Q資料(きゅうしりょう)とは、新約聖書の『マタイによる福音書』および『ルカによる福音書』の執筆の際に両福音書に共通の源泉となったと考えられる"イエス"の言葉資料であり、仮説上の資料である。Q資料はイエスの語録集、または語録集に簡単な枠を付けたものであると想定されている。19世紀以降、ドイツ、スイスを中心とするドイツ語圏の大学神学部の研究者たちによって、共観福音書に対する歴史的批判的な研究が盛んになった。その結果、マタイとマルコの両福音書の共通点は、一方が他方を省略したなどというものではなく、両者が同じ資料をもとに書かれたことに由来するという見解が有力視されるようになった。さらにルカ福音書との比較研究により、マルコには収録されていないが、マタイとルカには共通して収録されているイエスの言葉の存在が指摘され、このマタイとルカに共通のイエスの語録資料を、ドイツ語で「資料」を意味する言葉の頭文字をとって「Q資料」と呼ぶようになった。後述するように、Q資料仮説は現在ではカトリックの聖書学者にも支持する者があり、学界で広く受け入れられている学説のひとつである。しかし、Q資料そのものと同定される文献は、断片も含めいまだに発見されておらず、その存在を疑問視する学者も存在している。古代教父たちもその存在に言及していないため、もしQ資料が実在したという仮説が事実であるとすれば、極めて早い段階で消失したということになる。近代以降、聖書の批判的研究が進められる中で、初めてQ資料のような資料の存在の可能性を示したのはイギリス人のハーバート・マーシュ(Herbert Marsh)であった。彼は1801年に、新約聖書に収録されている四つの福音書のうち、内容的に共通点が多いマタイとマルコとルカの共観福音書についての論文を発表し、共通資料の存在を仮定したが、同時代の人々には無視された。マーシュはこの資料をヘブライ文字のアルファベットから「ベート」と呼んだ。現代のような形でのQ資料説を整えたのはドイツ人の神学者フリードリヒ・シュライアマハーであった。彼は1832年に古代の著作者パピアスの125年ごろの記述とされる「マタイはヘブライ語で書かれた主のことば(ロギア)をまとめた」という一節の「ことば」という部分からQ資料の存在を推測した。一般的にはこの部分はマタイ福音書の失われたヘブライ語版のことを指すとみなされてきたが、シュライエルマッハーはそうではなくイエス語録というものの存在を仮定していた。1838年、同じくドイツのクリスチャン・ヴァイス(Christian Hermann Weisse)がシュライエルマッハーの説を受けて、マルコ福音書が最初に成立し、マルコとイエス語録をもとにマタイとルカが書かれたという説、いわゆる二資料仮説を唱えた。ハインリヒ・ホルツマン(Heinrich Julius Holtzmann)はこの説を発展させ、共観福音書の成立過程を説得力ある形で解説した。この頃、まだQ資料という呼び方はなく、パピアスの記述をもとに「語録(ロギア)」と呼ばれていたが、ホルツマンはこの資料を「ロギア」の頭文字から「ラムダ資料」と呼んだ。19世紀の終わりになるとパピアスの記述をイエス語録のこととみるのは問題が多いという指摘がされるようになったため、パピアスに由来する「ラムダ資料」という呼び方に変えて、ドイツ語で「資料」をあらわす「Quelle」の頭文字をとった中立的な「Q資料」と呼ばれるようになった。ちなみに最初にこの呼び方を提唱したのはドイツ人のヨハン・ヴァイス(Johannes Weiss)であるといわれている。20世紀の最初の20年間、さまざまな「Q資料」が想定された。それはマタイの一文だけを含むといったものから、マタイの本文がそっくりそのまま含まれるといったようなものまでかなり幅のあるものであった。このようにさまざまな説があらわれたことが逆にQ資料仮説そのものの信頼性を低下させることになり、Q資料仮説は、聖書学会では、あまり取り上げられなくなった。Q資料仮説が再び脚光を浴びるのは1960年代に入ってからのことになる。ナグ・ハマディ写本に含まれていたイエス語録集『トマスによる福音書』が刊行されたことを受けて、ジェイムズ・ロビンソン(James M. Robinson)やヘルムート・コエスター(Helmut Koester)といった聖書学者たちがQ資料とは『トマスによる福音書』のようなものであったという説を唱えたのである。ナグ・ハマディ写本の内容が明らかになったことで、Q資料仮説への熱狂が再び高まった。