LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ナリタブライアン

ナリタブライアン("Narita Brian"、1991年5月3日 - 1998年9月27日)は日本の競走馬・種牡馬。中央競馬史上5頭目の三冠馬。愛称は「ブライアン」「シャドーロールの怪物」。1993年8月にデビュー。同年11月から1995年3月にかけてクラシック三冠を含むGI5連勝、10連続連対を達成し、1993年JRA賞最優秀3歳牡馬、1994年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬に選出された。1995年春に故障(股関節炎)を発症したあとはその後遺症から低迷し、6戦して重賞を1勝するにとどまった(GI は5戦して未勝利)が、第44回阪神大賞典におけるマヤノトップガンとのマッチレースや短距離戦である第26回高松宮杯への出走によってファンの話題を集めた。第26回高松宮杯出走後に発症した屈腱炎が原因となって1996年10月に競走馬を引退した。競走馬を引退したあとは種牡馬となったが、1998年9月に胃破裂を発症し、安楽死の措置がとられた。半兄に1993年のJRA賞年度代表馬ビワハヤヒデがいる。1997年日本中央競馬会 (JRA) の顕彰馬に選出。"※馬齢は旧表記に統一する。"ナリタブライアンは1991年5月3日、北海道新冠町にある早田牧場新冠支場で誕生した。同牧場の経営者早田光一郎や場長の太田三重によると、誕生後しばらくはこれといって目立つ馬ではなかったが、次第にその身体能力が鍛錬にあたった牧場スタッフによって高く評価されるようになった。1992年10月以降資生園早田牧場新冠支場で行われた初期調教において調教を担当した其浦三義は、バネや背中の柔らかさ、敏捷性において半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じたと述べている。また早田によると、初期調教が行われていた時期に複数の馬に牧場内の坂を上り下りさせる運動をさせたころ、1頭だけ全く呼吸が乱れなかった。一方で調教中に水たまりに驚いて騎乗者を振り落とすなど臆病な気性もみせた。ナリタブライアンは庭先取引によって山路秀則に購入され、中央競馬の調教師大久保正陽の厩舎で管理されることが決定した。早田によるとナリタブライアンの馬主が山路に、調教師が大久保に決定した経緯は以下の通りである。まず家畜取引商工藤清正の仲介により大久保に紹介され、大久保が山路に購入を打診。山路と大久保が資生園早田牧場を訪れ購入が決定した。大久保は後に「ビワハヤヒデの活躍が早ければナリタブライアンは自分のところにはやってこなかった」と述懐している。取引価格は山路によれば「2400万か2500万」円から「100万くらい」値引きしてもらった額であったという。ナリタブライアンは1993年5月13日に日本中央競馬会 (JRA) の馬体検査を受け合格。同年5月19日、栗東トレーニングセンターの大久保正陽厩舎に入厩した。主戦騎手は南井克巳に決定した。その経緯について南井は、大久保に「君はダービーを勝ったことがあるか?」と問われ、ないと答えたところ「じゃあウチの馬に乗ってダービーを勝ってくれないか」と持ちかけられたと述べている。ただし大久保はこうしたやり取りがあったことを否定している。ナリタブライアンに初めて騎乗した南井は、次のような思いを抱いたという。8月15日、ナリタブライアンは函館競馬場の新馬戦で競走馬としてデビューした。「ビワハヤヒデの弟」として注目を集め2番人気に支持されたが2着に敗れ、中1週で再び同競馬場の新馬戦に出走して初勝利を挙げた。その後3戦目の重賞函館3歳ステークスと5戦目の重賞デイリー杯3歳ステークスではそれぞれ6着と3着に敗れたものの、4戦目のきんもくせい特別と6戦目の京都3歳ステークスを優秀な走破タイム(前者は当時の福島競馬場芝1700mにおける3歳馬レコードに0.1秒差、後者は京都競馬場芝1800mにおける従来の3歳馬のレコードを1.1秒更新)で優勝した。1番人気に支持されたGI朝日杯3歳ステークスでは序盤に馬群の中ほどにつけ第3コーナーで前方へ進出を開始する走りを見せ優勝。