ホーチミン市(ホーチミンし、 )は、ベトナム社会主義共和国最大の経済都市。東南アジア有数の世界都市でもある。ベトナムの父と親しまれる人物であるホー・チ・ミンと区別するため、通常はホーチミン市またはホーチミン・シティ()と呼ぶ。旧名はサイゴン( 、中:)であり、現地では今なお(中心部に対して)「サイゴン」という表現が様々な場面で使われており、都市名としては「ホーチミン」よりも通じる。また、ベトナム人の間では「」「」と省略されることが多い。古くからベトナムの経済的中心地として栄え、「東洋のパリ」と呼ばれたフランス統治の影響が残る街並みと、経済成長で建てられた高層ビル郡と雑多なバイク渋滞が同居し、アジアらしさを残す街並みである。登録人口ベースで800万人を抱えるホーチミン市はベトナム南部圏の中心として、同国GDPのおよそ半分を占め経済を牽引している。ホーチミン市は、元来クメール人が居住しており、プレイノコールという地名で知られていた。プレイノコールとは「森の街」、或いは「森のある土地」を意味するクメール語(プレイ=森、ノコール=街、場所をそれぞれ意味する。ノコールはサンスクリット語の" に由来)である。プレイノコールという地名は、今日でもカンボジア人やメコンデルタに居住する少数民族の低地クメール人(クメールクロム)によって用いられることがある。プレイノコールに北方からのキン人(現代ベトナムの主要民族)移民が定住するようになってから、フランス人によって植民地化されるまでは、この土地のベトナム語名はザーディン(、嘉定)だった。1862年、フランス人はこの公式な名前を捨て、「サイゴン」'という呼称が一般的になっていたので、呼ぶことにした。ベトナム語のサイゴンという名前の由来には様々な議論があるが、その語源は次のように分析されている。 正字法という観点からいえば、ベトナム語の名前である「サイゴン」は、' という具合に2音節に分けて書くものであるし、ベトナム語の伝統的な綴り方はそのようになっている。ところが、空白を省略したいためか西洋風に見せたいためか、都市名を ' や ' というように書く人もいる。語源としてよく言われるのは、' は中国語の借用語(漢字で柴、普通話での発音は ')であり、意味は「柴、丸太、小枝、杭」である。' は別の中国語の借用語(漢字で棍、普通話での発音は ')であり、意味は本来「棒、竿、樹木の幹」であるが、ベトナム語では「綿」を意味する('、文字通りにいえば「綿の棒」、つまりは「綿花」を意味する言葉が縮まって ' になった)。この名前はクメール人がプレイノコール周辺で栽培していて、今でも'寺やその周辺で見ることができる沢山の綿花に由来しているという説もある。別の説によると、サイゴンの語源的な意味は「小枝 = '」と「幹 = '」であり、クメール語名のプレイノコールの由来にもなった、かつてこの街の周囲にあった背の高い木々が密集した森にちなむという。語源的にはベトナム語の ' という呼称は(その説が正しいと一応考えるとして)中国語の名前に由来すると言われているにも関わらず、ベトナムでも中国でも、華人は柴棍(広東語の発音は '、普通話の発音は ')という呼称は使わない。華人はこの街を西貢(広東語の発音は '、普通話の発音は ")と呼ぶ。これは「サイゴン」の単なる音訳に過ぎない。別の語源としてしばしば主張されるのが「サイゴン」で“'”(クメール語で「カポックの木の森」を意味する '{' = 森、' = カポックの木)の翻訳語とされる}に由来するというものである。なお、クメール語の ' という言葉は前述したクメール語名のプレイノコールと混同すべきでない(' はクメール語でカポックの木を意味する言葉であり、ノコールは「街、土地」という原義をもつサンスクリット語に由来するクメール語の言葉である)。このクメール語語源説はベトナム人がこの地域に定住する前からクメール人がいたという背景を考えるとなかなか興味深いものではある。しかし、この説は、クメール語の ' とベトナム語の“'”という2つの言葉が音声学的に全く異なるように見えることからすると、前者からどのようにして後者が導かれたのかという説明が完全に抜けている。さらに少数説を唱えるのが、20世紀初期のベトナム人学者である ' である。