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アイルトン・セナ

アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人の元レーシング・ドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。イギリス「」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出された。ブラジル最大の都市であるサンパウロ市の地主で、農場や牧場、小規模商店、自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者であるミルトン・ダ・シルバの長男として誕生。4歳の誕生日の際、父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、ドライビングに熱中。その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。また、8歳のころに工場のスクラップ寸前のジープをクラッチを使わずに走らせたという珍話もある。ただし、学業の成績に悪影響があれば、カートを辞めることが常に条件として課されていたという。13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。また、1978年にはイタリアのカートメーカー「DAP(ダップ)」と契約し、CIK/FIAヨーロッパ選手権に出場。CIK/FIA世界カート選手権で2位で表彰台を獲得。当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位入賞。カートレースのキャリアは1982年まで続いた。1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚。この頃から各メディアへのPR活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。1981年にヨーロッパに渡り、イギリスの名門レーシングスクールであるジム・ラッセル・レーシングスクールを受講し、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するが、父親との約束があったことに加えて、レース活動資金が不足したために引退を発表しブラジルに帰国した。しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く主張した妻リリアンと離婚。1982年には再びイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード2000に転向し、チャンピオンとなる。1983年にはイギリスF3に参戦し、開幕戦から9連勝を記録。後半戦以降マーティン・ブランドルの巻き返しを受け、一時は逆転を許すが、最終戦で再びひっくり返しチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。また、初めてF3規格で開催されたマカオGPにセオドールから参戦し、このレースを制している。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハが更新するまで、7年間にわたりコースレコードであった。この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向き名乗るようになる。当初、F1へステップアップする際にブラバムと交渉したが、当時ブラバムに所属していたネルソン・ピケがセナの加入に反対したため実現しなかった。その後、トールマンからF1デビュー。初戦ブラジルGPはターボトラブルでリタイアに終わったものの、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録。大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンに初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップを記録した。第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドである。トラブルや若手ゆえの粗さから安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行等、ドイツGPでの一時5位走行など、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数え、第4戦サンマリノGPでF1キャリア唯一の予選落ちを喫したが、それでもランキングではロータスのナイジェル・マンセルと並び9位に入った。シーズンの途中で翌シーズンからのロータス移籍を発表するが、トールマンとの3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件にロータスへの移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPでピエルルイジ・マルティニにシートを明け渡した。また、この年はF1以外にポルシェ・956で耐久レースにも参戦した。当時名門に数えられていたロータスに移籍し、通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨の決勝でもスタートから終始トップを走行、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差、3位以下は全て周回遅れにする独走劇で、念願のF1初優勝を果たす。シーズン前半は安定感に欠け、入賞レースがポルトガルGPのみという状況だったが、FLや連続PPを記録するなど速さは見せていた。シーズン後半には安定して結果を残し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台を記録。特に、雨模様となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪取、以後ゴールまで独走という、ポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回と少ないものとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、チームのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などから、レギュレーション違反を疑われ、検査がなされたり(結果的に違反は見当たらなかった)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、ニキ・ラウダらに非難され、後にセナが謝罪する事態となった。アンジェリスがシーズン後にブラバムへ移籍し、ロータスのチームマネージャーであるピーター・ウォーは後継のドライバーにデレック・ワーウィックを推そうとしたが、セナは強硬に反対し、「チームの資金を補うために1カー体制にすべき」と希望していた。結局ワーウィックの移籍は破談になったが、当時のワーウィックは実力者と評価されており、イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であったという説もあった。結局後継のドライバーは新人のジョニー・ダンフリーズとなった。前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年よりチームのエース・ドライバーとなる。シーズン前半は8戦中入賞6回と手堅くポイントを獲得し、第2戦スペインGP・第7戦デトロイトGPで勝利を記録。特にスペインGPでの勝利は、記録背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライのレースでのF1初勝利でもあった。しかし、シーズン後半はトラブル続きでリタイヤが多くなり、ポイントは停滞していった。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦オーストリアGPでは、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦イタリアGPにおいては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦ポルトガルGPでは、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しタイトルの可能性を逸した。最終的なランキングは4位。予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得するも、優勝は前年同様2勝に留まった。またウィリアムズ・ホンダ勢との争いの中、その強さを身をもって体感したことで、ホンダエンジンを手にしたいとの思いを抱くようになった。