GI初優勝を達成し、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれた。デビュー後まもなく、ナリタブライアンには気性面で2つの問題が現れた。1つは常にテンションが高く、特にレースが近づくとそれを察知し一層興奮する傾向があったことである。この問題に対処するために、大久保はローテーションの間隔を詰めて多くのレースに出走させることによって同馬のエネルギーを発散させ興奮を和らげようとした(3歳時にデビューからの4か月間に7回レースに出走したことのほか、4歳時にスプリングステークスに出走したことおよび6歳時に高松宮杯に出走したことにもそうした意図が関係していた)。ただしこの傾向は栗東トレーニングセンター内においてのみ表れた症状であり、後にナリタブライアンが股関節炎を発症し早田牧場で休養していたときはおとなしく、様子を見るために訪れた大久保が「牧場ではこんなに穏やかで優しい目をしているのか」と言ったほどであった。2つ目の問題は生来臆病な性格であったために疾走中に自分の影を怖がり、レースにおいて走りに集中することができなかったことである。この問題は同馬にシャドーロールを装着して下方の視界を遮ることによって解決され、初めてシャドーロールが装着された京都3歳ステークス以降のレースでは競馬評論家の大川慶次郎が「精神力のサラブレッド」と評するほどの優れた集中力を発揮するようになった。もっともシャドーロール装着以前からナリタブライアンの関係者は同馬の素質を高く評価しており、大久保や南井は同馬が敗れたレースにおいてもその素質を賞賛するコメントを残した(ナリタブライアンの関係者による評価を参照)。4歳時となったナリタブライアンの緒戦には、東京優駿(日本ダービー)を見据え東京競馬場のコースを経験させておこうという大久保の意向により、1994年2月14日の共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。レースでは馬群の中ほどに控え、最後の直線入り口で早くも先頭に並びかけるとそのまま抜け出して優勝した。なお前日には兄のビワハヤヒデが京都記念を優勝しており、兄弟による連日の重賞制覇となった(共同通信杯4歳ステークスは本来京都記念と同じ日に行われる予定であったが、積雪によって施行日が1日順延したため、兄弟による同日重賞制覇とはならなかった)。共同通信杯の後、大久保はクラシック第一戦の皐月賞に向けスプリングステークスを経由して出走することを決定。この出走は前述のように気性面の問題に対処するためのものであった。レースでは第3コーナーで最後方からまくりをかけ優勝した。この時点で中央競馬クラシック三冠の可能性が取りざたされるようになり、皐月賞では圧倒的な1番人気に支持された。同レースではゴール前200mの地点から抜け出すと、中山競馬場芝2000mのコースレコードを破る走破タイムで優勝し、5連勝を達成するとともにクラシック一冠を獲得した。(スプリングステークスおよび皐月賞に関する詳細については第54回皐月賞を参照)続く東京優駿では皐月賞の内容がファンによって高く評価され、1番人気に支持された。同レースでは直線の長い東京競馬場でありながら、まくりをかけながらも出走馬の中で最も速い上がりを繰り出して優勝。クラシック二冠を達成した。レース後、野平祐二はナリタブライアンを自身が管理したシンボリルドルフと比較し、「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」と評した(ただし野平は股関節炎を発症した後のナリタブライアンのレースを見て、「ルドルフを超えたかな、と思った時もありました」「あらためて、シンボリルドルフという馬の真価が、わかるような気がします」と評価を改めている)。(レースに関する詳細については第61回東京優駿を参照)東京優駿の後、夏場は札幌・函館の両競馬場において調整された。これは避暑を行うとともに厩舎スタッフが直接調整を行うための措置であった。通常、出走予定のない競走馬に両競馬場内の馬房が与えられることはないが、ナリタブライアンの実績が考慮され、特例で許可された。9月4日の昼休みには函館競馬場内のパドックにおいてファンへの披露が行われた。