その説によると、' の由来は広東語の名前で、サイゴンの華人居住区であるチョロン(クオックグーでは ")にあるという。広東語の(元々の)都市名であるチョロンは、堤防を意味する「タイ・ゴン」(堤岸)である。この説は「サイゴン」が「タイ・ゴン」に由来するのは自明であるという。現在のベトナム共産党政府が、その指導者の名前であるホー・チ・ミンにちなみ、南ベトナムのサイゴン陥落(1975年4月30日)の後、1975年5月1日に市名をサイゴン市からホーチミン市に改名した。なお北ベトナム軍によるサイゴンに対する最終的な攻略作戦の名称は「ホー・チ・ミン作戦」であった。ベトナム語の公式名は、' であり、' と省略されることも多い。なお " は漢語では「城舗」で、「市、都市」を意味する。英語では ' と訳されていて、' と省略され、フランス語では'(アクサンシルコンフレックスは省略されることもある)と訳されていて、' と省略される。なお、サイゴンという旧名は、公式・非公式の文脈で、今でもベトナム人によって広く使われている。例えば、ベトナム統一鉄道のターミナル駅は「サイゴン駅」、タンソンニャット国際空港のIATAコードは " のまま、河港も「サイゴン港」のまま、河川も「サイゴン川」のまま変わっていない。ベトナムの有名なビール商品名であるビア・サイゴンをはじめ、多くの企業名や本の題名でも、旧名は使われている。一般的に「サイゴン」という言葉は、ホーチミン市の中心部(1区、3区周辺)のみを指す。「サイゴン」という単語は、ハノイ市を含む、ベトナム全国の商店の看板で見ることができる。「サイゴン風」や「サイゴン流」といった言葉は、小じゃれた雰囲気やモダンさといった意味を暗示するために用いられている他、ベトナムの歴史上の人物である『ホー・チ・ミン』と混同されない様、人物名と区別するために、敢えて旧都市名の「サイゴン」を使う人々もいる。また、歴史的背景から、南ベトナムの資本主義から共産主義化を恐れて、ボートピープルとして亡命した国外のインドシナ難民によっても、しばしば「サイゴン」や「リトルサイゴン」と、旧名が使われている。ホーチミン市はプレイノコール(、クメール語で「森の中の街」という意味)として知られる小さな漁村として出発した。今では市街地が広がっている一帯は、もともとは沼地であり、ベトナム人が16世紀後半か17世紀以降に入ってくる何世紀も前からクメール人が住んでいた。17世紀以降には華僑も現れた。明朝の滅亡(1662年)により、その遺臣である楊彦迪(ユオン・ガン・ディック、)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、)らの率いる約3000人・50隻が阮氏広南国に亡命し、ビエンホア(サイゴンの東方)やミトー(メコンデルタ入口)への入植を許可された。1623年、カンボジア王(在位:1618年-1628年)は、鄭阮戦争で阮氏広南国から流出した難民をプレイノコール一帯の定住者とし受け入れるための税務事務所を建築し、居住を許可した。ベトナム人定住者がみるみるうちに増えてゆくのを、シャムとの戦争により弱体化したカンボジア王国は妨げることができず、この一帯はゆっくりとベトナム化していった。やがて、プレイノコールはサイゴンとして知られるようになった。1698年、ベトナム人貴族である(阮有鏡)が、この一帯にベトナム人による統治機構を構築し、この一帯に干渉するほどの勢力を失ったカンボジアからこれを引き離すため、フエの阮氏の頭領によって送り込まれた。彼は大規模な定住によりサイゴンの拡大をもたらした人物としてしばしば賞賛されている。()と呼ばれた巨大なヴォーバン式星形要塞が築城されたが、1861年のにおいてフランス人が破壊した。ホーチミン市は、この年を持って市の起源としている。ザーディンの名称はザーディン省として残った。1859年にフランスによって占領され、1862年のサイゴン条約で阮朝はフランスによるコーチシナ東部の支配を認めた。その際にサイゴンは開港し、1887年に成立したフランス領インドシナのもとで急速に発展した。ベトナムがフランスにより植民地として占領されている間、この街はフランスの影響を受けた。そのことが、この街に数多くの古典的西洋風の建築に表れている。