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巡洋戦艦

巡洋戦艦(じゅんようせんかん、, )は、強力な攻撃力を持つ大型巡洋艦を指す。戦艦と同等の大口径砲を持ち、戦艦よりも長大な艦形で大出力機関を搭載し、高速性能を持つ。装甲巡洋艦(Armored cruiser)を発展させて誕生した。第二次世界大戦までは戦艦とともに主力艦の扱いを受けた。最初にこの種の艦を1908年に建造したイギリス海軍の定義では、「戦闘巡洋艦」、すなわち広義では巡洋艦で、攻撃力は戦艦に匹敵する艦種を指す。高速力を持つが、防御力は装甲巡洋艦と同等のままである。各国で差異はあるものの、巡洋戦艦には共通したいくつかの特徴がある。巡洋戦艦はイギリス海軍のジョン・アーバスノット・フィッシャー大将の執念によって創造された艦種である。それは単に装甲巡洋艦の任務を継承するだけでなく、同大将の構想による造艦術の革命的作品と称賛された戦艦ドレッドノートの艦隊に随伴するのにふさわしい偵察兵力として生まれた。要するに主任務は偵察で、程度の差こそあれ、巡洋戦艦は最初から敵の戦艦だけでなく、同等の巡洋戦艦とも戦わない艦種になっていた。フィッシャー大将の考えた巡洋戦艦の任務は以下の5つである。日露戦争の黄海海戦(1904年)と日本海海戦(1905年)では、日本海軍の有力な装甲巡洋艦8隻(例:「出雲」)が戦艦4隻(例:「三笠」)と協力して活躍し大きな戦果を挙げた。イギリス海軍は、上記海戦での戦艦主砲の威力、また同時に中間砲の射弾観測の困難さを重要視し、中間砲を廃止して主砲口径を統一することにより、主砲門数にして従来の2倍以上(従来型4門に対して10門(片舷8門))を持つ戦艦「ドレッドノート」を1906年に建造した。これと同時にこの考え方を装甲巡洋艦にも適用して、洋上で出会うあらゆる巡洋艦を撃滅し得る強力な超装甲巡洋艦が必要であると考え、1908年に同じ30.5cm連装砲4基8門のインヴィンシブル級が誕生した。建造当初はこれらの艦は装甲巡洋艦に分類されていたが、戦艦並みの火力を有するインヴィンシブル級は、1912年に巡洋戦艦という新しい艦種名に分類されることとなり、後に筑波型・鞍馬型もこれに分類された。イギリス海軍において弩級戦艦の性能は順次拡大され、弩級戦艦から既存の主砲口径を凌駕する34cm砲を持つ超弩級戦艦へと発達するにつれて、巡洋戦艦も超弩級巡洋戦艦へと拡大発展して行った。同時に、巡洋戦艦は、イギリス以外でもドイツと日本(金剛型)で続々と建造された。イギリス式巡洋戦艦の特色は、主砲こそ同世代の戦艦と同等の物を搭載したが、防御装甲を装甲巡洋艦並みに留めた代償に、装甲巡洋艦を凌駕する高速性能を持っていたことである。というよりも装甲巡洋艦の砲力を戦艦並みに引き上げた"超装甲巡洋艦"が、巡洋戦艦の発祥である(最初の巡洋戦艦であるインヴィンシブル級は当初は装甲巡洋艦に分類されていた)。ゆえに英語表記ではBattlecruiser、直訳すれば戦闘巡洋艦と呼ばれるのである。この考え方はフォークランド沖海戦でドイツ装甲巡洋艦に対して火力と速力の優位性により見事なまでに達成された。しかし、ドイツ海軍もまた巡洋戦艦を建造し始めたことに対応して、イギリス海軍の建造したライオン級は、装甲巡洋艦よりもやや強力な装甲を持つが格下の弩級戦艦や同格の巡洋戦艦の火力にも耐えられない物だった。さらに主砲口径を38.1cm連装砲3基6門に強化し、速力29ノット台を達成したレナウン級は、代償として防御能力はインヴィンシブル級の時代に逆戻りしてしまう程の軽防御であった。