北海道に滞在中、ナリタブライアンは大久保が「一時は菊花賞を回避することも考えた」と振り返るほど体調を崩し、調整に大幅な遅れが生じた。ナリタブライアンの秋緒戦には菊花賞トライアル競走の京都新聞杯が選択された。ナリタブライアンは単勝支持率77.8%、単勝オッズ1.0倍の1番人気に支持されたが、北海道から栗東トレーニングセンターへ戻った後、それほど強い調教が課されていなかったことから体調面を懸念する声もあり、「ナリタブライアンが負けるとすればこのレース」とも言われた。レースでは最後の直線で一時先頭に立つも内から伸びてきたスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。しかし菊花賞では、京都新聞杯出走後ナリタブライアンの体調は上向いたと判断され、クラシック三冠達成への期待も相まって1番人気に支持された。レースでは、早めに抜け出すと後続を突き放し、芝状態は稍重だったにも関わらず兄ビワハヤヒデが前年にマークしたレースレコードを更新する走破タイムで優勝し、日本競馬史上5頭目となるクラシック三冠を達成した。菊花賞でのナリタブライアンのレースぶりについて武豊は、「まず2000メートルの競馬を走って勝って、そのまま別のメンバーと1000メートルの競馬をやってブッちぎったようなもの」と評している。(京都新聞杯および菊花賞に関する詳細については第55回菊花賞を参照)。古馬との初対戦となった有馬記念では圧倒的な1番人気に支持された。その有馬記念では、4コーナーで早くも先頭に立つと、そのまま突き抜けて優勝(レースに関する詳細については第39回有馬記念を参照)。1994年の通算成績を7戦6勝・GI4勝とし、同年のJRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選ばれた。年度代表馬選考において、投票総数172票のうち171票を獲得して選出されたが、1票のみノースフライトに投票されたため満票は逃した。最優秀4歳牡馬については、満票で選出された。年間総収得賞金は、史上最高額となる7億1280万2000円であった。野平祐二が第54回皐月賞を「大人と子供の戦い」、東京優駿を「1頭だけ別次元」と評したように、ナリタブライアンはクラシック3冠の序盤において既に同世代の競走馬を能力的に大きく凌ぐ存在として認識された。そのため1994年上半期の古馬中長距離路線において3戦3勝、GI2勝の成績を収めた兄ビワハヤヒデを最大のライバルとみなし、兄弟対決に期待するムードが高まった。ビワハヤヒデの管理調教師であった浜田光正は、ナリタブライアンが皐月賞、ビワハヤヒデが天皇賞(春)を優勝した時点で「弟があんな強い勝ち方をするんだから兄の面目にかけても負けられない。年度代表馬の座を賭けることになるだろう」というコメントを出している。一方、2頭の生産者である早田光一郎は、ナリタブライアンが皐月賞を勝った時点で「ビワハヤヒデよりも上」と評価していた。また武豊はビワハヤヒデが宝塚記念で圧勝した直後に「ナリタブライアンなら、もっとすごい勝ち方をしていたはず。現時点でもナリタブライアンの方が上。あの馬の強さはケタ違い」と語っている。ビワハヤヒデ陣営は後半シーズン開始前にジャパンカップ不出走を表明したため、有馬記念における兄弟対決実現に期待が集まったが、ビワハヤヒデは天皇賞(秋)において発症した故障により引退を余儀なくされ、対決は実現しなかった。兄弟の比較について、野平祐二は「中距離では互角、長距離では心身両面の柔軟性に優れるナリタブライアンにやや分がある」と述べている。血統評論家の久米裕は2頭について「血統構成上は甲乙つけがたい」とした上で、1600m-2000mではビワハヤヒデが有利、2400mでは互角、3000-3200mではナリタブライアンが有利と述べている。競馬評論家の大川慶次郎は有馬記念における対決が実現していた場合の結果について、「ビワハヤヒデが有馬記念に出ていたら勝っていたんじゃないか」と予想している。有馬記念後は放牧に出さず栗東トレーニングセンター内の厩舎で調整を行い、天皇賞(春)優勝を目指した。緒戦の候補には阪神大賞典および大阪杯が挙がったが、「休み明けはゆったりしたペースの中で走らせたい」という大久保の意向により、長距離戦である阪神大賞典(3月12日施行)が選ばれた。