そのため、サイゴンは「極東の真珠」 (') とか、「東洋のパリ」 (') と呼ばれることも多い。なお、1873年に日本の岩倉使節団がサイゴンを市内見学しており、当時の安南国の様子が「米欧回覧実記」に記されている。1954年、フランス人は共産主義者のベトミンにディエンビエンフーの戦いで敗れ、ベトナムから撤退した。その後、サイゴンはバオ・ダイ帝が組織した政府の支配下に戻った。バオ・ダイは1950年にサイゴンを首都と定めた。その際、サイゴンと華人系ベトナム人の居住区域であったチョロン () は、一つの行政単位として統合され、首都サイゴン(ベトナム語で " )と呼ばれることになった。1954年のジュネーヴ協定によりベトナムが公式に北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)に分断されると、アメリカ合衆国の影響下でゴ・ディン・ジエム大統領に率いられた南ベトナム政府は、引き続きサイゴンにその首都を置いた。その後南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦闘が国境地域から拡大した事を受けて、南ベトナム政府を支援するアメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、1960年にアメリカ軍軍事顧問団の大量派兵を行う。その後の1965年のアメリカ正規軍の本格参戦によって、ベトナム戦争が本格化すると、サイゴンをはじめとする南ベトナムには大量のアメリカの軍事物資と資金が流れ込むが、その後南ベトナム解放戦線による一般人をも標的にしたテロ活動が活発になる。1973年のパリ協定締結後、アメリカ軍の全面撤退以降は徐々にベトナム共和国は劣勢に陥り、1975年4月30日にサイゴン市内に北ベトナム軍が進出し、南ベトナム政府が崩壊しベトナム戦争が終結。この出来事は一般に、アメリカ合衆国では「サイゴン陥落」と呼ばれ、ベトナムでは「サイゴン解放」と呼ばれている。その後サイゴンを始めとする南ベトナムはベトナム人民軍の支配下に置かれ、社会主義化されると経済活動は停滞し、これを嫌う華僑を中心に、難民が流出した。1976年、共産主義の統一国家ベトナム社会主義共和国が成立したことにより、サイゴンの街(チョロンを含む)、ザーディン省及び近隣2州の郊外2地区が統合され、後の共産党指導者ホー・チ・ミンの名を冠したホーチミン市が作られた。このとき「ザーディン」の名称も消滅した。今日でも、この街の都心部には広くて優雅な並木道が走り、歴史的なフランス植民地風の建物が並んでいて、町並みに彩りを添えている。この街の中心部で最も目立つ建築物といえば統一会堂 (') 、市人民委員会 (市役所:') 、市営劇場 (') 、中央郵便局 (') 、革命博物館 (') 、国立銀行支店 (') 、市人民法廷 (') 及びノートル・ダム大聖堂 (') である。ホーチミン市は、ベトナムで確固たる地位を占める華人の本拠地である。チョロンは、現在では6区、10区及び11区の一部と5区として知られる一帯であり、中華街となっている。1975年以前に南部ベトナムには120万人の華人が在住していたが、そのうち110万人はサイゴンに在住し、さらにそのうち70万人はチョロン在住であった。中越戦争前夜には華人が大量に難民として出国したため、チョロンの華人人口は1978年には10万人にまで減少した。 在ベトナムの華人人口は1975年145万人から1987年28万人にまで減少している。 その後、ドイモイ政策が進むと帰国する者も増え、チョロンの華人人口は50万人以上に回復した。人口は700万人を超え(住民登録者及び市外からの通勤者の合計)、ホーチミン市では公共インフラの必要性が急激に増大している。この必要性を満たすため、市当局と中央政府は新都心を開発する努力を始めている。最も目立った事業を2つ挙げるとすれば、2区の 中心市街地と7区の 新都心(サイゴン南部計画の一部)であり、日本人学校、サイゴン南部国際校(アメリカ人学校)、オーストラリアの王立メルボルン技術研究所、台湾人学校及び韓国人学校といった様々な国際学校が立地している。