寒河江市(さがえし)は、山形県のほぼ中央にある人口約4万1千人の市。西村山郡の中核都市として発展してきたほか、県内随一のサクランボの産地としても知られる。山形盆地の西側に位置し、約20km南東に位置する山形市が一望できる。吾妻連峰を発した最上川が五百川峡谷を抜けて山形盆地に注ぐ出口に当たり、市の西にある朝日連峰や出羽山地から流れる最上川最大の支流寒河江川が、市域の東で最上川と合流する。この二つの川が形成する扇状地に市街地が位置しており、市の北部は葉山の南麓を中心とする山地で、東部には最上川の沖積低地が広がっている。南は中山町、東は天童市・河北町・村山市、北は大蔵村、西は西川町と接しており、南西に隣接する大江町との境界は飛地が入り組んでいる。盆地の中に位置するため、盆地特有の内陸型気候で寒暖の差が大変激しく、夏は暑く冬は寒い。山形盆地東部と比較すると、夏の最高気温・冬の最低気温ともに若干低く、降水量・降雪量は若干多い。(『寒河江市の統計2016』 寒河江市)平成25年7月、村山地方は記録的な大雨に見舞われたが雨量計の故障により欠測。近隣観測所の雨量データは以下の通り。寒河江市の周辺には後期旧石器時代頃から人々が住んでいたようである。後期旧石器時代の遺跡として金谷原遺跡(寒河江市柴橋)が知られている。この遺跡では大量の石器群が発掘され、石器製造所であったと解される。また、高瀬山遺跡(寒河江市字高瀬山)では旧石器時代~中石器時代の尖頭器が出土している。高瀬山遺跡付近は最上川左岸の段丘上であり、これ以後も縄文・弥生・古墳時代の遺構が発見されている。大正時代の調査では10数基の古墳群が認められたが、ほとんどが破壊され現在は1基のみが残る(高瀬山古墳)。昭和7年(1932年)土地の所有者が古墳の南側を崩したところ石槨が現れ、被葬者の人骨は遺存していなかったが直刀が出土した(山形大学付属博物館所蔵)。平成15年の調査で、この古墳は外径34メートル内径23メートルの周溝を持つ、高さ1.3メートルの円墳だったことが判明した。この古墳は古墳時代後期(7世紀前後)のものと考えられている(県指定史跡)。7世紀末ごろ道奥国(陸奥国)に編入され、和銅5年(712年)新たに成立した出羽国の最上郡(現在の村山地方・最上地方)となった。仁和2年11月11日(886年12月10日)最上郡が2郡に分割され村山郡長岡郷に属すようになる。高瀬山遺跡では奈良時代から平安時代までの住居跡が発掘されており、平野山遺跡(寒河江市柴橋平野山)でも奈良時代から平安時代にかけての窯跡群が検出されている。平安中期ごろ寒河江荘が成立したと考えられ、荘園主で摂政の藤原忠実により鳥羽上皇の勅宣をもって慈恩寺の大規模な再建が行われた。また、慈恩寺は後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により山号も賜っている。鎌倉時代になると大江広元が地頭となって荘内の中心として栄えた。寒河江八幡宮は大江氏(寒河江氏)の産土神として、また寒河江荘総鎮守として勧請されたという。鎌倉時代後期から室町時代にかけて寒河江城の築城が行われ、堀を満たすために開削された二の堰により平野部の開発がすすんだ。また、寒河江城の城下町として発展した。天正12年(1584年)に、大江氏は最上義光に滅ぼされ、中世以来の寒河江城は最上氏によって維持、整備されることになった。また、最上氏は兵火によって荒廃した慈恩寺の再建も行っている。元和8年(1622年)最上氏が改易されると寒河江は天領(鳥居氏預地)となり寒河江城は破却され、寒河江城跡(楯南村南町)に役館(出張陣屋)が置かれ陣屋町として発展した。白岩は酒井忠重の所領となった。寛永13年(1636年)鳥居氏が改易されると、役館が天領を治める幕府代官陣屋(元締陣屋は尾花沢・長瀞陣屋)となり、代官の手代が寒河江領の運営を行った。寛永15年(1638年)白岩領主酒井忠重が、苛政による領民の出訴により庄内藩へ蟄居となり、白岩も天領となる。しかし、事はこれでは落着せず、白岩の百姓が山形藩主保科正之に訴えを起こし、36名が処刑されるという事件が起きている(白岩一揆)。