阪神大震災に伴う影響で京都で行われた同レースにおいてナリタブライアンは生涯最速の上がり(3ハロン33.9秒)を繰り出し、直線で抜け出すと独走で優勝した。しかしレースから11日後の3月23日、腰に疲労が蓄積しているとの診断を受けた。厩舎スタッフは軽めの運動をさせつつ天皇賞(春)出走を目指したが、4月7日に右股関節炎(全治2か月)を発症していることが判明。天皇賞(春)への出走は断念された。ナリタブライアンは約1か月間厩舎で静養したのち早田牧場新冠支場で療養生活を送り、7月上旬から2か月にわたって函館競馬場内において調整が行われた。この時軽い運動しか行われなかったため、マスコミによって体調不安が指摘された。この時期に函館競馬場でナリタブライアンを見た岡部幸雄は、「もうカムバックは難しいだろうなぁと思った」と述べている。9月に栗東トレーニングセンターに戻った後も約1か月間は負荷の強い調教が積極的に課されることはなく、体調不安や調教不足を指摘する声は根強かったが大久保は天皇賞(秋)への出走を決定。1番人気に支持されたがレース終盤に失速し12着に敗れた(なお同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。その後ジャパンカップ・有馬記念に出走したがそれぞれ6、4着に敗れた。なお、主戦騎手の南井は10月14日(天皇賞(秋)の2週間前)にレース中の落馬により右足関節脱臼骨折(全治4か月)を負い騎乗が不可能となったため、天皇賞(秋)では的場均が、ジャパンカップ、有馬記念および翌年の阪神大賞典では武豊が騎乗した。前述のように阪神大賞典出走後の4月7日、ナリタブライアンは右股関節炎を発症していることが判明した。故障を発症する2か月前の1995年2月、関西テレビ・フジテレビ系列で放送されていた視聴者参加型オークション番組『とんねるずのハンマープライス』に、関係者から提供されたナリタブライアンのたてがみ数十本が出品され、44万円で落札された。競馬社会では現役競走馬の馬のたてがみを切ることは縁起が悪いというジンクスが存在するが、実際に出品から2ヵ月後の同年4月にナリタブライアンは故障を発症した。大久保は後にそのジンクスを念頭において、「ナリタブライアンが走らなくなったのはたてがみをとられてからだ」とコメントした。復帰後のナリタブライアンの体調については、万全ではないという判断が多くなされた。大川慶次郎は天皇賞(秋)の後、厩舎において同馬を見た際の印象として「整体が狂っている、それもかなり重症ではないか」、「肉がまったくなく、全盛期を100とすれば60か70」と評価した。大川は、ナリタブライアンの体調が引退するまでに故障前の状態に戻ることは無かったと述べている。岡部幸雄は天皇賞(秋)出走時の状態について「全然、覇気がなかった」と評している。また、ジャパンカップにおいてランドに騎乗したマイケル・ロバーツは「私の記憶している全盛期のナリタブライアンではなかった」とコメントした。天皇賞(秋)から有馬記念にかけてのレース振りについて、的場均と武豊はともに「途中まではいい感じだったが、直線で止まってしまった」とコメントした。1996年の緒戦には前年と同じく阪神大賞典が選択された。レースでは前年の年度代表馬マヤノトップガンをマッチレースの末に下し、同レース連覇を果たすとともに1年ぶりの勝利を挙げた。なお、この第44回阪神大賞典はしばしば日本競馬史上の名勝負のひとつに挙げられる一方、そのことを真っ向から否定する意見もある(レースに関する詳細については第44回阪神大賞典を参照)。阪神大賞典を勝利したことによってナリタブライアンの復活が印象づけられ、復帰した南井が騎乗した天皇賞(春)では1番人気に支持されたが、レースではサクラローレルに差されて2着に敗れた。大久保はこのレースにおける南井の騎乗法(折り合いを欠いたナリタブライアンを第3コーナーでスパートさせた)を「武豊が乗ったらあんなふうに掛かっただろうか」と非難した(レースに関する詳細については第113回天皇賞を参照)。天皇賞(春)の後、陣営は宝塚記念優勝を目標に据えた。大久保は宝塚記念の前に一度レースに出走させる方針を立て、芝スプリント戦のGI・高松宮杯に出走させることを決定した。