特に大きな役割を果たしたのは聖書学者のジョン・クロペンボルグ(John S. Kloppenborg)であった。クロペンボルグはQ資料が三つの段階を経て成立したという新しい説を示した。彼によれば初めにまとめられたQ資料はイエスの知恵のことばを中心に、貧しさや使徒としての資格についてのことばが含まれていた。そこへ終わりの日と裁きに関することばが付け加えられ、最後にイエスの誘惑のことばが付け加えられたという。近代以降、聖書の批判的研究はプロテスタントの研究者たちが中心となって推し進めた。カトリック教会、特に教皇庁は19世紀のヨーロッパで盛んだった反教会主義への反発から、きわめて保守的な反近代主義をとるようになったため、プロテスタントの研究者たちによる近代的研究の成果をもなかなか受け入れなかった。二資料仮説とそこに含まれるQ資料の仮説についても近代主義と同種のものと捉えられていた。この動きは1869年の第1バチカン公会議においてその頂点を迎えた。この流れに沿って1912年に教皇庁立委員会が示したコメント(DS 3568-3578参照)は、二資料仮説とQ資料仮説を排斥している。しかし20世紀に入り、反近代主義の束縛から解き放たれたことで、カトリック教会においてもプロテスタントの研究者による批判的聖書研究の成果の導入と積極的な聖書研究が行われるようになった。1943年に出されたローマ教皇ピウス12世による回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』(DivinoAfflante Spiritu)では聖書研究に対するカトリック教会の開かれた姿勢がはっきりと示され、かつて発表された近代的聖書研究への否定はあくまでも当時の暫定的な意見であったと表明した。第2バチカン公会議文書の一つ、『啓示憲章』(Dei Verbum)でも聖書研究における近代的方法論の活用が推奨されている。現代ではQ資料の存在はカトリック・プロテスタントなどといった教派や立場を問わず、現代の聖書学において最も広く受け入れられている仮説の一つとなっているが、学界の一部では反論も根強く存在する。Q資料の存在を前提とする「二資料仮説」は、共観福音書の成立過程をもっとも簡明かつ合理的に説明できることから、現代の聖書学では最も有力な仮説である。よって、この考えによると、まず「マルコ福音書」が成立し、マルコ福音書(またはマルコ福音書の原形である仮説資料「原マルコ」)を参考に、またもう一つ別のイエスの語録集(つまりQ資料)を利用して、マタイとルカがそれぞれ編纂されたことになる。したがって、マタイとルカは、マルコ(原マルコ)とQ資料の二つの資料を基にしているので、これを「二資料仮説」(二資料説)と呼ぶ。なお、マタイとルカは、上記の二資料の他に、それぞれに独自の資料も利用したようであり、これを概説すると以下の通りとなる。Q資料の存在は共観福音書の批判的研究から推定された。マルコになく、マタイとルカに共通してあらわれる記述のことを「二重伝承」と言うが、この二重伝承を分析することで、両福音書で、同じ出来事を描写しているにもかかわらず、記述の詳細さや文章表現に違いがあることから、マタイもルカも、お互いを参照してはいないという結論が生まれた。さらに二重伝承の中で、イエスの事跡では記述の相違が目につくが、イエスの「言葉」の部分では共通する点が多いということが注目され、ここから想定された共通のイエス語録資料がQ資料と呼ばれるようになった。マタイとルカの相互独立性については次のようなことが言える。よって、マタイとルカは、一方が他方を参照したとは考えにくく、どちらも執筆時にQ資料のような共通資料を用いたと考えるほうが説明しやすいことが多い。理解の便に該当箇所を挙げると、たとえば以下のような点である。オースティン・ファラー(Austin Farrer)、マイケル・グルダー(Michael Goulder)、マーク・グッドエーカー(Mark Goodacre)といった聖書学者たちはマルコ福音書が先に書かれたことを認めながら、Q資料の存在を否定し、 マタイがマルコを参照したことも否定する。他にもマタイ福音書が最初に書かれたという立場をとる学者たちはQ資料の存在を否定している。Q資料の存在を否定する立場の人々は次のような論拠を述べている。
出典:wikipedia
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