伊豆大島(いずおおしま)は、伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km²。行政区域は、東京都大島町である。大島は伊豆大島火山と呼ばれる水深300〜400mほどの海底からそびえる活火山の陸上部分であって、山頂火口のある三原山はカルデラ内に出来た中央火口丘である。数多くの噴火の記録が残っているが、最近では1912年〜1914年、1950年〜1951年、1986年に中規模以上の噴火があり、特に1986年の噴火では全島民が避難した。また、この期間中にはしばしば小規模な噴火を起こしており、1957年の噴火では死者が1名出ている。三原山の最高峰は三原新山と呼ばれ、標高は764m。火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。5月から8月にかけて南南西風が卓越風であり、それ以外は北東風が卓越風である。2007年、日本の地質百選に選定された。2010年には日本ジオパークに認定された。『日本書紀』の飛鳥時代の記述に、推古天皇28年(620年)八月条に掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したとある。この伊豆島は伊豆諸島のことを指していると考えられる。その後、同書の記録では天武天皇4年4月18日条(675年5月20日)には麻績王の子が、同6年4月11日条(677年5月20日)には田史名倉などが伊豆島に流刑に処されている。このように伊豆島は古くから流刑地とされ、『続日本紀』によれば神亀元年(724年)には伊豆国が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められた。続日本紀には文武天皇3年5月24日(699年6月29日)には役小角が「伊豆嶋」に流された記録があるが、『扶桑略記』の同日条では「仍配伊豆大島」とされており、この配流地は伊豆大島だったと考えられる。『殿暦』永久元年10月22日条(1113年12月9日)の記事によれば、同年に醍醐寺の仁寛(立川流の祖)が罪を得て「伊豆大島」に流されたという。琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、源為朝は保元の乱に敗れて捕らえられ、伊豆大島に配流された後に島々を掠領したために工藤茂光に攻められたが、伊豆諸島の人々の助けで現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。この話に基づき、大正11年には沖縄県に為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。伊豆諸島は伊豆国に属しており、中世に入ると伊豆大島も伊豆国の知行国主の支配を受けた。また北条氏は伊豆守護職を世襲していたが、北条氏の滅亡にともない終結した。『太平記』には南北朝初期の争乱で奥州へ向かった兵船が嵐のため伊豆大島に漂着したという記述があるが、史実か定かではない。応永3年7月23日(1396年9月3日)には伊豆守護・上杉憲定に伊豆大島などの伊豆諸島を含む伊豆国の所領が交付されたという記録がある。この所領は前年七月二四日に父・上杉憲方の遺領として安堵されたものだった。また、『八丈島年代記』によると金川(現・神奈川県横浜市神奈川区)の領主・奥山宗林が八丈島、小島、青ヶ島、三宅島、御蔵島の代官となったとされるが、記述のない伊豆大島は別の代官が任命されていたか不明である。この後、戦国時代になると後北条氏が伊豆諸島全体を支配するようになった。なお、天文21年9月19日(1552年10月17日)の噴火の際に鎮静を願った祈祷札が今も元町の薬師堂にある。近世に入ると、島内は海方(または船手稼、浦方)と呼ばれる新島、岡田と、山方(または山手稼、釜方)と呼ばれる竈方野増、差木地、泉津の計5村で構成されるようになる。さらに後に差木地村から波浮湊村が分かれた。なお、天正18年(1590年)に関東の領主が徳川家康になった後も、伊豆諸島ではしばらく北条氏の旧臣の支配が続き、その後に江戸幕府の代官が治めるようになった。なお、生類憐れみの令の際に江戸などで集めた鳶・鷹・雉子などが宝永5年(1708年)まで20年余りにわたり島で放鳥された。