中長距離の実績馬がスプリント戦に出走するのは極めて異例のことであったためこの出走は話題を呼んだ。また、騎手は南井から武豊に変更された。レースでは終盤に追い上げるも4着に敗れた。このレースで賞金を加算したことでナリタブライアンの通算獲得賞金は10億2691万6000円となり、史上初めてドル換算で1000万ドル($10 million)以上の賞金を獲得し、メジロマックイーンを抜いて歴代1位(当時)となった(レースに関する詳細については第26回高松宮杯を、同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。高松宮杯から約1か月後の6月19日、ナリタブライアンは右前脚に屈腱炎を発症したと診断された。ナリタブライアンは同月28日に函館競馬場、8月には早田牧場新冠支場へ移送され、治療が行われた。大久保はナリタブライアンの復帰に強い意欲を見せていたが、9月に日刊スポーツがナリタブライアンの引退が決定したと報道。さらに読売新聞の取材に対して山路が引退を認めた。橋本全弘によると、この時期に大久保を除く関係者の間で引退に向けた話し合いが行われており、種牡馬となった際のシンジケート株の予約が開始されるなど引退へ向けた動きが起こっていた。10月7日に大久保と山路、工藤の3者による話し合いが行われ、正式に引退が決定した。なお、大久保は引退が決まった後もナリタブライアンを走らせることへの未練を口にしている。11月9日には京都競馬場で、11月16日には東京競馬場で引退式が行われた。関東と関西2か所で引退式が行われた競走馬はシンザン、スーパークリーク、オグリキャップに続きJRA史上4頭目であった。1997年には史上24頭目の顕彰馬に選出された。1997年に生まれ故郷である新冠町のCBスタッド(早田牧場の傘下)で種牡馬となり、内国産馬として史上最高額となる20億7000万円のシンジケート(1株3450万円×60株)が組まれた。1997年には81頭、1998年には106頭の繁殖牝馬と交配された。交配相手にはアラホウトクやファイトガリバーといった牝馬クラシックホース、アグサン(ビワハイジの母)やモミジダンサー(マーベラスサンデーの母)など繁殖実績の高い輸入馬、スカーレットブーケといった国内外の良血繁殖牝馬が集められた。1998年6月17日に疝痛を起こし、三石家畜診療センターで診察を受けた結果腸閉塞を発症していることが判明した。緊急の開腹手術が行われ一旦は快方に向かったが、9月26日午後に再び疝痛を起こした。三石家畜診療センターに運び込まれた際にはすでに胃破裂を発症しており、開腹手術を行ったものの手遅れであった。9月27日に安楽死の措置がとられた。早田光一郎によれば、ナリタブライアンは疝痛を起こした日の昼までは、ちょうどスタッドを訪れていた山路秀則と早田を前に、機嫌良さそうな様子を見せていた。夜になって突然疝痛の症状が現れた後も、診療センターに付き添ったスタッド場長の佐々木功は「すぐに帰れる」と踏んでいたが、夜が明けても疝痛は治まらず、開腹した際に腸捻転と胃破裂が発見された。このとき佐々木は獣医師から「どうにもならない」と告げられたという。佐々木は「我慢強い馬で頑張り屋だから、痛くても無理をしていたのかもしれない」と語っている。なお、ナリタブライアンの馬房には監視カメラも設置されており、夜には佐々木自ら見回りも行っていた。ナリタブライアンは9月27日にCBスタッドの敷地内に埋葬された。同年10月2日には追悼式が行われ関係者・ファンおよそ500人が参列した。死後、1999年9月に栗東トレーニングセンター内にナリタブライアンの馬像が建立された。命日にあたる2000年9月27日にナリタブライアン記念館が開館した(2008年9月30日閉館)。中央競馬クラシック三冠達成から10年後の2004年10月、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「ナリタブライアンメモリアル」が同年の菊花賞施行日に京都競馬場にて施行された(優勝馬ハットトリック)。ナリタブライアンは2世代に渡り産駒を残しており、死亡から2年後の2000年に1世代目が、翌2001年に2世代目がデビューした。