ホーチミン市は北緯10度45分、東経106度40分のベトナム東南部に位置し、ハノイの1,760km南にある。平均海抜は19m。サイゴン川の西岸である。北でタイニン省及びビンズオン省と接し、東でドンナイ省及びバリア・ブンタウ省と接し、西でロンアン省と接し、南は南シナ海に面した長さ20kmの海岸線となっている。ホーチミン市の面積は2,095 km(ベトナム全土の0.63%)であり、北はクチ県(カンボジアとの国境から20km)から南は南シナ海沿岸のまで及ぶ。最北端(クチ県 村)から最南端(カンゾ県 村)までは120km、最東端(9区 坊)から最西端(ビンチャイン村)までは46km。ホーチミン市は熱帯気候で、平均湿度は75%ある。1年は2つの季節に分かれる。雨期は毎年平均して約1800mmの降水量があり(雨天は1年に約100日)、通常では5月に始まり11月下旬に終わる。乾期は12月から4月まで続く。平均気温は摂氏28度で、最高気温は4月下旬の正午に摂氏39度に達することもあり、最低気温は12月下旬の早朝に摂氏16度を下回ることがある。ホーチミン市はベトナムにおいて省と同格の都市である。そのため、ホーチミン市の政治構造は省のそれに類似しており、選挙で選ばれた95人の評議員からなる人民評議会と、人民評議会によって選ばれた13人の委員からなる人民委員会とが、最も重要な地方政府機関となる。世界の他の市とは異なり、一人の首長が政治・執行を統括するのではなく、人民評議会議長が市の政治部門の頂点に立ち、人民委員会委員長が市の執行部門の頂点に立つ。ベトナム共産党 (CPV) がベトナムにおける全ての政治・経済・社会活動を指導するので、ベトナム共産党ホーチミン市委員会書記がホーチミン市で真に最高位にある指導者ということになる。ホーチミン市は2003年12月以降24の行政区画に区分されている。そのうち5つ(面積1,601km)は郊外の県()として位置づけられる。ホーチミン市域の周囲にあり、同市の公式な境界線の内側にある非都市化農村地帯がこれに当たる。これらはニャベ、カンゾ、ホクモン、クチ、ビンチャインの5県である。残る19の区()は市域内に置かれている(面積494km)。これら市街地区のうち名前が付けられているのは7区(タインビン、ビンタイン、フーニャン、トゥドゥック、ビンタン、タンフー、ゴーヴァップ)であり、残りは単純に1から12までの数字が名前になっている。郊外県が通常多数の村()や町()から成り立っているのに対して、市街地区はいずれも多数の坊()と呼ばれる地区に分かれている。2006年12月からは、ホーチミン市には259坊、58村、5町が置かれている(以下のホーチミン市行政単位一覧を参照)。ホーチミン市の人口は、2004年1月1日現在の統計によれば、6,117,251人(そのうち市内19区に5,140,412人、郊外5区に976,839人)であった。2005年年央にはホーチミン市の人口は推計で6,239,938人(そのうち市内19区に5,240,516人、郊外5区に999,422人)になり、ベトナムの全人口の約7.4%と、全国で最も人口が集中する都市であった。単一の行政区画としてはもちろん、州レベルでみても、最大の人口を有している。ベトナム最大の経済・金融の結節点であるがゆえに、ホーチミン市には、近年ますます多くの人々が全国各地から流入しており、人口が急増している。1999年から2004年の間、市の人口は1年あたり約20万人ずつ増加している。2010年の都市的地域の人口では778万人であり、世界の第35位、国内ではハノイを凌ぎ第1位である。多数派民族はキン族であり、約90%を占める。少数民族には華人が8%(ベトナム最大の華人居住地域)、その他(クメール人、チャム族、Nung 、Rhade)が2%。ホーチミン市の住民は、通常、英語では " 、フランス語では " 、ベトナム語では " と呼ばれる。キン族はベトナム語を話すが、アクセントはそれぞれ違っている。南部弁約50%、北部弁約30%、中部弁約20%となっている。華人は広東語、潮州語、福建語、海南語、客家語を話す人が多く、普通話を話す人は少ない。様々な階級の英語が特に外国人と接することが必要な旅行業界や商業界で話されていて、英語はサイゴン人の事実上の第二言語になっている。ホーチミン市における宗教分布は次のとおりである。