ロータスとセナは念願のホンダエンジンを獲得、これに伴いホンダと縁の深いルーキーの中嶋悟がチームメイトとなった。しかし実戦に投入した開発途上のアクティブサスペンションに不具合が多発し、苦戦を強いられる結果となった。それまでの2年間多数獲得していたPPも、この年は第2戦サンマリノGPのみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスペンションの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を果たすが、以後はシーズンが進むに従って成績が下降していった。第7戦イギリスGPでは3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1-4位独占の一角を占めるものの、1-2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢には周回遅れとされる。第11戦イタリアGPではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周というところで、最終コーナーにてコースアウト。ピケの先行を許し2位に終わり、この時点で5戦を残しチャンピオン争いから脱落した。ウィリアムズ・ホンダによって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇した。また、初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPでは、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダエンジンに母国での初表彰台をもたらしている。チャンピオンになるため、マクラーレンに移籍し、当時すでに2度のタイトルを獲得していたアラン・プロストとコンビを組むこととなる。セナの移籍に伴い、この年よりマクラーレンにもホンダエンジンが搭載されることとなった(一説ではホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている)。こうしてセナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンチームは開幕から連勝を重ねた。またチームはジョイントNo.1体制を取ったために、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる激しいバトルが再三行われた。2人のポイントが分散したため、コンストラクターズタイトルが第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPでスタート失敗による14番手転落から追い上げて優勝、自身初のタイトルを獲得した。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時の史上最多記録を更新するものであった。「ホンダRA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP・第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレン勢が他を圧倒した記録的なシーズンとなった。しかし、第13戦ポルトガルGPでの幅寄せ行為以降、2人の関係には溝が出来始めていた。初めてカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPでの通算34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。決勝では第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での紳士協定(案を出したのはプロスト)に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生(紳士協定事件)。これ以後、前年に兆候があった2人の溝は決定的なものとなり表面化、チームは大きな問題を抱えることとなった。その後セナは第4戦メキシコGPまで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦カナダGPは完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦日本GPにおいて、トップ争いの中で両者はシケインで接触。再スタートしたセナが、レース後に失格処分となったことを受け、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦オーストラリアGPに挑んだが、トップ独走中に周回遅れのマーティン・ブランドルに追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦ハンガリーGPのみという成績であり、安定感の差が総ポイントに現れる結果となった。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから一方的に「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス不発行の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月のことだった。前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナが謝罪という形により、開幕直前にライセンスが発行。この年の参戦が決定した。開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年にデビューしたティレルのジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦イギリスGP以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンに輝いた。ただし、その決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に両者が2年連続で接触するという後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこの接触が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触をプロストの故意によるものと捉えており、報復の意図があったことを示したが、大きな批判を受けた。当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が序盤はマシントラブルに苦しんだウィリアムズ・FW14の戦闘力で巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。弔い合戦となり喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを達成、6戦ぶりに表彰台の頂点に立った。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦日本GPは、それまでとは打って変わりマクラーレン勢が優勢となり、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPも制し、7勝でシーズンを終えた。この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップの座は譲らなかった。セナはこの年限りでマクラーレンを離れ、ウィリアムズへ移籍する考えを抱いていたが、ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年も残留することとなった。しかしセナ自身は後に「僕はあの時ウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ」と語っている。マンセルが開幕から5連勝するなど、ウィリアムズがアクティブサスペンションを実用化させるなどハイテク機器を搭載したFW14Bの圧倒的な戦闘力の前に、マクラーレンは劣勢を強いられた。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルのタイヤ交換の際にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでも、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨が強くなる中スリックタイヤで走行を続けるギャンブルに出たが、裏目に出て5位に終わっている。結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、ミハエル・シューマッハにも敗れて4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。