しかし、重賞を勝つ馬は出なかった(重賞ではマイネヴィータ・ダイタクフラッグが記録した2着、GIでは2002年皐月賞でダイタクフラッグが記録した4着が最高着順)。また、1頭も後継種牡馬を残す事が出来なかった。牝馬は多数繁殖入りしており、2005年5月24日に道営でインスパイアローズが孫として初勝利した。2010年にはオールアズワンが札幌2歳ステークスで母父として初めて重賞制覇した。孫は海外でも限定的ながら活躍しており、2010年2月24日にはGolden Diveがゴスフォードで勝利したのを始め、重賞でもPerignonが2016年のライトフィンガーズステークスを勝利している。このほかHollyweirdがオーストラリアの重賞で3着に入っている。前述のように、ナリタブライアンの初期調教を担当した其浦三義は、バネや背中の柔らかさ、敏捷性において半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じたと述べている。競走馬時代に主治医を務めていた獣医師の富岡義雄は、筋肉の柔らかさを特徴として挙げている。岡田繁幸はナリタブライアンを「20年に一頭の馬体と筋肉の持ち主」と評している。吉川良によると第55回菊花賞の前日、岡田は吉川に対し「ナリタブライアンは理想の馬だな。ああいう馬を作りたくて苦労してるわけさ。馬体のバランスも、筋肉の質も、走り方も、すべて理想にかなってる」と語ったという。ナリタブライアンを担当していた装蹄師の山口勝之によると、ナリタブライアンの4つの蹄は大きさがほぼ同じ(一般にサラブレッドの蹄は前脚のものよりも後脚のもののほうが小さい。)で、装着した蹄鉄が4つとも同じように擦り減っていったという(通常は減り方が蹄によって異なる)。山口は、4つの蹄の大きさが同じなのは身体のバランスがとれている証だと述べている。なお5歳時に右股関節炎を発症した後、函館競馬場で山口が蹄を見ると、右後脚の蹄だけが他の3つよりも小さくなっていたという。山口は、股関節炎の痛みを庇ってそうなったのだろうと推測している。蹄は2か月ほどで元に戻ったという。前述のように、ナリタブライアンは興奮しやすく、かつ臆病な気性の持ち主であった。陣営は前者についてはローテーションの間隔を詰めて多くのレースに出走させ、同馬のエネルギーを発散させることによって、後者についてはシャドーロールを装着して下方の視界を遮ることによって(疾走中に自分の影を怖がることがないよう)解決を図った。なお大川慶次郎によると、ナリタブライアンは競走馬生活の途中で精神的に成長しシャドーロールを装着しなくとも走りに集中できるようになったが、その時にはシャドーロールがナリタブライアンのトレードマークになっていたという。主戦騎手の南井も、1995年初めに受けたインタビューで「シャドーロールをとっても問題ないと思う」、「(シャドーロールは)今ではマスコットがわりのようなもの」と述べている。ナリタブライアンは4歳の春から、調教の際にはシャドーロールを外していた。大久保は皐月賞後に、レースでシャドーロールをつけ続けたのは「縁かつぎ」と「識別しやすい」ためと答えている。シャドーロールはナリタブライアンの代名詞的存在となり、同馬は「シャドーロールの怪物」と称された。主戦騎手の南井は、ナリタブライアンの競走馬としての長所を「いい脚を長く使えること」と評している。レースでは優れた集中力を発揮し、「他をぶっちぎって勝つ」と称された。ナリタブライアンの関係者はデビュー前からナリタブライアンに高い素質を感じていた。デビュー戦の直前期に調教で騎乗した南井は、加速の仕方がオグリキャップと似ていたことから「これは走る」という感触を得ていた。また、調教助手の村田光雄は、初めて調教のために騎乗した時に「これはモノが違うかもしれない」と感じた。ただしマスコミに対しては高評価を与えた馬ほど走らないというジンクスを意識して「ビワハヤヒデと比べるのはかわいそう」などと控え目なコメントを出し続けた。デビュー後も関係者は高い評価を与え続けた。南井はデビュー戦で2着に敗れたにもかかわらず、「この馬はすごい」と評した。その後も南井はナリタブライアンに高い評価を与え続け、東京優駿優勝後には「今まで乗った馬の中で一番強いんじゃないか」とコメントした。大久保はデビュー戦の後、「この馬は強い。