海上郡(かいじょうぐん)は、千葉県(下総国)にあった郡。匝瑳郡と合わせた地域が海匝と呼ばれ、香取郡も合わせ香取海匝と呼ばれる場合がある。もとは「うなかみ」郡と読んだが、上総国の海上郡(上海上郡)と区別して下海上郡とも称された。後に「かいじょう」郡という読みが行われるようになり、戦後は「かいじょう」郡が公式の読み方とされた。下海上国造の領域を中心に編成された。下海上国造の領域は匝瑳郡、香取郡および鹿島郡の一部も含んでいたが、物部小事の坂東を征した功により匝瑳郡が建郡され、香取神宮と鹿島神宮の神郡として香取郡、鹿島郡が建郡され条里を割かれたとされる。なお、下海上国造の後裔を称する他田日奉神護が正倉院文書に遺した「他田日奉部直神護解」には、神護の祖父忍が孝徳期に海上郡少領であったことが書かれており、建郡(立評)に同意したことが伺える。また、当郡出身の他田日奉得大理は『万葉集』巻二十 防人歌に「暁の かはたれ時に 島蔭を 漕ぎ去し船の たづき知らずも」と詠んでいる。『続日本紀』延暦4年(785年)正月27日条では、大領の他田日奉徳刀自に外従五位下の位階が授けられ、『日本三代実録』仁和元年(885年)閏3月19日の条によれば、他田日奉春岳が、百姓の調庸を代納した功績により外従五位下を授けられている。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。
出典:wikipedia
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