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マルクス・トゥッリウス・キケロ

マルクス・トゥッリウス・キケロ(, 紀元前106年1月3日 - 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者である。ラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている。アルピヌムの出身で、祖先に顕職者を持たない「ノウス・ホモ」としては異例の出世を遂げた。キケロは、若い頃に友人から「ひよこ豆」という意味のある「無名の家名(キケロ家)を避けた方がよい」とアドバイスを受けたが、「私自身の手で、キケロ家をスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという。ミトリデダスとの戦争によってギリシアから亡命してきた新アカデメイア派のラリッサのピロンから穏健な懐疑主義を学ぶ。弁論家ポセイドニオスに師事した。紀元前81年に法律家としての活動を始めた。当時ローマの終身独裁官であったルキウス・コルネリウス・スッラの側近クリュソゴノスの不正蓄財事件に関する被告ロスキウスの弁護を引き受け、その裁判で勝訴して名を上げた。その後、弟クィントゥスと共にギリシアの留学し、アテナイでピロンの弟子アスカロンのアンティオコスに学んだ。なお、アテナイでキケロは後に終生の友人となるティトゥス・ポンポニウス・アッティクスに出会ったといわれている(彼は、アテナイに居を構えていた)。スッラの死後、キケロは、再びローマへ戻り、紀元前76年クァエストル(財務官)に就任し、シキリア属州リリュバエウム行政区を担当した。紀元前70年、アエディリス(按察官)在任時に、シキリア総督によるシキリアでの苛斂誅求を断罪した。このときの弁論を加筆修正したものは、『』としてまとめられ、現在では、その当時の属州政治の内実を知るための貴重な資料となっている。この裁判で、キケロは、当時名声を博していたを相手に勝利した。ことから、キケロは、一躍名声を上げ、紀元前66年プラエトル(法務官)を経験した後、紀元前63年に執政官に就任した。執政官在任中に起きたルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆未遂事件において、マルクス・ポルキウス・カトらの助力を得て、首謀者を死刑とする英断を下し、元老院から「祖国の父」("pater patriae") の称号を得る。また、紀元前75年のシキリア属州への赴任時期に、アルキメデスの墓を発見している。しかし、カティリナ一派を死刑するというこの決断は、「ローマ市民は、市民による裁判を受けなければ、死刑に処されることはない」というローマの法に反したものであったため、越権行為であるという批判がなされた。その結果、紀元前58年、護民官に就任したプブリウス・クロディウス・プルケルの訴追によって、キケロは、ローマからの逃亡を余儀なくされる。翌年、キケロ召還決議が可決したため、キケロは、ローマに凱旋帰国する。その後、グナエウス・ポンペイウス、ガイウス・ユリウス・カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススによる第一回三頭政治に反対した。一方で「クロディウスがパトリキ出身でありながら護民官に就任したことは違法であり、クロディウスが護民官時期に行った施策は無効である」旨を表明したところ、カトはこれに激しく反発したため、カトとの仲が冷却化した。紀元前51年から49年までの間、政情不安に陥っている小アジアのキリキア総督を拝命し、同地で内乱の処理に当たった。紀元前49年から始まったカエサル派とポンペイウスらの元老院派による内戦では、当初中立を保ったが、カエサルがヒスパニアで苦境に陥っていたことから、ポンペイウス側に身を投じた。元老院派は、日和見的なキケロの対応を白眼視して、重要な任務を与えなかった。そのため、キケロは、愛想のない顔で歩き回っては、元老院派陣営の空気を冷やすような冗談を提供した。紀元前48年8月、元老院派がファルサルスの戦いで敗北すると、キケロは、マルクス・テレンティウス・ウァロらと共に元老院派を離脱した。その際、無責任で身勝手な対応に終始したため、カトの制止がなければ、キケロは、小ポンペイウスに殺害されるところであった。後にカエサルにより許されたが、以降は政治から離れて学問に専念し、アッティクスの協力も得て、数々の著作を世に送り出した。紀元前46年4月にウティカでカトが自害したため、キケロは、カトの生き様を誉め讃えた『カト』を発刊した。同時期にカエサルも『反カト』を発刊したが、共に現存していない。キケロは、他の元老院議員たちとは違い、独裁者に変貌していくカエサルや共和政ローマの崩壊を目の当たりにして、不安を覚えていた。このことは、『アッティクス宛書簡集』などから読み取ることができる。紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺された。そのとき、キケロは、その事件に直接には関らなかったものの、暗殺者たちを支持しており、その数日後にブルトゥスなどの暗殺者との会談を行っている。カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスに対抗するため、当時平民だったオクタウィアヌスを政界に召喚し、彼の人気を後ろ盾に『フィリッピカ』と題する数次にわたるアントニウス弾劾演説を行う。しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に第二回三頭政治が成立したことにより、キケロは、失脚してしまう。キケロを亡き者にしたいというアントニウスの要求にオクタウィアヌスが屈するというかたちで、プロスクリプティオにキケロを名簿に公示した。そのため、ブルトゥスらが勢力を持っていたマケドニア属州へと向かったものの、紀元前43年12月7日、アントニウスの放った刺客により暗殺された。このとき、キケロの首だけでなく右手も切取られて、フォルム・ロマヌムに晒されることとなった。紀元前30年、アントニウスは、アクティウムの海戦に敗れて自死した。このとき、キケロの息子マルクス(小キケロ)は、ローマの執政官であったが、アントニウスの一切の名誉を取り消し、アントニウス家の者は今後「マルクス」の名を使うことを禁ずることを可決した。キケロは、カエサルと並ぶラテン語散文の名手であり、その完成者といわれる。彼の著作は多岐にわたり、演説や書簡でも知られている。彼の文学者としての評価および政治思想家としての評価は定まっており、今日でも注目を浴び続けている。しかし、政治家としてはいくつかの欠点があり、その政治行動と業績については評価が分かれる。キケロは、カエサルとは異なり、共和政の範囲内でローマ社会の改革を企てており、『国家論』『法律』『義務について』の中で、第一人者(プリンケプス)の指導により元老院と平民との融和を図った。更に、ローマ法についてもギリシア哲学を基にして、今までの事例中心だったローマ法を体系的に再編成するなどの作業を通じ、共和政の中身を改革することを政治課題としていた。しかし、それが皮肉にもアウグストゥスによる元首政の構想に引き継がれることとなった。キケロには、多くの弁論や演説が現存する。その中でも、反乱謀議のかどでカティリナを弾劾した元老院演説『カティリナ弾劾演説』は有名である。その他『国家論』『法律』『友情について』『老年について』『神々の本性について』『予言について』などがある。また、家族・友人に送った書簡も数多い。その思想は、当時ローマで主流だったストア哲学にローマの伝統的価値観を取り込んだ折衷的なものとして知られる。たとえば、『義務について』では、ストアの義務論を、賢人にのみ可能な善の実践としての義務と一般人にも可能な日常好ましいことの実践としての義務 (officium) の履行に換骨奪胎している。プルタルコスの対比列伝ではデモステネスと対比されており、キケロ自身もアントニウス弾劾の演説にデモステネスのピリッポス2世を弾劾したものと同じ『フィリッピカ(ピリッピカ)』と名付けた。その後のキケロの思想を巡る歴史は、そのままヨーロッパの思想史を説明することにもなるほど、後世のヨーロッパに影響を与えた。聖ペテルスブルグ大学教授ツィーリンスキーによると、キリスト教中世期、ルネサンス期、啓蒙主義期の三つの時期に分けられる。キケロは、専ら道徳哲学者として評価された。アウグスティヌスは、「キリスト教父としてのキケロー」の一面を持つとされる。14世紀イタリア人文主義、とりわけフランチェスコ・ペトラルカが賞揚して以来その文体はラテン文学の規範とされ、14世紀イタリアルネサンスは『アッティクス宛書簡集』に見られる作品と作者の内面のズレを発見したペトラルカを以て開始された。この時期のキケロはその人間性によって知られ、ペラトルカ、ダンテ、ボカッチオのルネサンス三大詩人を貫くルネサンス文芸の特質は全てキケロに負うとされる。キケロは、フランス啓蒙主義、更にはフランス革命に至るまで、西欧における知識人たちにおける必読文献とされ、ニッコロ・マキャヴェッリ、フーゴー・グローティウスやシャルル・ド・モンテスキュー、ヴォルテールの思想にも大きな影響を与え、キケロを以て共和主義、民主主義の象徴とする動きが連綿と続いた。キケロに対する関心は、19世紀以降低下をはじめ、「大革命」のシンボルとしてキケロを重視していたフランスに対抗する形で、特に多くの領邦国家に分かれプロイセンを中心に王政を基礎とした統一国家の成立を目指していた当時のドイツにおいてニーブール、ヘーゲル等により共和制の守護者たるキケロは批判され、キケロと対立したカエサルの19世紀後半の熱烈な支持者であったモムゼンによってその批判は頂点を迎える。イギリス、フランスに遅れて発展し始めたドイツにおいて、絶対的かつ本質的なギリシア文化に対して、キケロが体現するローマ文化はその亜流に過ぎず、評価に値しないものとされ、このような傾向について、エライザ・メアリアン・バトラーは、『ドイツにおけるギリシアの暴虐』(1933)において示唆したため、ナチスの禁書目録に指定された。モムゼンの影響は20世紀にまでも及び、この影響からキケロを救い出そうとしたのは古典学者のハインツであり、20世紀半ばから、イギリス、フランス、アメリカ、ポーランド等でキケロに関する研究は地道に進められるようになり、20世紀におけるキケロの最大の評価者は、ハンナ・アーレントとホセ・オルテガ・イ・ガセットであるとされる。日本では林達夫がキケロを必読書として推奨していた位で、日本語訳は、近年まで岩波文庫などで数冊訳されたほどで本格的な研究書は存在しなかった。1997年に岩波書店で『全集』出版が予告されていたが、1999年に『選集』に変更し刊行、改訂版が岩波文庫で数冊刊行されたのみである。近年、日本人による研究書が刊行されるに至った。

出典:wikipedia

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