もっともこれは戦時緊急計画に基づく建造期間の短縮による制約を受けた物である。最終型の「フッド」は第一次世界大戦の戦訓により一部の装甲のみ厚くし、部分的には戦艦に準じる垂直防御を備えるに至った。このように巡洋戦艦は、結果的に巡洋艦というよりも高速戦艦に近い艦種に発展していったため、「自艦の搭載する主砲弾の攻撃に耐えられるだけの装甲を施すのが戦艦のセオリーであるが、それを満たさない艦が巡洋戦艦」という定義が広まったが、あくまで後づけの定義である。ただし、こういった後づけ定義が広まる以前は、ガングート級戦艦やクイーン・エリザベス級戦艦など、防御力を妥協して速力を優先した艦も戦艦に分類されている。後づけの定義が広まった以降は、ドイツが戦艦として建造したシャルンホルスト級を、その「防御力の弱さ」を理由に英国は巡洋戦艦に分類している。ドイツ海軍における巡洋戦艦の設計思想は、当初から英国巡洋戦艦に直接対抗すべき艦として計画されていた(つまり、最初から巡洋戦艦との戦闘を考慮して設計されていた)が、自国の大口径砲主砲およびボイラー技術・大型艦用タービン主機の製造能力の遅れなどの要因から、イギリスの同種艦と比べてコンセプトは若干異なった。ドイツの巡洋戦艦の特色は、同時期建造の戦艦よりひとクラス小口径の砲を選択する反面、防御能力は自国の装甲巡洋艦以上でむしろ戦艦に次ぐ装甲厚を持っていた(ドイツ巡洋戦艦の各部装甲の厚みはイギリス巡洋戦艦を上回り、イギリス戦艦の装甲厚に匹敵していた)。これにより、イギリス巡洋戦艦と正面切って撃ち合って、敵艦からの被弾に耐えつつ、敵艦を確実に撃沈し得る砲力を備えるに至り、この考え方はユトランド沖海戦では一定の成果を証明した。が、結局戦艦との砲戦では早期に戦闘力を失うなど限界もまた露呈し、また巡洋戦艦本来の特徴であるはずの航続力・長期航海のための居住性に関してはイギリス巡洋戦艦に劣っていた。なおドイツ海軍においては、巡洋戦艦は特に新たな類別等級を設けることなく、従来からある「大巡洋艦(Großer Kreuzer)」にそのまま分類された。これは、リスク論理に基づく国家予算上に制定された法律である艦隊法によるもので、ドイツ海軍の大巡洋艦とは、他国海軍でいう装甲巡洋艦や重巡洋艦も含む艦種名である。また、イギリスのライオン級を元に設計されたのが、日本海軍の金剛型「金剛」である(当時の日本の造船技術では独自で設計、建造に無理があったため)。金剛型1番艦「金剛」は英国ビッカース社で建造され、その設計図・造船技術を元に、「比叡」・「榛名」・「霧島」の3隻が日本国内で建造された。金剛型はライオン級をベースに不具合を改善すべく見直されており、防御要領や艦内配置が大きく改設計され、特に主砲には当時の主力戦艦にも採用していない35.6cm砲を採用した。金剛型の設計経験をもとに英海軍はライオン級4番艦として準備されていた「タイガー」を金剛型をベースに設計を変更し別クラスとして建造した。また、それ以前に日本が建造した筑波型・鞍馬型も、装甲巡洋艦よりも強力な防御装甲を持っており、後の八八艦隊型巡洋戦艦も比較的重防御であって、一貫して主力艦隊と行動を共にするように考慮されていた。Battlecruiserの和訳としては巡洋戦艦という呼称は適切ではないが、この日本海軍の使用目的に従えば巡洋戦艦という用語は適切であるといえる。ただしその日本海軍も、当初は筑波型・鞍馬型を一等巡洋艦に分類しており、巡洋戦艦のコンセプトとしては装甲巡洋艦の強化を出発点としている。