モノが違う」と絶賛し、早田に対し初勝利を挙げた2戦目のレース後に「この馬は、兄を超えますよ」、函館3歳ステークスでは6着に敗れたにもかかわらず「凄い馬ですね。間違いなく大物になります。」と語った。さらにスプリングステークスを優勝した際「ダービーを勝てそうか」と問われ、「まあいけるんじゃないの」と答えた。きんもくせい特別で騎乗した清水英次は「(清水が騎乗したことのある)ナリタタイシンの今頃よりも乗りやすい。とにかく器が違う。」と評した。また騎手を引退した後に、自身が騎乗した中でトウメイと並んで最も賢い競走馬だったと評した。武豊は他の競走馬に騎乗してブライアンと対戦した際の感想として、「全然勝てる気がしない。ナリタブライアンに負けても仕方がないと納得してしまう」とコメントしている。その他の競馬関係者による評価を見ると、オリビエ・ペリエは「印象に残る馬」の1頭としてナリタブライアンを挙げ、「この馬の競馬ぶりは本当に衝撃的だった」、「全盛時の走りは世界クラスだった」と述べている。前述のように野平祐二は東京優駿のレース後、自身が管理したシンボリルドルフと比較して「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」と評したが、股関節炎を発症した後のナリタブライアンのレースを見て、「ルドルフを超えたかな、と思った時もありました」「あらためて、シンボリルドルフという馬の真価が、わかるような気がします」と評価を改めている。競走馬名「ナリタブライアン」の由来は、馬主の山路秀則が大久保正陽厩舎への預託馬に使用していた冠名「ナリタ」に父ブライアンズタイムの馬名の一部「ブライアン」を加えたものである。愛称・呼称については、「ブライアン」が一般的で、特にサニーブライアンが皐月賞を制したころからはナリブーとも呼ばれた。厩務員の村田光雄は「ブー」と呼んでいた。また、前述にように気性改善のために装着したシャドーロールが代名詞的存在となったことから「シャドーロールの怪物」とも呼ばれた。クラシック三冠を含むかつての八大競走を4勝していることから「四冠馬」とも称される。競馬ファンによる投票での評価をみると、2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」において37,798票を獲得し、1位となった。現役時代には東京優駿で、当時としてはハイセイコーの66.6%に次いで同レース史上2番目に高い61.8%の単勝支持率を集めた。また、同レース単勝馬券の配当額120円はシンボリルドルフの130円を下回り、当時としては同レース史上最低のものであった。競馬関係者による投票での評価をみると、雑誌「Number」(「Number PLUS」1999年10月号)が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」で3位となった(1位はシンザン)。全日本フリーハンデでは、三冠を達成した1994年に129ポイントを獲得している。これはシンボリルドルフの128ポイントを上回り、日本の4歳馬としては当時史上最高の評価である。ナリタブライアンのローテーションの組み方を巡っては、しばしばマスコミによる批判の対象となった。調教師の大久保はそうした報道やマスコミの報道姿勢に反発し、取材拒否をするなど、両者の関係は必ずしも良好とはいえなかった。レースに出走させ過ぎであるという批判はナリタブライアンが競走馬として頭角を現すようになった当初から根強く、たとえば岡部幸雄は5歳時に故障を発症したのは3歳時のキツいローテーションのツケであると述べている。一方、大久保は「レースに出走させることによって競走馬を強くする」という持論によってローテーションを正当化している。また早田は前述の気性面の問題を解消するための措置であったと大久保を擁護した。なお、ナリタブライアンは出走レース数(21戦)と敗戦数(9敗)が、歴代の牡馬クラシック三冠達成馬の中ではオルフェーヴルと並んで最も多く、三冠を達成するまでの間に4敗を喫している(2011年に三冠を獲得したオルフェーヴルも達成までに4敗を喫している)。前述のように体調不安や調教の不足が指摘されていたにもかかわらず大久保が出走を決断して大敗したため、出走を批判するマスコミが多かった。