匝瑳郡(そうさぐん)は、千葉県(下総国)にあった郡。海上郡と合わせた地域が海匝と呼ばれ、香取郡も合わせ香取海匝と呼ばれる場合がある。『続日本後紀』に、「昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、仍て以て氏となすことを得しむ。是れ即ち熊猪等の祖なり。」とあり、 物部小事の坂東を征した功勳により建郡されたとされ、香取郡を挟んだ常陸国信太郡とともに物部氏との深い関係が伝えられる。なお、香取神宮の摂社に匝瑳神社があり、この摂社の造り替えは、古くは当郡の役であったともされる。現在の匝瑳市生尾には式内社の老尾神社があり、老尾神社の祀官は香取氏で、私穀を陸奥国鎮所に献じた功績により外従五位下を授けられた香取連五百嶋は当郡に居住したとも、あるいは年老いて大禰宜を辞した後当郡に引退したともされ、香取郡や香取神宮との関係が伝えられ、香取神宮と物部氏との関係も説かれる。平安時代には小事の子孫を称する物部匝瑳氏が代々鎮守将軍に任ぜられ、当郡や常陸国信太郡の他印旛郡にも物部氏の勢力が及んでいることが知られている。物部匝瑳足継は弘仁3年(812年)2月に鎮守将軍に任ぜられ、物部匝瑳熊猪も承和元年(834年)5月に鎮守将軍に任ぜられた。この時まで物部匝瑳氏の本貫は当郡であったが、承和2年(835年)3月に至り、宿禰の姓を賜るととも本貫を左京二条に移した。隣り合う香取郡は神郡であり、古代の郡域は近世以降と大きく異なっていた。『和名類聚抄』には野田・長尾・辛川・千俣・山上・幡間・石室・匝瑳・須賀・大田・日部・玉作・田部・球浦・原・栗原・茨城・中村の18郷を記し、香取郡の一部も含んでいた。平安時代末には当郡を分割して、匝瑳北条荘と匝瑳南条荘および玉造荘、千田荘が立荘されている。また、本拠とした皇嘉門院判官代藤原親政は、治承4年(1180年)源頼朝に呼応した千葉常胤に敗北している(結城浜の戦い)。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
出典:wikipedia
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