかった。秦王政は身をかわしたが、護身用の剣を抜くのに手間取った。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。二人のいつわりの使者は処刑された。秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた()。暗殺未遂の翌年には首都・薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた。次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻めされても3か月は耐えたが、秦王政22年(前225年)に降伏し、魏も滅んだ()。そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った()。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍は楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした。最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ()。秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政26年(前221年)39歳であった。。中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」の上位に相当する号が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「秦皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。なお、戦国時代の秦王は、斉王とともに、一時期であるが西帝・東帝を名乗っていた。また秦王政は、王の行いを評して死後贈られる謚の制度を、臣下が君主をあげつらうものとして廃止した。そして自らを「始皇帝」とし、次代から「二世」「三世」と数えるように定めた。始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された。始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招くと強硬に主張した李斯の意見が採られた。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった。始皇帝と李斯は、度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した。度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている。始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かしを製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ巨大な宮殿であった。名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも、四阿旁広の様子からつけられたとも、始皇帝に最も寵愛された妾の名とも言われる。秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された。始皇帝の晩年には建設に70万人もの労働者が動員されたという記録がある。木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた。1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された。なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた。中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた。そして巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有靈渠」というものがある。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる。中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。順路は以下の通りである。これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である。第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の秦山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え、この儀式を遂行した。しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を遂行した。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、近郊の梁父山で「禅」の儀式を終えた。この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる。吉川忠夫は、始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた。秦山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し、そこに取り入ったのがと呼ばれる者たちであった。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛茍合之徒」と、怪しげで調子の良い(茍合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 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ごまをする)者たちであった。その代表格が、始皇帝が瑯邪で石碑(琅邪台刻石)を建立した後に謁見した徐巿である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬莱山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人・を伴って帰還するための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう。各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った秦山そして琅邪、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業をたたえる。始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、鼎を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている。『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという。始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた。荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を撃ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした。第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた。始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた。天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを過去に存在しなかった人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている。過去誰も達しなかった頂点を極めた始皇帝は、不可能なことなどないという考えに取り付かれ、ますます神仙への傾倒を深めた。逐電した徐巿に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に廬生は様々な影響を与えた。廬生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した。万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した。一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡農民や債務奴隷・商人らを中心に編成された軍団を派遣し、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた。胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金になった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった。始皇帝はこれを李斯の諮問にかけたが、元よりも郡県制を推進した李斯が意見に利を認めるはずがなかった。そして、始皇帝自身も旧習を否定する思想に染まっていた。信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった。始皇帝自身がこの思想に染まり、自らの治世を正しいものと考えていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる。すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、体制の問題点が意識されていたか、または先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される。しかし始皇帝の決定はきわめて反動的なものであった。『韓非子』「姦劫弒臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある。始皇34年(前213年)、李斯はこのような妄言の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てる建策を行い、認められた。特に『詩経』と『書経』の所有は、始皇帝の蔵書を除き厳しく罰せられた。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った。始皇帝は「後王思想」で言う批判を許さない君主の絶対的基準となった。ここにまたも方士らが取り入り、廬生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在を元にする超人を指した。廬生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時には居場所を李斯に告げられたと疑い、周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった。しかし「阿諛茍合」の類である真人の来訪など決してなく、やがて粛清を恐れた廬生は方士仲間の侯生とともに始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。これを知り激怒した始皇帝は学者を疑い尋問にかけた。彼らは言い逃れに他者の誹謗を繰り返し、ついには約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる。『史記』には、学者らを「諸生」と表記しており、さまざまな学派の人間が対象になったと考えられるが、この行為を唯一諌めた長子の扶蘇の言「諸生皆誦法孔子」から、儒家の比率が高かったものと考えられる。讒言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった。坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する。『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された上、隕石は焼き砕かれた。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた。鉄隕石にはニッケル・鉄比の異なるカマサイトとテーナイトの二相からなる視覚的に特徴ある組織が観察され、それが解釈の仕様によっては漢字のように見える場合がある。従って、当時落下した鉄隕石が後に伝説となった可能性がある。また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した。末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、芝罘で大鮫魚を仕留めた。ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている正統な後継者である長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高に託した。7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省平郷)で亡くなった。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという。始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ、秘したまま一行は咸陽へ向かった。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった。死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車が伴走し、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた。始皇帝の死から2か月後、咸陽に戻った20才の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った。そして李斯さえ陥れて処刑させた。しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られた。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた。『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用されたが、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った。秦王政の風貌を、鼻は蜂準(高く尖っている)、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる。将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った。怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもつかない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。彼の頭には、白起がたどった末路という教訓があった。方士の廬生と侯生が逃亡する前に始皇帝を誹謗した言が残っている。始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた。始皇帝の后妃については、史書に記載がないため不明である。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。孫に子嬰があったが、父が誰かは記載がない。始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する。この時代には「無道秦」や「暴秦」等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった。唐代の詩人・李白は『国風』四十八で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった。始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ、以後2000年にわたって継続された。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した。清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した。日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した。馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蒋介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。文化大革命期には、始皇帝の再考察が行われた。当時は、儒家と法家の闘争という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた。文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた。ここでは、出典・注内で提示されている「出典」を示しています。
出典:wikipedia
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