貞享4年(1687年)寒河江陣屋は出張陣屋から元締陣屋に分離独立し、宝暦5年(1760年)頃から柴橋にも陣屋が創設され、代官による支配体制が幕末まで続いた。江戸時代には商品作物の生産も盛んに行われ、元治元年(1864年)の『最上名所名産名物番付』によると、「サラヌマノ西瓜」(現・寒河江皿沼)「白岩アラレ」(現・寒河江市白岩)などが特産品だったことがわかり、また、平野部では紅花、山間部では青苧の生産が盛んであった。同番付の名所には「白岩川ノ砂金」、「平塩ノ熊野山」(平塩熊野神社)、「慈恩寺馬ノ絵馬」(慈恩寺)、「寒河江ノ八幡宮」(寒河江八幡宮)などが見える。寒河江川は古くから砂金を産出することが知られており、河川に流れ出たものを拾い上げる形で採取が行われた。また、天和2年(1682年)に発見された幸生銅山より、銅や亜鉛が採掘された。水量の豊かな最上川と寒河江川に囲まれた寒河江市は近世、その平野部でしばしば洪水が起こり寛永21年(1644年)からの225年間で109回の水害に見舞われている。最上川地域では洪水によって蛇行した流路を直行させる方法により治水が行われ、寒河江川では約200年間で実に70回もの堤防工事が行われた。水害の頻発とともに、河川沿いでは水除け信仰も広まった。慶応3年(1867年)大政奉還が行われると翌慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦いが行われ、2月村山郡幕領七万四千石は庄内藩預地となり、郡代高橋省助を派遣し寒河江にも250人余りの庄内藩士が入った。高橋は幕府代官山田左金次が江戸へ出た留守中、柴橋元〆河野俊八から移管手続を受けた。しかし、奥羽鎮撫総督九条道孝が3月23日仙台に入ると、4月2日仙台から新政府軍が進攻するという報を受けて庄内藩士は撤退し、その夜薩摩・長州・仙台・天童など400名余の新政府軍が寒河江に入った(柴橋事件)。慶応3年度の年貢米を求めてのことであったが、庄内藩は最上川の船運により既に酒田へ運んだ後だった。4月5日には薩摩・長州など大半は引き上げたが仙台勢は残り、村々の入り口に仙台領と書いた標柱を建てた。その後柴橋元〆河野俊八が「羽州村山郡長岡郡司代格」に任命されたため、4月19日ごろには仙台勢も引き上げた。ところが、清川口の戦いで勝利した庄内勢が4月25日三番大隊隊長酒井兵部順孝を大将として寒河江に入り柴橋陣屋を急襲する。寒河江の村々の名主を集めて年貢米を半減して安堵し、最上川を挟んで天童勢と銃撃戦を展開した。閏4月1日になると米沢からの援軍500余名が到着、翌閏4月2日には庄内から二番大隊隊長酒井了恒率いる600余名が谷地(河北町)に到着し庄内勢は援軍を含めて総勢1500余名となった。閏4月4日早朝、酒井順孝および酒井了恒は総勢1200名を率いて最上川を渡河し天童へ進攻、奥羽鎮撫副総督澤為量を破り天童城・寺院3か所・町屋233戸を焼いた(天童の戦い)。庄内藩主は朝敵になることを恐れて即時停戦して撤退するように厳命したので、庄内勢は天童攻略に協力した村々の貧民に500俵の手当米を出して庄内へ退却した(入間森畑の戦い)。5月3日奥羽越列藩同盟が締結されると庄内勢は再び寒河江に進出し、柴橋代官所や諸寺院を占拠して郷村支配にあたった。新徴組隊士が治安維持を担ったようである。8月28日米沢藩が官軍に降伏すると庄内藩に対する包囲網は狭まり、三重から新潟を転戦してきた桑名・庄内軍が9月19日寒河江に入った。新政府軍は降伏した米沢藩を尖兵として既に山形市柏倉まで迫っており、寒河江の庄内勢は庄内へ撤退の準備を開始していた。9月20日払暁、薩摩・米沢勢の先鋒が寒河江市内に火をかけながら進入、しだいに桑名・庄内勢は後退し白岩陣ヶ峰で銃撃戦を行って幸生(寒河江市幸生)を経由して肘折(大蔵村)へと退却していった。庄内勢本隊は六十里越を退却した。この戦闘での戦死者は双方で30余名、焼失家屋は90軒ほどだったという(長岡山の戦い)。9月22日会津藩が降伏し翌日庄内藩も降伏して、東北地方での戊辰戦争は終結した。