やがて寛文10年(1670年)に代官の、享保8年(1723年)には手代の渡島も禁止され、以後は新島村の神主である藤井氏が行政を担当した。地役人を世襲で助ける島の有力者を島代官と称した。なお、享保2年(1717年)の改革により、島へ渡る役人と島の有力者を、それぞれ島役人、地役人と呼ぶようになった。1703年12月31日(元禄16年11月23日)の元禄関東地震の大津波で、湖だった波浮港が外海とつながった。大島では畑で大麦、里芋・大根・大豆などを植えていたが、田がなかったため近世前期には年貢は塩で納められた。また、後に茶やサツマイモなども栽培され、養蚕も行われた。元禄2年(1689年)には釜方村などで製塩された2,000俵以上の塩が納められ、かわりに246俵の扶持米が給付されている。また、浦方には夏と秋に釣った鰹の4分の1ずつ運上と御口(付加税)、春と秋にはムロ、サバなどに10分の1の運上が課せられた。翌元禄3年(1690年)に塩年貢は廃止されて金と京銭による代金納となり、享保7年(1722年)には運上も金納となる一方で被下米が減っている。また同8年(1723年)からは薪、海苔や魚介類を船で江戸の問屋に売渡し、経費などを除いた利益の1割を上納するようになった。江戸時代にも流刑地としての役割は続き、『伊豆大島志考』によると慶長12年(1607年)の岡部藤十郎をはじめ、同17年(1612年)にはキリシタンのジュリアおたあ、天和2年(1682年)に越後騒動に関連して小栗兵庫ら、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の遺児ら4名(間瀬定八、吉田兼直、中村忠三郎、村松政右衛門)が流された。また、日蓮宗不受不施派の僧なども流されている。しかし流人受入れや三宅島までの流人船の御用が負担であったため、明和3年(1766年)に貢金の上乗せを条件に流人船御用が免除された。同年以降は大島への流人は途絶え、御蔵島・利島とともに寛政8年(1796年)に正式に流刑地から除外された。また、同年には島開所が設けられ、大島を含む伊豆諸島の水産物などは同所以外への販売が禁止された。この航路が長いため搬送中に魚の鮮度が落ちて商品競争力が激減したが、江戸の問屋が船足の速い押送船に大島の水主を乗せて魚介類を江戸に運送・販売することを願出て文化13年(1816年)に許可されると売上は急増し、漁業が島の産業の中で大きな比重を占めるようになった。明治になると、1882年(明治15年)に秋広平六が西洋帆船を建造し、本土との往来などに使われた。1897年(明治30年)には相陽汽船が伊東(現・静岡県伊東市)との間で航路を開き、翌年には同航路で実業家・杉本が和船の運航を始めた。1900年(明治33年)に逓信省は杉本と契約し、郵便輸送を開始した。なお、当時の鮮魚や畜産品などの貨物輸送は島民の船で島内の元町港や波浮港から東京・横浜へ直接向かった。1906年(明治39年)には東京湾汽船が大島・伊東間に定期航路を開設し、翌年には東京〜大島航路や東京〜大島〜利島〜新島〜式根島〜神津島航路が命令航路となり、大島への寄港回数が年間96回以上となった。定期航路が整備されると和田三造や坂本繁二郎、中川一政、村山槐多らの著名人や芸術家が来島し、島を題材にした作品も残された。また、1928年(昭和3年)に東京との間に日航便が就航し、同年には野口雨情作詞・中山晋平作曲の波浮の港の歌が流行したこともあって観光客が増加した。1931年(昭和6年)には三原山の砂漠(溶岩原の通称)にロバやラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園している。横浜開港に伴う食肉需要の増加で島の放牧馬、牛、山羊が乱獲されて一時はほぼ絶滅したが、その後は肉牛の生産が活発になった。さらに明治30年代に乳牛・酪農が主流となり、1926年(昭和元年)の島内の飼育乳牛頭数は1,200頭にのぼっている。また、江戸時代末期に生産を解禁された炭は、従来の主要な商品だった薪とともに島の有力産業に成長した。この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は明治以降に機械油や整髪油として生産が増加した。1916年(大正5年)の島の産品は一位から順に海産物、牛酪、薪、炭、椿油となっている。