巡洋戦艦は、強力な砲力を持ち高速力を有するゆえに、戦艦よりも使いやすい艦種として活躍する機会が多かった。この2回の戦闘で、巡洋戦艦の有用性と装甲巡洋艦の時代遅れが明らかになった。第一次大戦の戦訓からイギリス式設計の巡洋戦艦の防御力は実戦では危険極まりないことが明らかになり、建造中の「フッド」や設計中(日本の八八艦隊)の巡洋戦艦は大幅な改設計が行われた。また第一次大戦後に残った各国の巡洋戦艦は、軍縮条約の制限下で、戦訓による防御力強化の改装が行われた。特に金剛型巡洋戦艦は、第一次改装によって甲板防御と水中防御が強化された代償として3,000トンも重くなり、速度が27.5ノットから25ノットまで低下、艦種を「戦艦」に変更されてしまった。しかし、既存の日本戦艦に比べれば弱防御のままであり、低下したとはいえ速度は従来のドイツ巡洋戦艦並みである。金剛型はこの後、第二次改装で機関出力を2倍に強化し、速力30ノットの高速戦艦に生まれ変わった。英国のレナウン級「レパルス」と「レナウン」は、世界恐慌で改装する予算が付かず、朽ちかけていたが、ドイツのポケット戦艦に対抗するために予算が付き、第一次改装(舷側装甲が152mm→240mm)が実施され防御力強化された。更に、ドイツの海軍増強に対応するため、新戦艦の技術を用いた第二次改装が計画されたが、「レナウン」の改装中に第二次世界大戦が勃発したため、「レパルス」は改装する機会を失い、そのまま実戦に投入された。艦歴が比較的若く、基本性能が優秀であった「フッド」は、大規模近代化改装どころか軽度の改装すら引き伸ばされ続けたために対空火器の強化程度で実戦投入され、その速力も戦艦並みに劣化していた。第二次世界大戦には日英あわせて7隻の巡洋戦艦+元巡洋戦艦が参加したが、終戦まで生き残ったのは英国のレナウン(1948年に売却)だけであり、防御力を強化したといってもやはり脆い艦種であった。しかし、日本の金剛型は主力艦で唯一30ノットを出せるクラスとして(あるいは最旧式の戦艦として出し惜しみせず)酷使されたがゆえの全損失とも解釈でき、一概には言い切れない。なお、金剛型は改装時の速力低下に伴い戦艦に分類されているため(第2次改装で速力は向上するも巡洋戦艦に分類されず)、分類上は元巡洋戦艦である。各艦の最期は次のとおり。数字は完成年、完成時の排水量、速力、主砲、舷側装甲厚さ完成艦のないクラスのみを列挙(ただし計画のみのものを除く)。数字は1番艦起工年、完成時の予定排水量、予定速力、主砲、舷側装甲厚さ(敗戦のため中止) (ワシントン条約により廃棄)(ワシントン条約により廃棄)/ (ロシア革命のため中止)第一次大戦終了後から第二次世界大戦までは、ワシントン軍縮条約の制約と経済恐慌の影響で、大艦巨砲主義は一時中断となった。この時期にドイツが建造したドイッチュラント級装甲艦(ポケット戦艦)は、1万トン台の排水量でありながら前大戦時で巡洋戦艦に多用された28cm砲を持ち、各国の戦艦よりも高速の26ノットを発揮した。このクラスに対してイギリスは巡洋戦艦で対抗可能であったが、巡洋戦艦を持たないフランスはこれに対抗するため、既存の戦艦よりも高速なダンケルク級戦艦を建造した。主砲の33cm砲は、新型の長砲身砲であり、重量級砲弾と相まって、イギリスの38.1cm砲に匹敵する攻撃力を持っていた。また集中防御方式による堅牢な防御は、メルセルケビール海戦において能力が実証された。こうした艦は、防御力と高速性能を重視し主砲口径をやや小さなものを選択するという意味で、第一次世界におけるドイツの巡洋戦艦に類似する性格のクラスであった。