日本語の乱れ(にほんごのみだれ)とは、規範とされる日本語(標準語、国語)と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。「変化」や「ゆらぎ」ともいう。食い違いは現実の日本語が変化することでも規範が変化することでも生じうる。ある時代で「乱れ」とされたものは、別の時代では使われなくなったり定着したりして乱れではなくなっていることもあるが、その受容の過渡的段階で特に「誤用」などと盛んに取りざたされる。古い時代の日本語は現代以上に激しく変化し続けてきたとし、昨今言われている日本語の乱れというのは些細なことと考える意見もある。この立場からは「言葉は生き物」などと喩えられる。なお、「言葉の乱れ」という価値判断を伴った概念は言語学には存在しないが、言語政策等では取り上げられることがある。この違いは、「記述文法」と「規範文法」という考え方の違いを反映している。言語学における文法(記述文法)は言語事実に基づいて記述された当該言語の法則性、規則性である。したがって、記述文法における「文法的におかしい」「非文法的」とされる表現は、(言い誤りを除けば)実際にそのような表現が当該言語に存在しない場合に限られる。一方、言語政策における文法(規範文法)は当該言語話者が従うべき文法とされる。規範文法において「文法的におかしい」とされる表現は、言語事実としては存在するが、その使用が規範から逸脱して不適切と評価される。後者が「言葉の乱れ」に相当する。日本語の乱れという考え方は、近年に始まったことではない。古くは、清少納言が作者とされる『枕草子』にも、若者の言葉の乱れを嘆く一節がある。一般社会では往々にして憂慮される現象だが、日本語学者の間には「言語は変化するのが当然であり、乱れでなく「変化」である」という意見が多くみられる。実際、上記の枕草子に批判される「ムズ(ル)」も中世期に入ると、ひとつの助動詞として定着していくことになる。また日本語の乱れは、個人の語感によるほかに、日本国政府によっても少なからず注意を払われる。ただし、政府の姿勢は日本語の変化を即悪いことと考えるようなものではなく、変化を容認することもあれば、積極的に日本語を改造することさえある。例えば、1905年(明治38年)に、大日本帝国政府は『文法上許容すべき事項』を定め、当時の書き言葉に現れていた「従来破格又は誤謬と称せられたるもの」の一部を追認した。このとき追認された誤用には、例えば「〜なるもの」「挑戦するも果たせず」といった表現がある。それぞれ従来は「〜というもの」「挑戦すれども果たせず」としなければ、文法的に誤りだとされていたものだが、これらを誤用と認識する人は、現在では少なくなっている。第二次世界大戦後になって『当用漢字』では「漢字数の削減と字体の簡略化」を打ち出した。『現代仮名遣い』は、それ以前の歴史的仮名遣と異なって、文法や語源に関係なく発音通りに表記することを原則とした。『これからの敬語』では敬語の簡略化を図った。これらは、古くなった規範文法を言語事実に合わせて更新することで、言葉の乱れを小さくした例であるが、既存の規範文法に固執する立場からは「敬語の乱れを助長した」と、解釈される場合もある。金田一春彦は、日本語の乱れという考え方に異を唱え、次のような理由から日本語は乱れていないとした。「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」の活用の種類であるカ変動詞の可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」とするものは、"「ら」を含んでいない"ということから「ら抜き言葉」と呼ばれる。丁寧な断定の助動詞「です」が形容詞や動詞に接続することが誤った用法とされることがある。どちらも古くからある形で(たとえば田山花袋の「蒲団」(1907)には「好いですよ」「困るです」などが多く使われている)、このうち「おもしろいです」のように形容詞に接続したものについては、1952年の国語審議会『これからの敬語』により「合法化」された。動詞に接続したものについては『これからの敬語』でも合法化されず、「です」の接続はおかしいという感覚をもつ者が多いが、井上史雄は、将来的には動詞も含めて全てに「です」が付くようになるだろうと予測している。客がなんらかのサービスを利用できないことについて「ご利用できません」、店舗から客が品物を持ち帰ることができないことについて「お持ち帰りできません」などといった表現が見られる。