インフラストラクチャー面では1872年(明治5年)に野増で初の小学校が開校し、1875年(明治8年)に新島村と波浮で郵便局が開局した。1902年(明治35年)には下田(現・静岡県下田市)と大島の間に海底電線が開通している。1916年(大正5年)には元村と野増村で伊豆諸島で初の電灯が設けられ、1927年(昭和2年)には岡田、泉津、波浮港、差木地で送電が始まった。また、1931年(昭和6年)には島内で、1934年(昭和9年)には本土との間で電話が開通した。1933年(昭和8年)に大島六か村自動車道路が作られると、1935年(昭和10年)には島内でバス、トラックが運行されるようになった。なお、1940年(昭和15年)には伊豆諸島で最初の接岸桟橋を持つ岡田港が竣工した。1923年(大正12年)9月1日の大正関東地震(関東大震災)では、高さ12 mの津波が襲った。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)には小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、海軍第二魚雷艇特攻隊の中間基地として波浮港が接収された。また、1945年(昭和20年)6月には本土決戦に備えて第321師団が編成されている。ほとんどの民家が部隊によって接収され島民は集団疎開を命じられて一部は長野県へ疎開したが、輸送船が足りずに命令は撤回された。戦後の1946年(昭和21年)1月29日に占領政策から伊豆諸島は日本の行政から切り離されることになり、島民の中には暫定憲法を制定する行動もあったが、3月22日に方針が変更されて分離は行われなかった。1952年(昭和27年)4月9日に羽田発福岡行き日本航空301便「もく星号」が三原山の高度600 m(2,000 ft)に衝突し、31人が死亡した。1955年(昭和30年)4月1日に伊豆七島国定公園の一部となる。1958年(昭和33年)の狩野川台風では、24時間雨量約400 mmにより土砂災害が発生し、元町地区の104棟が全半壊し死者、行方不明者各1人を出した。1964年(昭和39年)7月7日に富士箱根伊豆国立公園の一部となり、伊豆七島国定公園の指定が解除される。その後、1965年(昭和40年)1月11日午後11時頃に元町港のすぐ近くにある寿司屋を兼ねた旅館を火元とする大火があり、折からの強風にあおられて消失面積15万平方米、全焼418戸、罹災408世帯の被害が出て1311名が焼け出される被害がでた。この火災に対しては災害救助法が適用された。この火災については30キロ離れた対岸の伊豆の熱川や稲取からも見えたという。1986年(昭和61年)に三原山が噴火した際、全島民が1か月にわたって島外避難した。2013年(平成25年)10月には台風26号に襲われ、観測史上最大の24時間雨量 824mmを記録し、土砂災害により元町地区を中心に49名の死者・行方不明者を出した。降水量は観測開始以来最大であった。なお、この土砂災害に伴う地盤震動が島内に設置されている地震計で観測されていたが、土砂災害の直前予測に活用が可能と考える研究者もいる。台風第27号では、1,273人に対して避難指示を出した延喜式神名帳には伊豆国賀茂郡の神社として波布比売命神社、阿治古神社、波治神社の名があり、それぞれ島内の波浮港の羽布比命神社、野増の大宮神社、泉津の波知加麻神社に比定され、当時からこれらの神社が存在していたことがわかる。近世初頭の『伊豆国三嶋神主家系図』の記述では、慶雲元年(704年)に三原山が噴火したことから興島(三宅島と推定される)に祀っていた三島宮(現・静岡県三島市の三嶋大社)を大島に移したという。なお、三島宮はこの後の天平7年(735年)に現在地の伊豆府中に遷座した。また『今昔物語』には、配流された役小角が勤行したとされる山で蔵海という僧が嵯峨天皇の頃に修行を積み、地蔵寺を建立したという話がある。1901年(明治34年)坪井正五郎らにより龍ノ口遺跡が紹介された。これが大島で初めて知られた遺跡であり、現在までに51か所の遺跡が確認されている。以下に代表的なものの例を挙げる。伊豆大島ジオパークは、2010年(平成22年)9月には日本ジオパークに認定された。
出典:wikipedia
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