香取郡(かとりぐん)は、千葉県(下総国)の郡。以下の3町を含む。大化から天武天皇期にかけて順次設置されたとされる八神郡のひとつであり、下海上国あるいは匝瑳郡の一部を割いて建郡されたとされる。香取神宮の神郡として重んじられ、養老7年(723年)11月16日には郡司に近親者の連任が許されている。一般に郡を治める郡司に近親者を続けて任命することは禁止されていたが、香取郡では神社を代々まつってきた香取氏が重視されたものである。なお、古代の香取郡は神郡(郡全体が香取神宮の神領)であり、郡域は近世以降より狭く、ほぼ現在の香取市のうちの旧佐原市と、神崎町および成田市の一部に限定されていた。東南に位置するする匝瑳郡は、物部小事の坂東を征した功勳により建郡されたとされ、小事の子孫を称する物部匝瑳氏が足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられ、その功績により香取神宮の神階も上がっている。香取海を挟んで西北に位置する常陸国信太郡は、物部河内、物部会津らの請願によって建郡されたとされ、物部氏との深い関係が伝えられる。また、香取神宮の摂社に匝瑳神社があり、この摂社の造り替えは、古くは匝瑳郡の役であったともされている。『続日本紀』神亀元年(724年)2月22日条によれば、香取神宮の大禰宜香取連五百嶋が、私穀を陸奥国鎮所に献じた功績により外従五位下に叙されているが、匝瑳郡に鎮座する式内社老尾神社の祀官は香取氏であり、香取連五百嶋は匝瑳郡に居住したとも、あるいは年老いて大禰宜を辞した後匝瑳郡に引退したともされ、匝瑳郡や信太郡との関係が伝えられ、香取神宮と物部氏との関係も説かれる。『将門記』には平良兼が、上総国武射郡から、当郡の神前の津(神崎町)を経て常陸国信太郡の苛前の津(江戸崎町)に渡ったとある。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、神崎町・多古町・東庄町のほか、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
出典:wikipedia
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