仏教(全宗派合計)50%、ローマカトリック12%、プロテスタント2%、その他(カオダイ教、ホアハオ教、イスラム教、ヒンドゥー教)2%、無宗教または不明34%。ホーチミン市は南北ベトナム統一後もベトナムで最も重要な経済的中心地である。数多くの大企業も含め、およそ30万社がハイテク産業、電器、機械加工及び軽工業に従事し、あるいは、建設業や素材産業、農業製品製造業に携わっている。現在、ホーチミン市には15の工業団地及び輸出加工地区があり、これに加えて、 Quang Trung Software Park 及び Sai Gon Hi-tech Park がある。ホーチミン市には、小規模なものを除いても171の市場、スーパーマーケットのチェーン店が10系列、高級ショッピングモールが1ダース、多数の美容服飾センターがある。50行を超える銀行が何百もの支店を有しており、拠点を置いている保険会社も20社ある。ホーチミン市には、ベトナムで最初の証券取引所が2001年に開かれた。ドイモイ政策導入後のベトナム経済の成長に合わせてホーチミン市の経済活動も活発しており、2005年には、ホーチミン市の域内総生産は推計で116億米ドル(対2004年比12.2%増)、人口1人当たり約1,850米ドルになり、ベトナムの国民総生産の20%を占めた。この域内総生産を購買力平価により計算すれば、560億米ドル(人口1人当たり8,900米ドル)に達する(全国平均の約3.5倍高い)。ホーチミン市の工業生産高は56億米ドルで、全国合計の30%に等しい。ホーチミン市の港の輸出入高は290億米ドルで、全国合計の40%である。ホーチミン市は、国家予算の歳入の約30%を担っている。また、本田技研工業やパナソニック、三菱重工や日本航空など多数の大企業の他、製造業や貿易業をはじめとした中小の日本企業も多数ホーチミン市に進出しているほか、市内には日本のODAによる建築物も数多い。ベトナム南部の交通の要所であるホーチミン市からは、ベトナム南部やカンボジアの各地に陸路や船便で移動することができる。国道14号線と20号線で中央高地とつながり、国道1号線で中部沿岸や北部とつながり、国道1号線と50号線でメコンデルタとつながる。メコンデルタの中心都市カントーからホーチミン市を通って70km北東にあるドンナイ省ザウザイ(Dầu Giây)村までの高速道路が。ホーチミン市は、ベトナム全土を結ぶ鉄道網の南部の主要地点である。鉄道の駅名は、市名が変わったあとも「サイゴン駅(ガ・サイゴン)」であり、始発、終着駅である。南部の最大都市であるホーチミン市と首都ハノイは、1726kmの南北線(統一鉄道)によって結ばれている。ホーチミン-ハノイ間には毎日5本の列車があり、所要時間は最速のSE3、SE4 (列車番号:列車はS1からS20まであり、奇数列車がハノイ発ホーチミン行き。偶数列車がホーチミン発ハノイ行き)で30時間、もっとも遅いSE5、SE6で37時間程度である。特に美しい海岸線を見下ろしながら機関車に牽かれる長い列車が速度を落としレールをきしませいくつものトンネルをくぐり走るハイヴァン峠越えは圧巻である。1996年からはハノイ-北京間、1997年にはハノイ-昆明間を結ぶ国際列車も復活している。中国国境までは、北へ約1950kmの旅程である。タンソンニャット国際空港は、軍民共用空港であり、ホーチミン市(サイゴン)の中心街(1区)の北7kmにある。空港と市街地との間の移動にはタクシーやバスを利用することができる。航空機利用客数が急速に増大していることや、タンソンニャット国際空港が市の中心部に近接していることにかんがみ、ベトナム政府は既に、50km北東のドンナイ省ロンタイン村近郊に、新しく『ロンタイン国際空港』を建設する準備をしている。サイゴン川やドンナイ川に沿って、サイゴン港、新港、ベンゲ港、 VICT 港といった多数の港がある。河川を遡航した地域に位置する河港ではあるが、サイゴン港の港域付近でも川幅は300-500m、水深は11mあり、港湾施設のほとんどは外航船が直接入港することができる。これらの港がベトナムが1年間に輸出入する船荷の40%を取り扱っている。ホーチミン市の道路事情は、インフラ状態やバイクの交通量から劣悪であるといわれることが多い。