特に大川慶次郎は、「『あれほどの馬を状態が悪いのに使ってくるわけがない』と信じていたが間違いは調教師自身の見識にあった」「あれだけの馬を調教代わりにレースに使うのは間違いである」と大久保を強く批判し、その後のジャパンカップと有馬記念を含め5歳秋における一連の出走について「関係者はよってたかってナリタブライアンをただの平凡な馬に蹴落とそうとしているのではないか」という思いを抱いたと述べている。また岡部幸雄は出走に関して、「ああいう使い方だとミソをつけてしまう」、「あれだけ強かった馬の価値をただの馬に下げてしまう」、「結局、日本人の感覚って、そんなもの」と批判した。これに対し大久保は「レースに出走させることによって競走馬を鍛えるという信念に基づく出走であった」、「調教の動きがよかったので出走させた」、「天皇賞(秋)に出走したことによりジャパンカップと有馬記念では成績は上昇しているので間違いだったとは思わない」としている。なお大久保は天皇賞(秋)の直後からジャパンカップ直前期までの間、ナリタブライアンの体調に関するコメントを出さないことにより限定的な取材拒否を行った。高松宮杯出走に関してはレースの前後を通じ、ナリタブライアンの距離適性の面から出走を疑問視ないし批判するマスコミが多かった。大久保は出走を決断した理由について、当初「ブライアンは股関節炎の心理的な後遺症で長い距離を走らせると嫌がるようなそぶりを見せていた。そのために短距離戦を選んだ」と語っていた。しかし後にはそれを否定し、天皇賞(春)ではナリタブライアンは思い切り走っていたとし、むしろ「本当に強い馬は距離やコース形態を問わず勝てるはずだ」という信念が強く反映された出走であったとしている。さらに、世間をあっといわせたかった(ちなみにレース後、大久保は「盛り上がったでしょう」とコメントしている)、中京競馬場には一度も出走させていなかったためファンサービスの意味合いもあったとしている。これに対し大川は「本当に強い馬は距離に関係なく勝てるはずだ」という思想は競馬番組の距離体系が整備されていなかった昔の考えであり、ひどい時代錯誤だと批判した。藤野広一郎は、「ひとのエゴによって悲しきピエロにまで貶められた偉大な馬のプライドは、いったい、誰によって償われるのか」と非難した。なお、高松宮杯では前述のように、南井から武豊への騎手の乗り替わりが行われた。その理由について大久保は当初、「天皇賞で2着に負けたから交代したわけじゃない」「ブライアンが元気なうちにお礼として武豊に騎乗してもらおうと思って」と説明していたが、橋本全弘は南井が降板させられたのだとしている。この騎手交代について大川慶次郎は、「南井ほどの、しかもナリタブライアンと一対のパートナーであった騎手を一度の騎乗ミスを理由にないがしろにすることは許されるものではない」という主旨の批判をした。ナリタブライアンの両親(父ブライアンズタイム、母パシフィカス)は、ともに同馬の生産者である早田光一郎が輸入したサラブレッドである(輸入の詳細な経緯についてはそれぞれの項目を参照)。早田は生産した馬が種牡馬や繁殖牝馬となった際に近親交配を避けやすいという理由からアウトブリードの交配を好み、ナリタブライアンについて両親がともに血統表を5代遡ってもインブリードを持たず、かつ互いを交配させて誕生する馬もまた血統表を5代遡ってもインブリードを持たないという認識のもとに交配がなされた。早田は、ナリタブライアンがデビュー当初数多くのレースに出走できた丈夫さをアウトブリードによるものとしている。木村幸治は、早田が同じ年(1989年)にノーザンダンサーを祖先に持たないという理由でブライアンズタイムを、ノーザンダンサーの産駒であるという理由でパシフィカスを購入した事実について、「この男の意図が、ナリタブライアンという馬の誕生をもたらしたことだけは明らかである。決して偶然ではなく―」と述べている。ナリタブライアンは母パシフィカスの第5仔に当たる。"血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照。" "39104

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。