「ご○○できます」「お○○できます」という形は、「ご○○します」「お○○します」という謙譲語の「する」を「できる」に変えて可能の意味を添えたものでり、「ご○○できません」「お○○できません」はその否定形となる。可能の意味を添えても謙譲語であることに変わりはないので、店員が客に対して話す際には、店側のする行動に使うものである。つまり、店員が客を手伝えることについて「お手伝いできます」、店が客に何かを提供できることについて「ご提供できます」のように、店あるいは店員を低めることで間接的に客に対する敬意を表すものである。「利用する」「持ち帰る」といった相手側の行動を敬うためには謙譲語ではなく尊敬語を用いる。尊敬語の可能形は「お(ご)……になれる」であり、ここでは、その否定の形を使った「ご利用になれません」が適切な形と考えられる。もしくは、自分が恩恵を受ける立場で「あなたにしてもらえる」と敬意を表す「お(ご)……いただける」という敬語の形を使って、「ご利用いただけません」という言い方になる。なお、「ご利用はできません」と言った場合には、「ご利用」と「できません」のつながりが助詞「は」によって分断されるために、「お(ご)……できる」の否定形とはならず、敬語の形としては問題のない表現となる「ご利用される」は、その成り立ちを「ご利用+される」と考えることができ、その場合においては「ご利用される」は尊敬語としてはあり得る形だとされる。ただし「ご利用される」の「ご……さ」の部分が「ご……する」という謙譲語の形であり、これに「れる」という尊敬語が付いた<謙譲語+尊敬語>の組合せだと見られることなどから、現時点では「適切な敬語ではない」とする考え方が有力とされる。誰かの許可を得て何かを「させていただく」わけでない場面で、単に「いたす」の代用として「〜させていただく」と言うこと自体を嫌う向きもある。元は近畿地方の表現であり(伝統的に関西ではへりくだった遠回しな表現を好む傾向がある)、関西ではそれほど「させていただく」の多用が問題視されていない。井上史雄は、このような表現が関西から東京へ広まったのは1950年代と考えている。「いただく」を謙譲語と考えると、聞き手の側の行動を謙譲語にしているこの表現は敬語として誤りで「おいしく召し上がれます」が正しいことになる。しかし、文化庁国語科の1997年の調査ではこの表現を「気になる」と答えたのはわずか一割程度である。井上史雄はこの調査結果から、ここでの「いただく」はすでに謙譲語の意味を失って「たべる」の丁寧な言い方になったと判断した。さらにいえば、「たべる」自体も古くは謙譲語である。「いただく」が単に「たべる」の丁寧な言い方になったのは、「たべる」が謙譲語としての意味を失って単に「食う」の丁寧な言い方になった歴史の繰り返しである。「こちらにあります鉛筆で〜」のように名詞を修飾する動詞に「ます」をつける用法も、厳しい敬語指導書では批判され、NHKでもあまり使わないように指導している。名詞の前の「〜ます」を問題視する立場からは「こちらにある鉛筆で」のように「ます」をつけずに言うのが望ましいことになるが、生きた言葉を規制するのは難しく、現実には「ます」をつけた言い方も広く聞かれる。「とんでもない」で一つの形容詞なので、「ない」だけを「ございません」に置き換えるのは「危ない」を「危ございません」にするのと同じである。一方、「申し訳ございません」については、「申し訳ない」という形容詞の他に「申し訳」という名詞もあることから一概に間違いとはいえない。長音符号は、音引き・伸ばし棒とも呼ばれ、カタカナで用いられる。この長音符号をひらがなに用いるのは、昭和61年告示第1号『現代仮名遣い』の規定により誤用とされる。100年以上前の文部省発行の小学校教科書では、ひらがな中の長音符号が正式に採用されていた時期があったが、数年で廃止された。例:「行」は「い・く/ゆ・く」「おこな・う」の2つの訓を持つが、連用形や過去形では両者の区分が付かない(「行った:いった/おこなった」)。このため便宜的に「おこなう」の送りがなを「おこ・なう」として区別することがある。昭和48年内閣告示「送り仮名の付け方」において「行う」が「本則」であるが「行なう」も「許容」されている。全然は「全然〜ない」などと後ろに否定表現を伴うのが正しいとされ、肯定表現で使用するのは間違いだとされる。ただし、「全然違う」、「全然だめ」、「全然反対」、「全然別」などは、「全然」に修飾される語に否定的な要素が含まれており、実際古くから使われている。しかし夏目漱石などによる近代初期の文学作品に肯定表現の例が頻繁に見られる。
出典:wikipedia
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