ドイツは、ダンケルク級に対抗するためにシャルンホルスト級を、前級のマッケンゼン級をベースに設計した。しかし、ヴェルサイユ条約による制約と主砲開発の遅れからより長砲身となったものの威力に欠けた28cm砲を搭載せざるを得なかった。また艦体の設計開発においても立ち遅れ、近距離砲戦用の垂直装甲の防御性能は数値上では一応自艦の28cm主砲弾に耐えられるものを持つが、現実には主装甲の上下幅が非常に狭く防御範囲が限定されるために劣っており、また遠距離砲戦や爆撃に対抗するための水平防御はさらに劣るという、いささか前時代的なコンセプトのクラスとなってしまった。最後の巡洋戦艦と呼べる艦は、アメリカが建造したアラスカ級大型巡洋艦で、これはドイツのシャルンホルスト級と日本の新大型巡洋艦計画(アメリカは情報分析によりこの計画を察知したとされるが完全な誤報で日本にそのような建艦計画はなかった)に対抗するための計画艦であり、主砲は30.5cmだが重量級砲弾を50口径の長砲身砲で撃ち出すことにより遠距離での貫通能力を高めた。もちろんアラスカ級はその主砲口径・装甲厚・速力を他国の巡洋戦艦と比較して類似点が多いことをもって巡洋戦艦と「呼べる」存在であったものであって、アメリカ海軍自身はあくまでもアラスカ級の種別を「大型巡洋艦」としており「巡洋戦艦」とはしていなかった。なお、アラスカ級は艦隊護衛の防空任務にのみ投入されて水上戦闘は行っておらず、「巡洋『戦艦』」としての実戦能力は不明である。最終的に、防御力を改装で強化した巡洋戦艦と速力を設計段階から重視した新世代の戦艦とは、性能的に大差ない存在となった。ワシントン軍縮条約明け(日本の脱退)にともない、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級、ドイツのビスマルク級、および、フランスのリシュリュー級と、30ノット&長砲身15インチ砲搭載の4万(名目は、3.5万)トンクラスの建造競争が続いた。最後に、その集大成といえるアメリカ海軍のアイオワ級が建造された。アイオワ級は火力に見合った防御を有していない艦、戦艦でありながら巡洋戦艦的性格が残っている艦という評もある。しかし、交戦国の戦艦が戦没して消滅し、アイオワ級の防御は検証されることなく終わった。また戦艦そのものが、独力で航空打撃力に抗しうるものではなく、コストパフォーマンスと運用の悪さからも時代遅れの存在と化し、順次消えていった。旧ソ連海軍のキーロフ級ミサイル巡洋艦は、排水量では出現した当初の巡洋戦艦を上回る大艦であり、ジェーン海軍年鑑において巡洋戦艦に分類されている。しかしこれは現代的なミサイル艦が大型化したものであって、上記で紹介された第二次世界大戦までの巡洋戦艦とは全く性格が異なる艦である(ただし現代水上艦としては珍しく装甲防御を施しており、その意味では巡洋戦艦的と言える)。イギリス海軍における巡洋戦艦の艦種略号はBattleCruiserの2文字をとって「BC」である。アメリカ海軍は巡洋戦艦の艦種略号としてイギリスとは異なる「CC」を定めていたが、巡洋戦艦として完成した艦を保有したことが無いのでCCをつけられた艦は存在しない。アラスカ級は大型巡洋艦(Large Cruser)を略し、ただしCLは既に軽巡洋艦(Light Cruser)に用いられていたためBigのBを後ろにつけて「CB」とされた。

出典:wikipedia

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