中には穴だらけの通りもあるためパンクの被害も多い。この街に無数にある裏通りや路地は特にそうで、泥道と大して変わらないということさえある。、バイクが特に中国から安く輸入されるようになったため、バイクがおよそ300万台にまで増えた。もっとも人気のあるバイクはホンダのスーパーカブで、人気の秘訣は3-4人乗りでも長期間故障せずに耐久性があり加えて燃費がよいことである。自動車も40万台以上あり、市内の主要な道路を埋め尽くし、交通渋滞や大気汚染が広く問題視されるようになった。かつての北京が「自転車の街」であるとすれば、ホーチミン市は「バイクの街」とでも呼ぶという意見もある。バイク乗りの誰もが歩行者をすいすいとかわしてゆくのを見ても、この街の通りは危険だと考えるべきではない。一般にほとんどの人は交通ルールに従っているし、交通法規の執行状況も改善しつつある。とはいえ、一方通行を逆走、赤信号無視、歩道走行などは日常茶飯事である。市の中心部にはファングーラオ通り、デタム通りがあり、旅行者でにぎわっている。バスが唯一の公共交通機関であることから、市内にバス路線網が張り巡らされている。なお多くのバスにエアコンが装備されている。1万台のタクシーのほとんどにメーターが取り付けられ、運行中は正常に作動しているのが普通であるが、英語を上手に話せる運転手は多くはない。中には運賃を不正に徴収するためにメーターを使おうとしない運転手やつり銭をごまかす運転手などもいる。観光客がバイクタクシー(セオム)や三輪の自転車タクシー(シクロ)を利用するときは、運転手が乗客の安全に注意を払わない場合もあるので、用心すべきである。白いVinasun(ビナサン)と緑のMailinh(マイリン)の大手タクシーグループは、比較的安全とされる。ホーチミン市内では、バイクの後部座席に客を乗せるバイクタクシーが多数活躍している。特に渋滞の激しいホーチミンでは最も早くて安い交通手段であるが、料金は事前交渉が必要。観光客を相手にしている日本語や英語が話せるセオムは料金も高いのが通例で、降車時にもめることが多く、ベトナム人の多くも見知らぬセオムは敬遠する。観光客相手に持ちかける相場は、2010年現在で1時間400-600円位で、これはベトナム人が支払う相場を大きく上回るが、日本人をはじめとする外国人には安く感じられるため、利用も多い。また、観光ガイドと称し、指示した行き先とは別の場所へ連れて行く、提携する店で商品を高く買わせリベートを受け取る、売春の仲介をするなどは日常茶飯事である。また、日本人を得意客としているセオムの運転手の多くは、過去に乗せた日本人客に「感謝の言葉」を書かせた手帳を持ち歩き、それを新客に見せることで安心感を誘い、勧誘する。この手帳には「○○さんは絶対安心です! ボッタクリはありません」「○○さんには、お世話になりお陰で楽しい思い出になりました」などと書かれ、中には本人の名刺が添付されている場合もある。一年中持ち歩いているため、手帳は擦り切れ、セロテープで補強され、営業の苦労のあとが偲ばれる。しかし、その多くは料金ではボッタクリはなくとも、前述のように料金以外の収入を期待している場合がほとんどである。以上のような理由から観光客には向いていない。こうした事情をよく知る旅なれたものだけが渋滞知らずのセオムを使いこなすことができるが、交通事故のリスクは負わねばならない。なお、ベトナム国内の各都市へのバス移動をホーチミン市内で予約した場合、郊外のバスターミナルへの移動にバイクタクシー利用を強要されることも少なくない。現在、都市鉄道(地下鉄)と高架鉄道を整備するための財源を模索中である。ホーチミン市都市鉄道は2020年完成予定とされるが、「完成予定」の期日が毎年順延されているのも事実である。他にも、美術博物館、南部女性博物館、ナ・ロン記念館、ベン・ドゥオック地下トンネル遺跡がある。また、 観光文化公園、 Suoi Tien 文化公園及び Can Gio Eco ビーチリゾートは、ホーチミン市内の3大レクリエーション施設であり、ホーチミン市を訪れる人たちの人気を集めている。フランス統治時代から営業されているクラシックホテルや国際チェーンのホテルから、客室数が10程度の小規模ホテルまで様々なランクの何百というホテルが18,000室以上あり、その中には5つ星の高級ホテルも10軒ある。