明治2年(1869年)天領から酒田県(第1次)に入り、翌明治3年(1870年)酒田県が山形市に移り山形県にかわる。明治11年(1878年)郡区町村編制法により寒河江市南町に西村山郡役所が置かれ、初代郡長にはかつて会津藩家老であった海老名季昌が就いた。明治18年(1885年)に楯北、楯南、楯西、本楯の4村が合併して寒河江村となる。明治22年(1889年)4月1日、町村制施行に伴い、現在の市域にあたる寒河江村、西根村、柴橋村、高松村、醍醐村、白岩村、三泉村が発足。明治26年(1893年)1月7日には、寒河江村が町制施行し寒河江町となった。1921年(大正10年)に左沢線寒河江駅が新設され、大正11年(1922年)以降は山形市に至る左沢線の全線開通によって西村山郡一帯の行政・経済の中心地として発展した。寒河江市には、山形県の村山地方に置ける出先機関である、村山総合支庁の西庁舎も置かれている。戦後に入り、1954年(昭和29年)8月1日に、寒河江町、西根村、柴橋村、高松村、醍醐村が合併し寒河江市となった。市長は、佐藤誠六が昭和60年(1985年)から長らく務めた後、平成21年(2009年)1月20日からは村山総合支庁長を務めた佐藤洋樹が就任した。昭和42年(1967年)に竣工した市役所庁舎は若き日の黒川紀章が設計したものであり、後に世界的な建築家となる彼が設計した建築物としては最初期にあたるものである(2003年日本におけるDOCOMOMO100選)。ホール中央には岡本太郎作のオブジェ『生誕』が飾られている。2013年8月から耐震改修免震工事を行い、2014年2月末に完了した。農村部は果樹栽培が盛んで、サクランボは県内第三位の生産を誇る。夏バラ(切り花)の生産量は全国でも有数で食用菊「もってのほか」の生産も盛んである。ほかに地場産業として、フルーツやコンビーフの缶詰加工業、ニット工業、草履の生産などがある。また、中央工業団地・ニューチェリーハイテクランドには、数多くの先端企業が進出し、1992年には技術交流プラザが完成、産学官一体となった開発、交流を行っている。産業人口は、となっている(平成22年度国勢調査による)。寒河江中部小学校は、文部科学省が推進する「学力向上フロンティア事業」指定校(フロンティアスクール)である。仙台から山形を経由して庄内地方へ通じる山形自動車道が西に向かって伸びているほか、山形市と鶴岡市を結ぶ国道112号(旧六十里越街道)、東根市と米沢市さらには新潟県をつなぐ国道287号も通る。山形空港も至近距離にある。市の南部は最上川・寒河江川が流れるため、多くの橋が架かる。国道112号と、山形自動車道が市街地を迂回している。山形自動車道寒河江インターチェンジは市街地の南東で国道112号に接続する。また、2006年(平成18年)9月30日まで寒河江サービスエリアでスマートインターチェンジの設置実験が行われていたが、恒久的に設置されることになった。これを利用すると、市街地南西部へのアクセスが向上する。高速道路を利用した場合、仙台宮城ICからの距離は70.9km、55分、酒田ICまでは96.1km、1時間30分である。また首都高速川口JCTからは367.5km、3時間52分である。南奥羽方言の山形弁に分類され、村山弁に当たる。山形県村山地方の食文化に含まれ、一部山間地域の食文化も有する。内食では芋煮、納豆汁、いるか汁、ひっぱりうどん、からかい、棒鱈、いなごの佃煮、だし、ひょうのお浸し、ワラビなどの山菜、食用菊、青菜漬け 、凍み大根、凍み餅などがある。外食では冷やしラーメン、冷たい肉そば、やきとり、玉こんにゃく、どんどん焼き、あじまんなど。山形県の人口10万人あたりのラーメン店舗数は69.46軒と全国1位(平成23年iタウンページ掲載店舗数と都道府県別人口で計算)だが、本市においても人口10万人あたり71.28軒(平成23年iタウンページ掲載店舗数と市町村人口で計算)と多い。かつては月1回は餅を振舞う行事があり、神仏にそなえたという。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。