さらに、セナに6年間エンジンを提供し続けてきたホンダが、この年をもってF1活動を一時休止を表明。休止発表の直後に行われた第13戦イタリアGPでは、ウィリアムズ勢に揃ってトラブルが出たこともあり、ホンダエンジンでは自身最後となる優勝を飾った。しかしホンダの母国ラストレースとなった第15戦日本GPでは、ヘルメットに日の丸をペイントした他、コクピット内に日の丸の小旗を仕込み、チェッカー後に地元の日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく振ろうと挑んだものの、僅か3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生、皮肉にもリタイア第1号となってしまう。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調を維持しながら、首位争いの中でマンセルに追突して両者リタイア。ホンダでのラスト2戦をリタイアで終えた。ホンダ撤退に伴い、この年のマクラーレンは、カスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対しワークス仕様の供給を求めたが、ワークス仕様の供給を受けるベネトンが当然これを拒絶したため認められなかった。このため、マクラーレンは1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られていた。ウィリアムズへの加入を意図しながら、かなわなかったセナは、マクラーレンチームに不満を抱いており、1993年の休養もほのめかしていた。前年チャンプとなったマンセルがCARTに転向したことから、セナもCART転向も考えるようになる。シーズン前には同胞の先輩であるエマーソン・フィッティパルディのペンスキーをテストドライブしていた。しかし、最終的には開幕直前にマクラーレンに残留する。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、最終的には全戦に出走した。開幕戦南アフリカGPでは予選2位から、一時はトップを走行しての2位。第2戦ブラジルGPでは、ペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイア、セーフティーカー導入も味方となり、撒き返して母国2勝目を挙げた。第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち、2連勝した。第6戦モナコGPでは、グラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。しかし、これ以後ウィリアムズが復調、雨のレースが無くなったこともあって、セナは表彰台にも立てないレースが続く。プロストにポイント差を広げられ、シューマッハや、プロストのチームメイトであるルーキーのデイモン・ヒルとの争いにも敗れることも多くなっていた。序盤の好成績から、第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンも序盤には未搭載だったアクティブサスペンションやTCSを装備することで、より戦闘力が向上しており、セナの成績向上には至らなかった。第13戦イタリアGPでのリタイアによりセナはタイトル獲得の可能性を失い、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、マイケル・アンドレッティに代わり同レースからチームメイトとなったミカ・ハッキネンに予選で敗れる出来事もあった(決勝ではスタートで先行した後、リタイヤするまで前を走っていた)。第15戦日本GPおよび最終戦オーストラリアGP(後者はこの年初となるPPを獲得)では連勝を飾った。結果的にオーストラリアGPでの勝利が生前最後の勝利となった(通算41勝)。同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていたデイモン・ヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にカート大会に参加、これが名実共に最後の「セナプロ対決」となった。長年慣れ親しんだマクラーレンを離れ、前年のチャンピオンチームであるウィリアムズ・ルノーへ、念願の移籍を果たす。マスコミなどはウィリアムズに移籍したセナが全勝するのではないかと予想する者までいた。しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常にナーバスなマシンに仕上がっていた。特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と漏らしている。開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイヤ。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と語っていたという。セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmで首位を走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で死亡した(以後、ジュール・ビアンキが2014年日本グランプリでの事故で翌年死亡するまで死亡事故は起きなかった)。事故直前の車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るもののマシンが曲がらないままコンクリートウォールに向かう映像が残っている。また、カウンターを当てたのか一瞬マシンが右に向く場面もあって謎が謎を呼び、その後自殺説やチームオーナーのフランク・ウイリアムズが追及されたりと、さまざまな憶測も飛び交うこととなったが事故原因の確定的な結論には至らぬままだった。死亡の直接原因はステアリングシャフトの頭部貫通によるダメージだった。セナの事故後、早急に該当部への改良がなされ、クラッシュした際にステアリングシャフトがドライバー側に動かないデザインとなった。※事故の詳細はウィキペディア英語版:w:Death of Ayrton Sennaを参照セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンス、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。セナの亡骸がイタリアから母国ブラジルに搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラスMD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。ブラジル政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「"NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS"(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を記念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称するなど、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーのために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐに彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った。1986年以前のセナは、予選では決勝レースに備えたセッティングには重点を置かず予選向きのセッティングを作り上げ、予選セッションに集中し、グリッド上位を狙って注目を集めていた。トールマンからロータス・ルノーで出場した1986年まではエンジンの信頼性が著しく悪く、強豪チームにアピールするため、また上位が崩れたときに確実に入賞するためこのような予選スタイルとなったとされる。しかし1987年にロータスにホンダエンジンが供給されることになり、その信頼性が充分であったため、前年までの決勝レースを無視するほどの予選アタックは影をひそめた。優勝した1987年第4戦モナコGP予選では、残り時間があるにもかかわらず「ここは2位でいい」と言いタイムアタックを中止。予選中から決勝レース用セッティングを始めるようになり、スタイルの変化が現れている。しかし以後も予選では速さを見せており、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーはまだいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、最多記録を更新したシューマッハでさえ25.3%に留まっている。予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数が19回(2011年シーズン終了時・歴代11位タイ)は、勝利数41回(歴代3位)、PP数65回(歴代2位)に比較して目立って少ない。セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。セナ以前にもケケ・ロズベルグが「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤを採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークが、ノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、アクセルワーク自体が無視されてしまうという、セナだけにしかあり得ないトラブルが発生していた。この問題の解決には四苦八苦したとのこと。セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と語っている。これらから、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現は不可能との結論に達している。このテクニックにより、多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている。1989年第12戦イタリアGP・モンツァ・サーキットでは、予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、ホンダV10エンジンをプロストより1000回転も高い領域で使用していたという。後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「セナ足による細かいスライドを打ち消しつつ旋回するため、車をアンダー気味にセッティングしておくことで、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。日本のサックス奏者本田雅人がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないことを告白している。危険が増すコンディションを嫌うことはレーシングドライバーとしては普通の反応であり、雨のレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。雨と同時に、ストリート(市街地)コースを得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた。走行した6ストリートコースのうち、デビュー年のみの開催だったダラスは未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録している。モンテカルロでは5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、スパ(2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、デトロイトでは3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP(フェニックス、モンテカルロ、スパ、アデレード)の勝者がいずれもセナであった。パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のあるイモラも、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。逆に鬼門とされていたのはモンツァ、エストリル、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグア・インテルラゴスなどである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは一勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみとなった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中のスピンなどが発生している。また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは母国においても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝利率を記録しており、この面では対照的な結果が残ることとなった。その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言内容として驚きだ」「我々F1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「僕には僕の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンであるジャック・ブラバムは、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた。後述するトップ・ギアのセナ特集でマーティン・ブランドルは「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくるんだ」と語っている。セナは神経質で内向的な性格と言われていた。ただ、マクラーレンでコンビを組んだゲルハルト・ベルガー、ウィリアムズでチームメイトだったデイモン・ヒル、トレーニング・ジムで知り合ったティエリー・ブーツェン、ブラジルの公用語であるポルトガル語を話せるペドロ・ラミー、同胞で後輩のマウリシオ・グージェルミン、ルーベンス・バリチェロらとは良好な関係を築いていた。バリチェロが94年のイモラにおいて事故を起こした際には、その入院先に家族よりも先に訪れ、意識を取り戻すまで付き添っていた。バリチェロは目覚めた時にセナが傍らに居て驚いたというエピソードを後に語っている。ロータス時代チームメイトだった中嶋悟は、「彼は、レースの闘い方やコースのこと、(マシン)セッティングのこと、そして、政治的なことまで全てをつつみ隠さずアドバイスしてくれた」「彼ほど性格が真面目なドライバーを見たことがない」と語っており、またF1で心から話が出来たチームメイトはセナだけだったと語っている。2度の選手権王者となった1990年頃には、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦ベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている(詳細はエディ・アーバインを参照)。この一件では6か月の執行猶予付きで2戦出場停止処分を受けた。ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルは、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、89年鈴鹿のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。これらの構図は、慢性的にF1界を取り巻いてきた欧州封建の側面と対峙するかのようなセナの姿勢を印象付け、特に欧州圏外での熱狂的なファン獲得に繋がった要因とも言われている。1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいなかった。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件で、ホンダのエンジニアのセナへの評価や信頼が上昇することとなった。1988年の鈴鹿でのレース後に、セナはアラン・プロストと共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、お礼を言われるとは思ってもみなかったので、ほとんど食べず、ただ涙を流していたという。レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピーは「Just move it」。また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。2013年、ホンダは1989年日本GPにおけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを3DCGで再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した。1987年はロータス、1988 - 1992年はマクラーレンで通算6年間ホンダエンジン搭載車でドライブした。なおここでは記録のパーセンテージのうち小数点以下は四捨五入して掲載している。ドライバーズタイトル、優勝、PP、FL、通算ポイントといずれもホンダエンジンのドライバー別通算記録の中で最多記録となる。関連人物CM出演公式ウェブサイト非公式ウェブサイト

出典:wikipedia

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