予算が乏しい旅行者にも、1区のファングーラオ通り、デタム通り、ブイ・ビエン通りであれば、安いホテル、ゲストハウス等が簡単に見つかる。ホーチミン市には何百もの印刷業者や出版社があり、書店も多く、公立あるいは学校の図書館のネットワークも広がっている。ホーチミン市総合図書館は150万冊以上の蔵書を有する、ベトナム随一の、美しい建築の建物である。他にも私立の画廊が数多く一般公開されている。市営劇場のほかにも、 劇場や Lan Anh 音楽堂のような素晴らしい娯楽施設がある。南ベトナム料理のほかにもベトナム全土の料理を提供するレストランの他、フランス料理や日本の寿司、テキサス風バーベキューからケンタッキーフライドチキンのようなファストフードまで、地元以外の料理を味わうこともできる。また近年は、市内中心部の大規模ショッピングモール内にフードコートが多数営業している。ホーチミン市の高等教育はかなり発達していて、50校の総合大学または単科大学が集中し、合計30万人以上の学生がいる。その他にも重要かつ権威ある高等教育機関をいくつか挙げると、次のとおりである。市立教育大学、市立経済大学、市立建築大学、市立医薬大学、市立農林大学、市立法科大学、市立技術教育大学、市立銀行大学、市立貿易大学、市立工科大学、オープンユニバーシティ、市立体育保健大学、市立美術大学、市立文化大学、市立音楽学校。RMIT大学はベトナムで現在唯一の外資系教育組織である。キャンパスは約2000人の学生を擁する。Click here to view all University on the Viet Nam Mapホーチミン市の報道媒体はベトナムでは最も発達している。最近では、同市では、5紙の日刊新聞が発行されている。主要な新聞は、(サイゴン解放)及びその中国語版・スポーツ版及び夕刊、ベトナムで最大の発行部数を有する(トゥオイチェー(若者))、 (タインニエン(青年))、 (労働者)、(スポーツ)、英字ビジネス新聞の Saigon Times Daily などである。その他にも、30以上の新聞や雑誌が発行されている。ホーチミン市テレビ (HTV) はベトナムで国営ベトナムテレビ (VTV) に次いで2番目に大きなテレビ局ネットであり、7時から24時まで(アナログ放送とデジタル放送の両方で)7チャンネルを放送している。ホーチミン市人民の声も南部地域最大のラジオ局である。世界の主要なテレビチャンネルは、2つのケーブルテレビネット( SCTV と HTVC )によって配信され、30万人以上の加入者や衛星放送受信器付きテレビが受信している。ホーチミン市には120万件以上の固定電話と約300万台の携帯電話(後者は年間20%の伸びを示している)がある。インターネットは、特に ADSL 接続が急速に普及しており、80万人以上の加入者がいて、300万人以上がしばしば利用している。インターネットプロパイダの中でもVNPT、Viettel、FPTの3社が人気があり、ベトナムのインターネット加入者の98%を占めている。近年ではスマートフォン普及に伴い、ホテル、レストラン、カフェなどで通常無料のWi-Fiが利用できる。スターバックスなど一部チェーン店では長時間居座る客への対策として、1つのパスワードに対して1時間のみネット接続が有効でそれ以降は遮断する仕組みを導入している。ホーチミン市の医療体制は比較的発展しており、約80の公立病院または公立医療センターと何十もの市立診療所が連携している。これらの施設は最先端の医療設備を備えている。1,400床を有する 病院は、日本の援助と心臓病学研究所(フランスが資金を提供している)によって医療の質が高まり、インドシナでも最高水準の医療施設になっている。 Hoa Hao 医療診断センター (Medic) と FV 病院は、良質のサービスを提供するとともに近代的な設備を備え、最近では外国人を含む多くの顧客を獲得している。患者は近隣州内の各都市だけでなく、カンボジアからも通院している。
出典:wikipedia
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