標茶町(しべちゃちょう)は、北海道釧路総合振興局管内の川上郡にある町。主に富山県、長野県からの満蒙開拓団(弥栄開拓団)の引揚者が戦後多数移住した。町名の由来はアイヌ語の「シペッチャ」(大きな川のほとり)から。釧路総合振興局のほぼ中央に位置する。距離は釧路市中心部から北東に約40km。町の面積は1,099.56 km²。日本全国の町村では、6番目に広い。町を南北に釧路川が流れ、川に沿って釧網本線、国道391号などの交通網が走る。南部には釧路湿原を有する。釧路湿原の総面積18,290haのうち標茶町が占める面積は11,993haで全体の約65%にあたり、四市町村中最も多い。町の境界線を北西を上にして見ると羊のように見えるとされている。周囲四方に山に囲まれた盆地で夏と冬の寒暖差が激しく、夏は釧路などよりも気温が上がる。太平洋側気候のため積雪量は少ない。1885年に網走刑務所の前身である釧路集治監が開設されたのが始まり。郡役場や戸長役場、日本銀行の出張所も設置され、一時期は釧路に匹敵する規模の町となった。服役する囚人は最盛期で2,000人近くに上り、釧路-網走間の道路の建設、釧路鉄道の建設、川湯のアトサヌプリ(硫黄山)での硫黄の採掘などの役にあたった。1887年には硫黄山の硫黄の輸送のため、標茶-硫黄山間に北海道で二番目の鉄道が建設された。硫黄は標茶で積み替え、釧路までは水運で運ばれたが、乱掘のため資源が枯渇し、採掘は9年足らずで廃止された。1901年に釧路集治監は廃止され、機能は網走分監にうつされる。1903年の弟子屈村の分離も重なり、人口が激減するが、1908年に軍馬補充部が集治監跡地へ設置されたことにより、再び町は活気にあふれた。軍馬補充部は1945年に廃止、敷地の一部と建物は戦後まもなく開校した標茶高校に、残りの敷地は農地等に転用された。標茶高校の敷地が広いのは、これらの歴史的経緯のためである。2004年(平成16年)11月現在、他の自治体との合併予定はない。主要産業は酪農。農家の戸数は年々減少しているが、逆に乳牛の頭数は増大、大規模化が進んでいる。標茶町で酪農が開始されたのは昭和に入ってからで数戸の酪農家が生乳をバター、クリーム等に加工して釧路で販売していた。昭和9年頃から各地で集乳所が建てられ、本格的に酪農が行われるようになった。近年は南部の塘路湖を中心とした観光開発が進み、釧網本線のトロッコ列車「くしろ湿原ノロッコ号」が釧路駅 - 塘路駅間にて運転されている。塘路湖ではカヌー体験などが可能。冬季はSL冬の湿原号が釧路駅 - 標茶駅間にて運転されている。標茶(市街地)、磯分内、厚生、多和、栄、ルルラン、南標茶、五十石、沼幌、虹別、阿歴内、塘路、久著呂、オソベツ、茶安別人口は1960年(昭和35年)の17,424人(国勢調査)をピークに減少が続く。町内にある北海道標茶高等学校は日本一広い高校(大学を除けば日本一広い学校でもあり、大学も含めた単一キャンパスの広さでは日本で三番目)。敷地面積は255万平方メートル。釧路管内ではじめて総合学科が設置された。かつて町内に存在した鉄道町内には各所で温泉が湧出し、日本有数の温泉湧出量を誇る。 町民の憩いの場としても利用されているが、他地区の温泉と比べて特徴が無いためか、廃業した温泉も多い。
出典:wikipedia
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